第三部 一.「救済と自殺未遂」

自己探求の過程で、あるとき突然全く変わってしまうこともあれば、変化の中にあって自分では気づかないうちに大きく変わっていることもありました。それは、周囲との関係の変化や、落ち着いた後に振り返ってみれば分かります。

調和に向かうとき、その道筋は定められているように感じます。しかし、正しい道順はあっても、それは人それぞれで、本人はそれを知ることはできません。
そのため、自分で意図的にバランスを取ろうとするのではなく、信頼して委ねて、目の前にあることを受け入れて進んでいくことが大事だと学びました。
そのことを学ぶために、私はこれまで多くの努力をしてきました。

旅の終わりは、僧院での(一時)出家でした。流されるまま、縁とタイミングで行き着きました。特に期間も決めていませんでした。しかし、滞在が始まって半年くらいしたころ、コロナの流行で空港が閉鎖され、そのまま2年半ほど滞在することになりました。

その頃、強く孤独感を感じていました。誰かと一緒にいるかどうかは関係がなく、底冷えするのような、解消しようのないような孤独感でした。
子供の頃から一人で過ごすことが多かったのですが、それまで孤独感が問題になったことはありませんでした。

また、子供の頃の記憶がよく浮かんでいました。
私はごく小さな頃、たびたび妹を叩いて泣かせていました。それは私にとってトラウマのようなものでした。なぜそのようなことをしていたのか、そのときの感情などは覚えていなかったのです。
その記憶では、私が妹を叩いて泣かせようとします。しかし、一度叩いても、妹は我慢して泣きません。それを見て、私は慌ててもう一度叩いて、泣かせます。
この記憶は、私に不安や恐れを想起させ、ずっと自責の念と、これはほとんど無自覚でしたが対人関係での遠慮や恐れを起こさせていたのでした。
瞑想を続けていると、その記憶の続きを思い出すようになっていきました。
私が、二度目に妹を叩いて泣かせたあと、今度は安心がありました。そして、その安心は母親に叱られることによって得ていたことも思い出しました。
そうして、ようやく母親に注目をしてほしくて、妹を泣かせていたのだと気づいたのです。
このとき、ようやくそんな自分を認め、受け入れることができました。

そうして、そのときがきました。
僧院に滞在して1年くらい経ったころ、瞑想を始めて6年目でした。

何度目だったでしょうか、あれは確かに一瞥でした。
そのとき、それまではただ在ることしか分からなかった"それ"を、はっきりと認識したのです。
"それ"の性質、その完全さ、十全さが明らかになり、同時に、この世界、現象の不完全さも明らかになりました。

世界の不完全さは、私を諦めさせました。不完全でしかなければ、もう許せないという思いは維持できなくなりました。許す許さないという選択(条件付け)のない無条件の許しを感じました。

世界の非実在性、つまり幻想であることを認めたとも言えます。
そこで、過去はすべて夢のように幻となりました。これまでの人生は一体なんだったんだろうと不思議に思うほどでした。
もう過去も未来も無くなり、それまでの後悔も、これからの不安、恐れからも解放されました。

仏教では、「苦しみ(Dukhha)」を理解するように説きます。
そして、それは「愛」でした。人は苦しみから学びます。そして、楽によって癒されます。楽も苦しみも必要でしたし、すべてはなに一つ欠かすことのできないものでした。
そう感じたとき、すべてに感謝し、圧倒的な救済感覚に、もうすべきことはないと感じました。

そのとき私は、不完全な世界から、完全な"それ"に向かおうとしました。
それまで、全てだと思っていたこの世界とは違う、より大いなるものを見出しました。その確かな実感に、それはこの世界の外側にあるように感じたのです。

そこで選んだのは自殺することでした。この肉体を捨て去ろうとしたのです。
それは絶望や悲観などではなく、感謝と達成感でした。そして、もうなにもかも許せたし、なにをしても許されると思っていました。

どのように死のうかと考えても、簡単ではありません。そこは僧院で、手元に刃物やロープもなく、高い建物もありません。考えていると、自殺することさえどうでも良くなってしまいました。そこで、そのまま着の身着のまま、ミャンマーのどこかで野垂れ死のうと思いました。もう生きるか死ぬか、任せてしまおうと。
そして、さあ行こうと立ち上がろうとしたとき、泣く母親の顔がありありと浮かんだのです。
そのとき、人の道を外れることは許されていないのだと悟りました。自分が世界への執着を絶とうとしても、世界からの執着、つまり無意識の執着は断つことができないと感じたのです。
そうして、死ぬことを断念しました。

修行の過程で、自殺しようとする人がいることも、それが適切な方法でないことも知ってはいました。しかし、それらの観念(知識)が吹き飛んでしまったほどの衝撃だったのです。
少し冷静になってみると、繰り返し見聞きしていた「教え」が頭に浮かびました。「世界の外へ行くことはできない。真理は自らの内にある(サンユッタニカーヤ)」
そこで、死のうとした自分の愚かさを恥じました。

この体験による変化は、瞑想の感覚にはっきり現れました。
座って目を瞑ると、時間が無くなったのです。そうして、何時間でもそのまま心地よく座っていられるようになりました。
それまでは10分経ったのか、数時間経ったのかは普通に分かります。しかし、そのときにあるのはこの一呼吸のみで、どれだけ瞑想しているのか全く分からなくなるのです。
周囲は清々しい朝の日差しのような光に包まれ、朝なのか夕方なのかも分からず、身体も感覚も光になり、どこでどんな姿勢でいるのかも分からず、ただ安らぎだけがありました。
瞑想を終わりにし、目を開けて、自分のいる場所や時間を認識するまでに少し時間がかかるほどでした。

もう孤独という感覚は無くなり、誰かと話したいという欲求も無くなりました。また、人助けをしたいという思いも無くなりました(助けが必要な人はいないと感じるようになりました)。
それからずっとこの感覚は変わらず、いつもつながりを感じるようになりました。

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