第四部 一.「ラマナ・マハルシの恩寵」

少しさかのぼりますが、瞑想を始めて4,5年ほど経ち、長期間のリトリートも心地良く過ごせるようになったころです。

ふと、なにかの存在を感じるようになりました。
そのとき、なぜか直感的に「ラマナ・マハルシがいる」と感じたのです。

実際に目に見えるのではなく、視界の外や死角になったところにいるのを感じます。振り返ったり、探してみましたが見つかりませんでした。
そして、なにか見える形でなにかが現れるのを望むこともありませんでした。
それでも、その存在感は強烈で、それを感じるたびに、そのときにしていたことや考えが止まり、意識がそれに向かいます。
ときにそれをとても近くに感じると、鳥肌が立つほどでした。
その超然とした雰囲気に背すじが正され、「なにか大事なことを忘れている」というハッとする思いが浮かびました。
大事なこととはなにか?なにを忘れているのか?よく思いを凝らしますが、分かりません。
そうしているうちに、その存在感は薄れていって、またいつも通りの感覚に戻っていきました。
それがある時期に頻繁に起こりました。

どうしてそれをラマナ・マハルシであると感じたのかは分かりません。
そのときまで、ラマナ・マハルシの存在は知ってはいましたが、強い関心を持っていたわけではありませんでした。
私にとっては「ゴータマ・ブッダ」がヒーローでした。
もちろん、今でもそうです。

それでも、ラマナ・マハルシを初めて見たときから、なにか言い表すことのできない特別な感じがあったのも確かで、ずっと気にはなっていました。

それから数年して、私は自己の内にある"それ"に気づきましたが、その非顕在のもの「空」に翻弄され悩まされていた。
実在("それ")への感覚はありましたが、それが本当にどこにあるのかまだ確信が持てなかったのです。
また、内にある純粋な心("それ")を発見していましたが、実在はこの非実在(世界)と分離しているようにも感じ、その間で心(想念)が揺れていたのです。
そして、その想念に振り回されないように、霊的な気晴らしをして過ごしていました。

そんなとき、久しぶりにその存在が現れたのです。そして、それがどんどん近づいてきました。そのとき私はベッドに横たわっていました。その存在が近づくにつれ、強烈な存在感に恐怖さえ感じました。「見てはいけない」そう思って、私は目を瞑って、それが通り過ぎるのを待ちます。
しかし、それは私のすぐそばまでやってきて、少し間があって、私の胸に触れました。そのとき、胸を中心に強い振動を伴う感覚が広がり、指一本動かすことができませんでした。
さらに、それはそのまま私の中に入ってきたのです。私は圧倒され、もはやどうすることもできず、ただ耐えるしかありませんでした。
しばらくして、落ち着いてくると、胸を中心に筋肉痛のような疲労感が残りました。
それ以来、その存在は現れることが無くなりました。

そうして、それから霊的な気晴らしがピタリと止んで、また再び意識が内に向かうようになり、読み書きや話すこともなく、ただ静かに過ごすようになりました。
それから、空白のような静かな半年を過ごした後に、ずっと手元に置いてありましたが、きちんと読むことのなかった「ラマナ・マハルシの対話」をふと読み始めました。

その内容は、私がそれまで経験してきたことと一致していて、多くのことは既に知っているように感じました。
読んでいるうちに、まるで自分が(ラマナ・マハルシとして)その対話に答えているような感覚になり、質問を読むとおおよそどのように答えるかも分かるような気さえしました。

このとき、私の実在("それ"、涅槃、真我)に関する知識が、ラマナ・マハルシによって認められ、確証されたのでしょう。
あのとき、ハート(胸)に植え付けられた種が花開いたのかもしれません。

本を読み終えて、顔を上げたとき、そのときがやってきました。


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ラマナ・マハルシは、グル(師)は内にいて、普遍的な真我("それ")であると言っています。
しかし、それでも象徴的な現れ(外)を伴うものでもあるとも言っています。

私にとって、ラマナ・マハルシはグルだったのです。
そうして、このように私は弟子になりました。

聖典の知識と師の教え、そして弟子になるという条件が揃ったときにだけ、真我の知識は達成される。

「ヨーガ・ヴァーシシュタ」

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