第四部 四.「出会いと別れ」

僧院から帰国するように言い渡されましたが、私は抗っていました。
しかし、そんな抵抗も虚しく、完全に降参させられることが起こりました。

あの体験(第四部 二.「母に抱かれて(サマーディ)」)をして、こちらに戻ってきてからは、私にはなにか執着するものが必要でした。そうでなければ、自分を維持できない(受け入れられない)ように感じていたのです。
それに応えるように、一匹の猫との出会いがありました。

私は"彼女(猫)"に愛着を持っていました。そして、"彼女"には私が必要だと思っていました。

しばらくしたあるとき、中国人の僧侶から、「あなたの猫が死んだ」と聞きました。案内されて行くと、その猫が雨に打たれて横たわっていました。
おそらく野良犬に襲われたようです。噛まれた跡もありました。激しいスコールで、血は洗い流されていました。

猫は冷たく、目を開けたままほとんど反応がないほどでしたが、まだ死んではいませんでした。
私が触れると、猫は私がいることが分かったような感じがしました。繋がりをはっきりと感じ、安心感か嬉しさに似た感覚さえあり、驚きました。

それは、初めて猫に触れたときのことです。ごく稀にやって来て、ご飯を求めて鳴き、すぐどこかに去っていく猫が、しばらく近くにいました。私も普段は野良の動物には近づきませんが、このとき何気なく、その猫の頭からお尻まで優しく撫でました。その瞬間、はっきりと繋がる感じがしました。
それから突然、猫が懐いてきて、狩りで獲ったトカゲを持ってきたり、私の身体によじ登ろうとしたりしてくるようになりました。

あのときのはっきりと繋がる感じが、死ぬ間際に撫でた瞬間にも感じたのです。
猫の体をタオルで拭いて、手を当て、頭を撫でていたら、心臓がどんどん動き出して、呼吸も目に見えて始まり、かすれた声で鳴き始めました。
周囲にいた人は、それを見て驚きながら、大丈夫だと私を励ましてくれました。

しかし、私は猫に生きていて欲しいとは思っていませんでした。日々よく猫を観察していて、猫が生きたいという欲求(生死の観念)を持っているとも思えませんでした。
ただ苦しみがなくなればいい、楽になればいいと願い、手を当てていましたが、このような処置はむしろ苦しみが続くのではないかと思い始めました。

ともかく猫を引き取って自分の部屋に連れて帰りました。部屋に連れてきて、思考を静めて、「どうしようか?」と問うと、すぐに「そっとしておいて欲しい」と浮びます。少しして、やっぱり撫でてあげたいと思って手を伸ばそうとすると、また「触れないで、そっとしておいて」と強く浮かんだので、もうそのままそっとしておきました。
猫がいつもその上で寝転がっていた、私が身につけていた古い法衣で包んで、静かに見ていると、どんどん呼吸が少なくなっていって、そのうち止まりました。
その後、数時間瞑想をして部屋に帰ると、もう身体が固くなり始め、蟻が集まって来ていたので、地面に埋めました。

"彼女(猫)"は何者だったのでしょうか。
私自身であるようにも感じていました。
そして、猫は去っていきました。
私は半身を失ったような深い悲しみに直面しました。

しかし、驚くことに、悲しみは確かにあるはずですが、それを感じる人は誰もいませんでした。
内に向かって静まっているとき、悲しみはあっても、悲しむ「私」がいないことを感じました。
悲しくないわけでもなければ、悲しいわけでもなく、全体に溶け込んでいるような静けさを感じます。
瞑想をすると、透明な心に、穏やかな世界が映っているが見える(感じる)のです。

しかし、意識が外(想念)に向かうとき、悲しみがやって来ます。
猫との生活は、僧院での少ない習慣の中心にあり、ふと悲しむ自分(想念)を見つけます。考えるほど、悲しみます。
そうして、必要なだけ泣きます。
すると、生命の実相について理解し、悲しみから解放されます。

世界を否定してもうまくいきませんでした(「第四部 三.生(聖)の葛藤」)。
世界を肯定して愛着を持とうとしてもうまくいきませんでした。
こうして、世界への残った執着(二元性の名残り、肯定と否定)がどんどん解かれていきました。

そうして、私は日本に帰国し、新たな生活を始めることになりました。

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