第二部 四.「放棄と自由への恐れ」

瞑想(仏道)修行を通して、感情から解放(浄化)されていくにつれ、長期の瞑想リトリートも困難ではなくなりました。
それまでは、同じ場所で、沈黙して、心を見つめていると、内から湧き上がるさまざまな感覚やそれに伴う感情に翻弄されていたのです。

思えば、これまでもある状況に困難(葛藤)を感じ、必死に耐え、あるとき「もう大丈夫だ」と思うと、状況がパッと改善されるということをよく経験しました。

瞑想を深めていくほどに、様々な洞察や特別感のある体験も起こります。私は力を得るほど、他者は自分よりも劣っているという想いを抱くことに恐れました。他者への観念や、やり取りの些細なことで、自分を責めていました。
しかし、そうして自分で抑えようとすると、他者との関係は硬直し、他者への良心まで抑えなくてはいけないように感じていました。

これまでの修行の原動力であった「善き人であろう」とするほど、葛藤を感じるようになったのです。

正直に弱音を吐いて、自分で間違ってると思いながらも吐き出し、そして、それを受け入れて叱ってくれる他者を必要としていました。
傲慢さは、愛されたいという不安であり、それを自分でも自覚はしていました。そうして高くした鼻をへし折ってくれる他者を、恐れながらも、求めていました。

感情を解放するためには、それを表現する必要があると思います。しかし、そのことによって、周囲の人や自分をも傷つけてしまう恐れもあります。
だから、そのときまで私には「戒律」というものが必要でした。
戒律を守ることで、私自身が戒律から守られていました。
しかし、その戒律は、知性的に正しくあろうとすることであり、感情的な好きか嫌いかの衝動とは、必ずしも一致しません。
この知性と感情の葛藤を乗り越える必要がありました。

そして、その人と出会いました。そのとき彼の目の奥に、あの光を見たのです。無限の彼方から届くようで、また自己の内から放たれるような澄んだ光です。
そのとき傲慢さと共に、まるで音を立てるように、自我が崩れ去ったように感じました。

物事を思い通りにしようと、コントロールしようとする欲求も、そのときすっかり無くなりました。コントロールをやめることで、選択という条件付けから離れて、無条件の自由を感じました。

そうして、瞑想のように座りながら、すべて投げ出してしまうと、自然に慈悲の祈りが生じ、歓喜に圧倒されました。
もう修行も戒律も、瞑想もなにもかもやめてしまいました。

しかし、少し落ち着くと無条件の自由さに恐れをも感じるようになりました。なにもする必要がなく、なにもしたいこともなく、なにをしても良いとき、目の前に先の見えない暗闇が広がっているような気がしたのです。
「今だけしかない」という感覚は、私にとって足のすくむ恐怖でした。
なぜなら、今しかないとき、未来の選択肢が無くなって宙ぶらりになるからです。

私はとにかくこれまで通りにしようとしました。そして、また旅に出たのです。私にとって旅は、瞑想のためでした。そうして、またただ習慣的に瞑想をすることにしました。
しかし、なにかを意図(努力)して行うということができなくなるとき、瞑想と瞑想でないものの違いがなくなっていきました。

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