スリが怖すぎるあなたへ -心理学的に解説してみた- #049
(いつもよりちょっと長いエッセイです。スリが嫌すぎてついつい職業意識を発揮して書いてしまった。暇と興味のある人は読んでください。)
ヨーロッパのとある街中、石で作られた噴水の淵に座り妻は言った。
「ここなら大丈夫。水の中からはスリが出てこないから」
ほっとした様子の妻の後ろで、筋骨隆々のギリシャ彫刻は頼もしく、水がめからは水が元気よく噴き出していた。
バックパックだけで2か月間、ヨーロッパや北欧を旅行していた我々は、スリが怖すぎたのだった。スペインやイタリア、フランス、ドイツの混雑した観光地に初めて訪れた私たちは、大統領のシークレットサービスのように、緊張感をもって周囲に目を配っていた。
ある時私は、臨床心理士・公認心理師として仕事をしてきたクリニックの仕事を辞め、妻と長期間ヨーロッパや北欧に旅行することにした。その準備として、向かう国の治安や危ない地域の情報や貴重品の持ち運び方、スリやボッタくりの手口やその防ぎ方について動画などで調べた。
ヨーロッパに詳しい知人たちに情報を求めると、彼らは意気揚々と「気づいたらバッグが開いていた」「後ろから来た人にひったくられた」「とにかく気を付けたほうが良い」など、たまに武勇伝も交えつつも、自らの危なかった体験を語っってくれる。
「安全に楽しんで無事帰ってくる」がモットーの私たちは、過剰なほど防衛した。GPSで追跡可能なタグ(air tag)を荷物に付け、毎日シャツの下にあせもができるほどセキュリティポーチを巻き、混雑している場所で周囲を警戒した。その甲斐あってか、2か月の旅の間被害に遭うことはなかった。
旅行の途中で仲良くなった旅行者や現地の友人からもスリやボッタくりについて繰り返し聞かされることになった。いろいろな情報に触れていくうちに、スリには一定のパターンがあることに気づいた。それは私が慣れ親しんだ、人の心理学的性質をうまく利用していた。
よくあるスリの手口は「注意の転導」というのをうまく使っている。スリグループの一人がターゲットの注意を逸らしている間に、別の誰かが財布やスマホを盗る、というのが王道だ。たいてい複数人で役割分担している。
ちなみに、ここでは強盗みたいに力で無理矢理奪う場合は想定していない。これが最も遭遇したくないものであることはもちろんだが、こればっかりは心理学がどうというより、周囲に気を配り、貴重品を見えないようにして、危険なところに行かない、屈強な人と一緒にいる、等の対策がよさそうに思う。ギリシャ神話の神々のような用心棒がいたら心強い。
スリを行う人を、私は「スリラー」と名付けた。複数の場合はスリラーズだ。
スリラーの注意の逸らし方には、シャツにケチャップなどをつけ「何かついてますよ」と声をかけるとか、レストランで大騒ぎする、水をこぼす、何かを目立つように落として拾わせる、道を尋ねる、等いろいろある。よくこんなに考えつくなと感心する。
ここで、人の「注意」について知っておいてほしい性質が3つある。
1つ目は「人の注意には容量がある」ということだ。これは、あるものに注意を向ける(意識を向ける)と、別のものに割ける注意の容量が減るということを意味している。
例えば車を初めて一人で運転する時、多くの人は余裕がない。
まずシートベルトをしてブレーキを踏み、エンジンをかけて、…そうそう、ミラーを調整して、と発車前からやるべきことは多く混乱必至である。運転中には周囲の安全を確保しつつ、足の感覚に意識を向けブレーキとアクセルを調整し、手に意識を向けてハンドルを操作する。初心者には複雑すぎてつらい。だから景色を楽しむ余裕はないし、話しかけられようものなら「ちょっと集中してるからだまってて!」と怒ることになる。運転に100%注意を向ける必要があるから、会話や景色に割く余裕などない。
運転に慣れると操作に必要な注意の量が減るので、景色や会話を楽しんだり、歌ったりもできるようになる。一人でドライブしながら気持ちよく歌い、車の中はオンステージとなるが、うっかり窓が開いていようものなら大惨事だ。
運転中にスマホを操作することが危ないのは、スマホ操作や動画視聴、SNSが注意を引きつけすぎて、運転に割く注意が減ってしまうからだし、飲酒運転が危険なのはそもそも注意がぼやけて、容量が減ってしまうからだ。スリラーたちが人の注意をうまくある方向に集中させることができれば、財布やスマホなどの貴重品から注意を逸らすことができる。
2つ目の性質は、注意は「本能的、自動的にネガティブなものに向いてしまう」ことだ。
こういう傾向があるのは、危険なものに注意を向けたほうが生き残る可能性が高かったかららしい。猛獣の気配と、綺麗な花、どっちに意識を向けてもよいし、できれば風流に花を愛でたいところだが、我々は猛獣に意識を向けてきた先祖の子孫なのだ。だからスリラーズが大きな音や騒ぎを起こしたりすると、脳は何か危険なことがあると判断して、そちらに勝手に注意を向けてしまうことになる。
そういえば、SNSやニュースで流れてくる政治家の不祥事や芸能人の不倫、紛争や事件などのネガティブな情報に、つい多くの人が注目してしまうのもこの性質のせいだ。それに人は外部だけでなく、自分の内側で生じるネガティブな考えや感情にも目を向けてしまうようにできている。将来の不安や過去の出来事に対する後悔や怒りについて「ぐるぐる考え続けること(反芻思考)」がうつや不安の大きな原因だということがわかっている。カウンセリングや心理療法では、そのような自分の思考のクセを理解し、うまく付き合えるよう練習したりもする。
(…文章が長くて、疲れてきましたか?私もです。こんなに長い記事がつなまよ日記にあっただろうか。しかし、スリラーズとの果てなき闘いのため、あとちょっとお付き合いください。知っておきたいことはあと1つ。)
注意の性質の3つ目は、「人は他者の言動に注意を奪われやすい」ということ。
私たちが生きていくには、多かれ少なかれ人とうまくやっていくことが必要だ。だから私たちは基本的に、他者からの評価に敏感で、人の言動に注意を払うようにできている。誰が敵で、誰が味方かを判断するために噂話が気になったり、自分が嫌われるんじゃないかと不安を感じたり、相手に好かれたいと思う。何か話しかけられると自然とそちらに注意が向いてしまうし、目の前で困っている人を見かけると放っておけなくなる。そこで、スリラーたちは、道を尋ねたり、何かを手伝ってほしいと声をかけてくる。
よくあるスリの手口というのは、こういう人の性質を利用して、あなたの注意の容量を奪うような出来事を起こし、注意を逸らしている間に目的を達するわけである。
(最後に、いよいよスリラーズとのたたかいです。あともうちょっと。)
じゃあ、どうすればスリを防げるのかというと、まず、スリラーたちがそういう性質を利用しようとしていると知っておくのが良い。
町中で知らない人から声をかけられたら、目的はあなたの注意を逸らすことにあるのかもしれない。自分の注意がどこに向いているかに意識的になれるとよい。声をかけられたり、まずは、自分たちの貴重品に注意を向けよう。財布やスマホを出していたら安全な場所にしまい、リュックやカバンは体の前に持っていく。テーブルに出しておくと、多くの国では煙のように消えてしまう。
話しかけられた場合には「無視をする」というのも一つの手だ。
そちらに顔を向けず、その場から立ち去るといったことだ。これは街中でミサンガとか何かを売りつけようとされる時にも有効である。慣れないと難しいが、実は断るよりも、相手の存在を無視するほうが相手は諦めやすい。ただ、落とし物に気づいて声をかけてくれるなど、相手が本当に親切な場合もあるので、一概に無視がいいというわけではないのが難しいところ。
観光地にいる私たちは、名所や食べ物を味わい、写真や動画を撮ることに多くの注意を払っている。スリラーたちは私たちの注意を逸らす必要もない。きっと彼らはそういう瞬間を狙っている。当たり前の結論のようで申し訳ないが、そういう場所では貴重品を彼らの目に入らない位置に持ったり、紐をつけたりして、私たち自身が自分の貴重品に注意を払わなくてもよいようにするのがよいと思う。
ただ、紐をつけていてもそのまま引っ張られたり、紐を切られたりすることもあるらしい。そんなのどうしたらいいのだか私はわからない。そういう場所にはなるべく行きたくないが、行かざるを得ないなら周囲を警戒するほかない。怖い。
スリラーズは狙いやすい相手を見定めている。
無防備で、貴重品が目立ち、景色や食べ物に気をとられているような人、ぼーっとした人。少なくとも私だったらそういう人に目をつける。ちなみに、私自身いつもぼーっとしているが、身体が大きいのと、貴重品が見えないので狙われなかったのかもしれない。私から見ても他に狙いやすそうな人が周囲にはたくさんいたので、大丈夫だったのかもしれない。ラッキーだ。
スリラーの注意を逸らすやり方は手品に使われるものと似ている。
彼らにだって、スリをしなくてはならない何かしらの事情はあるだろう。でも、その知識や技術を別の方向に使えばいいのに、素晴らしい手品師にだってなれるかもしれないのに。と、私は思ったりしている。
2024年9月30日執筆、2024年11月4日投稿
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