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私はおいしいごはんも食べたいし、「おいしいね」って言いたいし、言われたい

くつくつと煮える鍋から、まだ赤みの透ける肉を引き上げる。とかした卵をたっぷり絡めて、一口で。黄身のまろやかな甘みにお肉のうまみが一緒になって、またたくまにとけてゆく。

少ない初任給を握りしめ、予約もせずに訪れた文豪の小説にも出てくるすき焼き店。畳敷きの個室で、友人とふたり見つめ合う。


「お肉ってほんまにとけるんや……」
「こんなん初めて食べたな……」


老舗の格式に気圧され、思わず小声になる。憧れの味をしっかりと嚙みしめ、それから私たちは具材をひとつ口に運ぶたびに、「わ、とろとろ」「煮詰まるとまたご飯に合うね」と感想をこぼし合った。1か月かけて手にしたお金と引き換えに、たった数時間で消えてしまう口福。言葉にすれば、どうにか形に留められるような気がした。


おいしいものを口にしたとき、そのおいしさを詳細に説明してしまう私の癖は、思えばあの時から続いている。特別なごはんに限らず、食べ慣れたマクドのポテトだって「今日はいつにも増してサクサク」とか「長いのがいっぱい入ってる!」とか、何かしら「おいしい」以上の情報を言わねば気が済まない。

文章を書くために普段から特訓しているのか、「最低限おいしいものが食べられたので、これからどんなに会話が盛り上がらなくても、あなたと過ごしたこの時間を楽しかった思い出に振り分けますよ」というアピールなのか、はたまた目の前のもの以外の話題を探すのがへたくそなだけかもしれないが、味覚を共有することで五感が増幅される感じが私は好きだ。



食の好みってみんな細かく違って、みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって(p.142)


高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)の一文にショックを受けた。私にとって「おいしい」は、挨拶のようにささやかな「楽しい」であり、照れのいらない「ありがとう」だ。それで誰かが辟易しているなんて思いもしなかった。

振り返ってみれば、「おいしいね」の後にどうおいしいのか伝えてくれる人はそういない。はじめから本題モード全開で、一言も触れない人もいる。何千回、何万回と同じシーンを繰り返してきたつもりでいたけれど、その裏には私の及ばぬ考えがいくつも交錯していたのだろう。


プライベートであれば価値観の近い人を選んで付き合えばいいのだが、職場となるとそうはいかない。昼休憩、差し入れ、仕事終わりの飲み会……。たとえ相手の信念が理解できなくとも、あまりの熱量の違いに心乱されても、ともに食を囲まなければならない場面は必ずやってくる。本作は、どうしたって生じる異なる価値観の摩擦を、食品パッケージの制作会社のオフィスを舞台に、淡々と、それでいて生々しいリアリティーをもって描く。


芦川さんは食の営みをとても大切にしている。お店で食事をしたらわざわざ厨房に感想を伝える徹底ぶり。料理も得意で、しばしばレベルの高い手作りケーキを職場に差し入れしている。問題はそのタイミング。体調不良で早退した翌日に持ってくる。残った仕事の処理を任される後輩の押尾さんは、当然、快く思えない。


イレギュラーやトラブルに直面すると体調を崩しやすい芦川さんは、突然研修を休んだり、取引先への謝罪対応を代わってもらったり。明文化されていないが、周りの配慮で繁忙期も定時に近い時間で帰らせてもらっている。どうやらその分を別の業務でカバーしているわけでもなさそうだが、彼女自身は気に病んでいる様子はない。いつもにこにこと愛嬌を振りまいており、理想の丁寧な暮らしを謳歌するだけの時間と気力を確保しながら、パートさんや男性社員にも可愛がられている。


真面目な押尾さんは、業務のしわ寄せを引き受ける以上に、助けてもらう前提の彼女のスタンスや、彼女ばかりが半自発的に配慮される状況が気に食わない。


2人の先輩である二谷も、芦川さんのお菓子のばらまきにはうんざりしている。


手作りのお菓子を食べる時のマナー。大きな声を出しながら食べること。感動の演技を見せつけること。食べ始めの一口で「おいしい」とまず言い、半分ほど食べたところで「えーこのソースってどうやって作ってるんですか」と興味のないことを聞き、全て食べ終えたら「あーっおいしかった!ごちそうさま」と殊更に満足げに聞こえるよう宣言しなければいけない。(p.94)


職場に手作りのお菓子を差し入れる芦川さんとそれに群がる同僚を眺める眼差しは特に痛烈。1日3回、抗いようなく時間を費やさねばならないこと、生命維持のための行為に感情を動かさねばならないことに、疎ましささえ感じている。


「それじゃあ、二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」(p.17)


仕事終わりの飲み会で意気投合した押尾さんと二谷。だが実は、二谷は芦川さんと付き合っていて――


働き方の多様性を認め、ライフワークバランスを見直す風潮にありながら、きっと仕事量はどの職場も昔と変わらない。プライベートと一線を引く人、割り切りたいけど割り切れない人、なんだかんだ仕事が好きな人。互いのスタンスに口出しできない雰囲気と、溢れた業務をめぐる責任とが相まって、他者への理解は少しも近づいていない気がする。

物語は二谷と押尾さんの視点で進み、芦川さんの視点は描かれない。彼女がどこまで計算で動いているのか、本当に体調が悪いのか、最後まで分からない。切実な共感と他者というものの分からなさに打ちのめされつつ読んでいると、次第に昨今の職の軋轢と食の摩擦がどことなく重なってくる。


誰でもみんな自分の働き方が正しいと思ってるんだよね、と藤さんが言った。無理せず帰る人も、人一倍頑張る人も、残業しない人もたくさんする人も、自分の仕事のあり方が正解だと思ってるんだよ。(p.42)


芦川さんが早退した後、藤さんは押尾さんになだめるように言う。働き方への言及ではあるが、それは食にも当てはまるように思う。


本作には、物語の主軸となる3人だけでなく、他の登場人物たちの食に対するスタンスも描かれる。

みんなで食べる方がうまいと信じ、かたくなに部下を外食に連れ出す支店長。周りから見ればほぼセクハラに近い行為をする一方で、繁忙期でも家で夕飯を食べる上司の藤さん。ケーキを手放しで賞賛し、芦川さんをかばうことで自分を満たしているように見えるパートの原田さん。


生きるためには、食べねばならない。自分の命のために何の命を奪うのか、食っていくための金をどう稼ぐのか、私たちは生まれてから死ぬまで、ずっと向き合い続ける。

その中で、「しんどい仕事の後の飯はうまいけど、奢ってもらった飯はもっとうまい」とか「手料理はいいが素手で握ったおにぎりだけはいやだ」とか「心を開いていない人には食べられているところを見られたくない」とか。シチュエーションごとに細かく、細かく、自分独自のルールを積み上げていく。それこそ人によって舌で感じる味わいが異なるように、食に対する考え方は人の数だけ生まれるはずで、他人のそれを他人が感じたまま理解できようはずもない。


特定の条件下では、たったひとつのルールが採用されることもあるだろう。時にぶつかり、飲み込まれ、優劣がつくことだってある。そして、私も誰かとテーブルを囲むたび、彼ら独自のルールを知って、感心したり、ショックを受けたり、周りに合わせたりするだろう。

それでも蓄積したすべてをなげうって、完全に溶け合い、分かち合うことはたぶんできない。私は私の価値観を抱えて渡っていくし、誰かも誰かの信念に沿って歩いていく。

だから、明日も変わらず「おいしい」と声を輝かせ、その感動を言語化して盛り上がれたらいいなあと願うのだ、きっと。



◉高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)


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