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「対話」と「思考」の関連性 ~活発な「話し合い」授業から考える~

 「対話」することは良いこと、という流れが世の中にあるかと思います。
 

 確かに「対話」することで誰かと関わったり、悩みが解決したりします。
 「対話」がないと、分かり合っていない、分かってくれない、無視している…という状態になってしまうこともあります。

 では、そもそも「対話」とはいったいどのようなものを指すのでしょうか。
 

 今回は、学校現場における「対話」から、「思考」との関連性について整理したいと思います。


※数多の学校現場において、優れた実践をされている方々が多々いらっしゃることは承知の上で、学校現場で未だありがちな状況を例に挙げます。ご承知おき下さい。


1 学校現場における「対話」とその印象的な価値

 

 冒頭、「対話」することの価値について触れましたが、学校現場においてはことさら「対話」は良いこととされています。

 それは、現行の学習指導要領の中に「主体的・対話的で深い学び」が位置づけられたことで、より存在感を増しているようにも見受けられます。

 かといって、「対話」が、いついかなる時でも絶対正義かといえば、そんなことはないはずです。
 しかしながら、学校教育…特に義務教育段階では、ともすると「対話」していたからOK!授業は「対話」をする場だ!という向きも見受けられます。


 ちなみに、「対話的な学び」は、次のように述べられています。

子供同士の協働,教職員や地域の人との対話,先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ,自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているかという視点
【総則編】小学校学習指導要領(平成29年告示)解説
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/18/1387017_001.pdf


 あくまで、対話「的」な学びなので、世間一般における「対話」に限定してないことに留意は必要です。
※この「的」が付いていることで、幅を持たせた良さがある一方、若干ぼやけている感も否めません


2 活発に話し合った結果…どんな学びだったの?


 学校では、多かれ少なかれ授業研究(※呼称は様々)がなされています。
 教員が授業を公開し、教員同士で授業を見合い、意見を交わします。
 校内研修に位置付いていれば、テーマに沿って授業を参観し、議論します。

 そういった時ですが…子どもたちが活発に話したり、意見を交換していたりする姿が好まれることが多いです。


 なぜかという点に踏み込んでみると…まず、前提として、教師が一方的に話す、いわゆる講義型授業ではないことの証明が挙げられます。少なくとも、子どもが話していれば、一方的であることはないですから。
 次に、これが主ですが…「主体的・対話的で深い学び」の中に、「対話的」が含まれていることで、「子ども同士が話していれば、それは対話をしており、深い学びに至る条件を満たしている」という、いわば免罪符のような感覚が浸透している感があるからです。

 ただ、多くの場合、子どもが話すことは授業の目的ではなく、あくまでその授業の目標、つまり子どもがどのような力を付けたか…どのようなことを理解するのか、どのようなことを考えるのか、どのような態度で学習に取り組むのか…に向かうための一側面に過ぎません。

 子どもは楽しそうに話していたけど、どんな力がついたの??目標は??という授業は、実は少なくありません。


3 そもそも「対話」とは

 

 「対話的な学び」を語る前に、そもそも「対話」とは何でしょう?
 納富信留氏は、『対話の技法』(笠間書院,2020)の中で、「対話とは、二人(あるいは少数)の間で、主題をめぐって交わす言論である」とした上で、この定義が含む、対話と対話でないものの区別を以下のようにしています。

対話 と 対話でないものの5つの区別
Ⅰ 特定の相手 / 不特定の人々、匿名の多数(例:集会での議論)
Ⅱ 相互のやりとり / 一方的な語り(例:演説、説教、講義)
Ⅲ 交わす / 伝える(例:報道、説得、ディベート、書き物)
Ⅳ 一つの主題を共有 / 雑然とした話題(例:おしゃべり、雑談)
Ⅴ 言論行為 / 非言語コミュニケーション(例:身ぶり、合図、共感、以心伝心)

 定義だけではあいまいな部分を、わかりやすく区別しています。

 ざっと見ただけでも、ただ話しているだけでは「対話」とはならないことが分かります。
 ただ、現在の学校現場で意識されるのは「対話的な学び」なので、そこまで厳密ではないのでは?という声も上がりそうです。しかしながら、もともとの「対話」を知らずに「対話的」としてしまうのも、危険性をはらんでしまいます。


4 「思考」と「対話」の関連性

 

 では、授業の目標として掲げられることの多い「思考」と「対話」は、どのように関連しているのでしょうか。
 少し整理してみます。

「思考は、言葉を自分の内に向けて発する二次的な対話なのです。」
「言葉を語るとはそれをつうじて思考していくことであり、二人で言葉を交わすことは一緒に考えていくことです。したがって、対話の目標は、特定の主題についてお互いに知恵を出し合って進めていくことにあります。」
※納富信留『対話の技法』笠間書院,2020


また、宇佐美寛は、以下のように述べています。

「思考は、自分自身がするのである。自分が考えればいい。それなのに、なぜ他者と対話することが必要なのか。」
「『対話』の過程においては、自分一人で静かに長時間、思考する自由がない。考えをゆっくり文章に書く自由もない。」
「『対話』は表現・伝達、つまりコミュニケーションの技術なのであり、思考の技術ではない。」
宇佐美寛『対話の害』さくら社,2015


 両氏の知見を参考にすれば、対話は思考を促すものである一方、他者から見て分かる「対話」だけでは思考には至っておらず、言葉を自分の内に向けたり、文章化したりする過程を経て、思考がなされる、ことが分かります。
 

 確かに、授業の中で、他者が発言した瞬間、学習内容について理解できれば苦労はしません
 これは大人も同じで、他者が言わんとしていることを、話し合い中、その場で全て理解することは難しいでしょう。


 つまり、子どもがたくさん話しているだけでは、思考が深まっているかどうかは不明です。
 話し合うことが前面に出ている授業では、話し合っている以外の場面で、思考が深まっているかどうかを見取る必要がありそうです。


5 話し合う授業の価値は?

 

 では、話し合う授業の価値、もっと言えば「対話的」な部分の価値は、どのようなところにあるのでしょうか?

 それは、子どもが深く考える「きっかけ」となる点ではないでしょうか?
 それまでの子どもの考えが変わる、深まるためには「きっかけ」が必要です。
 
 きっかけがあることで、自分の中で自分の考えについて咀嚼し、考えを深めていくことにつながります。


 これは、きっと大人も同じではないでしょうか。
 誰かと「対話」することで、悩んだり、逆に悩みが解決したり、新しい考えが浮かんだり…でも、きっとその場で全て完結せず、家に帰って考えを整理するでしょう。この考えを整理している瞬間こそが、「思考」が充実している瞬間なのだと思います。


6 終わりに

 

 いかがでしたか?


 やや学校内の専門的な話になってしまったかもしれませんが、「対話」する時間と「思考」する時間、いずれも大事にすることで、どちらもより良いものになるかと思います。


 最後までお読みいただきありがとうございました^^

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