【エッセイ】「おいしい」の記憶
大切な3人からもらった大切な記憶
「おいしい」
初めての記憶は母。
まだ幼稚園入園前、母と二人でランチを一緒に過ごしていた。
ベランダ近く、足も届かない背の高いイスに座り、
父の大きな仕事机で、毎日ゆっくりと過ごすランチタイム。
メニューはいたってシンプル。
トースト。
日替わりサラダや卵料理。
私は、手で支えるのがやっとのマグカップに入った、甘い甘いホットミルク。
母はミルクティー。
BGMはFMラジオの洋楽。
ベランダから心地よい風が「最後の調味料」として加わる。
夜は、シンプルなのに素敵な食事がずらっと並んだ。
忙しい家事の合間をぬって、手早く食事の準備をする。
その後姿を眺めながら、調味料や食材の匂いで何が出来上がるのか想像してワクワクした。
豪華絢爛ではないが、とても優しく心が満たされる味がいつもそこにあった。
母の味はシンプルだが、食卓を取り囲む全ての空間が「おいしいの一部」になる事を教えてくれた。
私が入園すると、今度は父が我が家のシェフになった。
自宅勤務(今で言う在宅勤務)をしていたこともあり朝昼晩と三食毎日作っていた。
母の味が優しく一定しているのに対し、父の味はおもしろいほど不規則な味だった。
ダイナミックで複雑、最後の隠し味は「その日の気分」。
同じ味にはならないけれど、不思議といつも「おいしい」のである。
簡単なものや、何時間もかかる手の込んだものまで。
気が向き次第に色々な料理がドン、ドン、ドンと食卓に並ぶ。
私の味覚は、そのダイナミックと複雑で気ままな味に刺激され、常に満足そのものだった。
大人になっていく私の好みは段々うるさくなっていたが、そのリクエストに一つ一つ応えてくれた。
特別な日のスペシャルディナー、毎日のお弁当。
中でも学生時代のお弁当の記憶は少し特別だ。
毎朝、早起きして小さなお弁当箱に私の大好物をありったけ詰め込む。
甘い卵焼き、から揚げ、マグロの醬油漬けソテーなどなど。あまりの美味しさに一口、一口かみしめて食べる私は、昼休みも遊ばずお弁当を食べ続けるほどだった。
そんな日々積み重なっていく2人の「おいしい」に、祖母の豪快で繊細な味が加わる。
祖母はとにかく料理上手。
家族中、近所中の有名人だった。
祖母の母(私のひいお祖母さん)は小料理屋の店主をしていたほど、ちゃちゃっと手際よく惣菜を作っていたらしい。
それを受け継いだのが祖母だった。
遊びに行くたびにチューリップの形の唐揚げや季節のフライ、中華料理、創作料理にデザートなどなど。
とにかく、ありったけの食材と味のバリエーションでもてなしてくれた。
祖母の料理は大皿のデンとした盛り付けが特徴だった。
皆でわいわい言いながら、個々の皿に取り分ける。
賑やかさと豪快、絶対に毎回同じ味になる繊細さに、私の味覚は釘付けだった。
今、私は3人の「おいしい」を受け継ぎ、暇を見つけては両親や友人に食事をふるまっている。
ベースになるのはもちろん3人の「個性的なおいしさ」。
そこに私の未熟な個性を加え、「最強のおいしい」を目指し日々奮闘中である。
彼らから受け継いだもの、それは「おいしさは味だけで感じるもの」ではないということ。
その場の雰囲気、季節、一緒に食卓を囲む人、匂い、全てが味に変化し口元へやってくる。
悲しみや喜びといった感情でさえ味の一部へと変わる。
そして私たちの体へ入り一つに。
人は自分を取り囲む色々なものから感受性を広げている。
私は彼らのおかげで、その一つである味覚のアンテナを最大限に働かせることができた。
だからこそ、「おいしい」と思える味を日々吸収し「おいしい」と感じる気持ちを持って一日を過ごしたい。
一食、一食をどうしてもおろそかにできないのだ。
どれ一つ同じ味はなく、その瞬間だけの味だから。
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