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ピラニアとよばれた男

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総合格闘家、長南亮の半生を忘れないうちに振り返ってみる。 どのように格闘技と出会いそれを生業としたのか? 今格闘技を始めようと思っている人、始めたい人、始めたばかりの人、興味の…
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#バイク

帰郷

帰郷

鶴岡銀座

この冬鶴岡は雪が多かった。
1年と2ヶ月のD建設での寮生活だったけど俺は精神的に結構なダメージを負っていた。

Nさんとは最後の方はあれだったものの、ご馳走になったり世話になった部分はあったので帰る際に電話で一言挨拶だけはした。
そしてまた戻って来いと言ってくれていたタカヒロ君たちの事は地元に戻ってからも頭からずっと離れなかった。
下北沢にいたケンヤにはよく相談していたので彼は俺の気持

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働き者

働き者

修行編

巨漢のパンチパーマのNさんに俺はロックオンされた。
俺の現場に来いと言う。出稼ぎ爺さん軍団は懲り懲りだったので願ってもない班移動のチャンス。
俺はお願いしますと言い、爺さん軍団のバンから俺の道具を移動した。
Nさんの班は若者が多かったのだがタカヒロ君、ジュンジ君の兄弟と自分の一つ下の年も二人いて皆が青森の八戸出身だった。
若者達は真面目だったが出稼ぎ爺さん達とはよく喧嘩していた。
仕事の

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型枠大工

型枠大工

地元に戻ると関東の電車図や地図を広げてどこに住もうか考えた。
ここにこれがあるとか誰々がいるとか。
当時はスマホは愚かネットも広まっていない時代だったので紙媒体が頼りだった。

つくばサーキット…東京、空手、会社といろいろ考えた。
で、当時は何故か東京の玄関と言うと東北人の俺にとって上野がインパクトがあって上野から何処に住もうか場所を広げて考えた。
上野はアメ横があって当時は偽造テレカを売るイラン

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18歳

18歳

冬冬が訪れる。山形は雪が降るのでバイクは乗れなくなるのだが、皆が車を買い出すのでそれに乗せてもらって移動する事が多くなった。
学校に行く時はほぼ毎日のように母が雪道を運転して俺を送って行った。
俺は卒業が近いと言うのにこの後に及んでサボろうとしていた。
親に送ってもらっているのに申し訳ないのだが朝のホームルームで出欠の確認した後にバスに乗ってそのまま帰宅したりもした。
サボれば前はバイクで走ってい

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走り屋と暴走族と

走り屋と暴走族と

そんな時代

3年へと進級したものの引き続き学校へは行きたくなくて。そもそも高校の場所が遠過ぎたせいもあって(自転車で片道飛ばして30分)よくサボっていた。
自分で選んだ高校なのだが、このままじゃ絶対行かなくなると高校のある大山に住んでいるヒロアキの家までバイクで行ってそこから自転車で通う事にさせてもらった。

同じように学校の近くまでスクーターで行って空き地みたいな場所にスクーターを隠して登校し

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ライダー高校生

ライダー高校生

那須高原で正月にフクオとナルと3人で栃木のカーアカデミー那須高原に向かった。
免許代は親に貸してもらった。
県外に出る事の少ない我々にとって栃木遠征はちょっとした冒険だった。
鶴岡育ちの3人はまず電車を使う事がないから新幹線に乗るのもドキドキしたものだ。

教習所の合宿所はカプセルホテルで東北を中心にあちこちの県から暴走族やらアメリカン乗りやら集まっていた。
俺達は山形と呼ばれその中でも俺は大将と

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バイクと学校と将来と

バイクと学校と将来と

三中軍団

当時の鶴岡商業に通ってたフクオと連むようになった。バイクで加茂坂と言う峠を攻めるのだ。
最初は運転が下手でめちゃ遅かったので夜な夜なモトGPを見てライディングテクニックを研究した。
レイニーやドゥーハン、シュワンツが活躍していた頃だ。
金が無くて貧乏だったのでツナギなど買う金はなくジーンズやアーミーパンツを履いてコーナーを攻めていた。
バイクにのめり込んでコーナーを攻め続けているとどん

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手に入れた翼

手に入れた翼

柔道部

2年になると上田君は卒業して学校ににいなくて退屈になった。その代わり新入生が入学してくる。

そのタイミングで柔道部に入ってみる事にした。柔道は授業でやった事はあるがなんとかなりそうな気がしたのだ。

西校の柔道部は3年がごそっと卒業すると新3年生は2人くらいしかおらず2年も少ない。必死に部員を集めている状況だった。

顧問の先生には空手の方が大事だから空手の練習の合間にやらせてくれるな

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