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型枠大工

地元に戻ると関東の電車図や地図を広げてどこに住もうか考えた。
ここにこれがあるとか誰々がいるとか。
当時はスマホは愚かネットも広まっていない時代だったので紙媒体が頼りだった。

つくばサーキット…東京、空手、会社といろいろ考えた。
で、当時は何故か東京の玄関と言うと東北人の俺にとって上野がインパクトがあって上野から何処に住もうか場所を広げて考えた。
上野はアメ横があって当時は偽造テレカを売るイラン人などが沢山いたり俺としては十分に大都会でバイク街があって栄えていたのも刺激的だった。
レースをするならつくばサーキットに行けて、仲間のいる東京からもあまり離れたく無いと常磐線を辿った。
北千住、松戸。
松戸と言えばマンガのカメレオンに出てくる松戸苦愛が有名だった。
そして当時Mr.Bikeと言う雑誌に出ていたカスタムマシンのチーム“ランブルフィッシュ”(地元に分支部あり)の本拠地であったACサンクチュアリと言うショップも近くにあった。
と言う事で松戸辺りに職場がないか就職活動の為に再び東京に向かう事にした。

上京すると決めて高一から通っていた極真空手も辞めなければならない。
そう思って稽古の日に挨拶に行ったのだが、たまたま田畑師範が不在で代行の方が来ていた。
進路でバタバタしている時から足が遠のいていてこの日行くのにも非常に勇気が必要だった。
師範が不在だったのは少しホッとするところもあったのだが退会する上を伝えて体育館を後にした。

D建設

松戸のハローワークに行った。
土木系の求人で寮があるところを探したのだが寮付きの何件かの中にD建設と言う会社がありその中では給料が一番高かった。
型枠大工と言う仕事らしいが土方のバイトをしている時に少し見た事があったくらいで何をしているのかはよく解っていなかった。

後日ハローワークを通して面接させてもらう事になった。
確か今のTEPPEN GYMの近くにその会社の社長宅兼会社があった。
考えてみれば松戸は都会でも無いのだが当時、我が地元の鶴岡市はコンビニと言えばホットスパーとサンクスしか無くてファミレスや牛丼チェーンなど全く無かった。
俺としてはセブンイレブンやマックがあるだけで充分な都会だった。
ちなみにこの時期、山形県民はフジテレビを見る事が出来なかった。

面接の会社に着くと社長が「なんだぁ〜未経験か?」みたいな事を言いい、うちは経験者が欲しいと言い出した。
募集用紙には未経験者可と書いてあり最低賃金が30万と書いてあった。
話が違うじゃねぇかといきなりカウンターを喰らったのだが俺も高校卒業してから半年が経っていてウロウロしているような時間は無かった。

募集しているところに行ったのに働かせてくださいとお願いするような状況になり、だったらいいよ的に採用される事になった。
今思えばここは断ってもっと募集内容に嘘のない会社に行くべきだった。

上京

誕生日を迎え19歳になった。上京資金はたったの3万円。寮に入るからそれくらいで十分だと思っていた。
松戸と市川の間の矢切と言うところにプレハブの二階建ての寮はあった。
目の前に浄水場があり砂利の敷地の奥は運送会社の駐車場になっていた。

社長が部屋を案内してくれて相部屋になるヒデ君が後からそこに来た。6畳の部屋にこれから一緒に暮らす事になる。
ヒデ君は自分の3つ上で、その同級生のタカヒロ君とその弟で俺の一つ上のジュンジ君もどんな奴が入社したのか部屋にやって来た。
この3人は青森の八戸出身だった。
3人に自己紹介をして仕事の説明を聞いた。
※連絡先が無くなってしまい今頃どうしているのか会いたいです。もしこれを見ていたりしたらコメントで連絡ください。知っている人でも宜しくお願い致します。

寮には沢山住んでいたと思う。食堂には癖の強いおばちゃんが在住して30代から60歳越えの爺さんまで平均年齢は非常に高い会社だった。

最初の日、社長が去った後、ヒデ君達は飯に出かけて俺はプレハブに一人きりになった。
携帯も無い時代。
明日からどうなるのか?
思えばいつも周りに友人がいて話す相手がいた。
いろいろ不安になったし人生で初の孤独を感じた。
いつも温かい飯を食って洗濯も全部してもらって今まで何も不自由がなかった。親の有り難みが初めて分かった。
するとボロボロと涙が出てきた。

こんなにも俺は弱かったのか?その情けなさに気づき余計に涙が出た。
しかし明日からやるしかねぇ。燃える気持ちは胸の奥に沸々とあった。

仕事

朝6時にはバンに乗って現場に向かった。現場まで高速を使って片道1時間以上。
初めて見る高速の渋滞や3車線道路の車線変更などが新鮮だった。
四街道まで行ってそこにある市営霊園がはじめての現場だった。
仕事で指示をされた内容が型枠の解体の手伝いだった。よく解らないけどとにかく汗塗れになって運びまくった。
2週間くらいそれをやった。
型枠大工の仕事とは何か解らなくてがむしゃらに働いたのだが後から解ったのはこれは型枠大工の仕事ではないらしい。
それからあちこちの現場を雑用の要員として飛ばされまくった。
ヒデ君とはよく一緒にさせられていたのだが他の若い連中とは一緒になる事がほとんどなかった。

“吾々は礼節を重んじ、長上を敬し粗暴の振舞ひを慎むこと”
極真の道場訓の一つにこれがある。
礼儀をちゃんとして年上を敬い暴力など振るうなと言う意味で常に自分の中にはそれがあった。

多少理不尽でも従い一生懸命に働いていた。それが後からえらい目に遭うきっかけとなるとは知らずにハイハイと言いながら毎日汗塗れで駆け回った。
普通仕事は楽をするものだったのだが修行をするように他の人の分まで運び人の倍くらい力を使っていた。
4mパイプを地下から何百本か上げた時があった真っ暗な地下から小さな開口目がけてパイプを上げ続けたのだが結構キツかったので一緒にいたオジさんにとっては大変だろうと思って交代せずに全部一人で上げ切った。
途中で開口からコンクリートの屑が落ちて来て目に入り片目が真っ赤に充血して痛かったのだけど我慢していた。

仕事を終えて親方から目を大丈夫か?と聞かれた。
するとさっきまで一緒に働いてほぼ俺が助けていたオジさんが「ボーっとしてるからそうなったんだ」と言い出した。
俺は耳を疑った。
この時から仕事とか大人とかちょっとおかしいのではないか?と思うようになってきた。

正月、実家に帰省するとGSX-Rを持ってくる事にした。山形はまだ雪があったので仙台まで親父にトラックで運んでもらいそこから南下したのだが新品のVANSONのスターを着ながらまだ1月の寒さに耐えながら飛ばした。
バイクを持って来た事により何もなかった見習いの俺は気持ちは落ち着いた。これで移動範囲が広がるし首都高も攻めれると。

95年式GSX-R1100

仕事の話に戻る。最初の親方は30歳くらいだった。
フィリピンパブにハマっているような人だった。
まぁ随分と適当な扱われ方をしていた。
何年か後に職人になって解るのだがこの人が親方として人の上に立つような器ではなかったのだが当時は何も解らず言われるがまま働いた。
見るに見かねたとある老人の職人さんが社長に俺の扱われ方が可哀想だと伝えたそうだ。

数日後、俺の班は移され出稼ぎの老人達中心に編成されている定年チームみたいなのに混ぜられる事になった。
60歳オーバーの中に19歳が1人。ボロボロのバンの中では助手席に座らせられた。
車の中では会社の若い連中に対する悪口ばかりが聞こえた。
そしてこの人達はその中の誰かがいない時はその誰かの悪口を言っていた。
こんな人達にも孫がいると聞いて俺は幻滅した。
仕事は御宅ばかり並べて全然出来ない人達だったが時間とラジオ体操はしっかりしていた。

ある日若い女性がスクーターで前を走っていた。
運転していたジローさんと言う爺さんはジャジャ馬だと喜びクラクションを鳴らしながらスクーターを煽った。
車からベンチに座ってる女性のパンツが見えたと喜びまたクラクションを鳴らす。
同じバンの助手席にいる俺はこの爺さん達の仲間だと思われるのがたまらなく嫌で苦痛だった。

仕事が終わると寮の大部屋ではよく飲み会があった。社長も一緒に飲んだり当時の職人達は酒を飲んでそのまま車を運転していた。
その中には他所の現場の親方で一際目立つNさんと言う人がいた。
体がデカくパンチパーマを当てていて誰もが恐れている感じがした。

この後俺はNさんに可愛がってもらいそして憎む事になるのだった。

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