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ライダー高校生

那須高原で

正月にフクオとナルと3人で栃木のカーアカデミー那須高原に向かった。
免許代は親に貸してもらった。
県外に出る事の少ない我々にとって栃木遠征はちょっとした冒険だった。
鶴岡育ちの3人はまず電車を使う事がないから新幹線に乗るのもドキドキしたものだ。

教習所の合宿所はカプセルホテルで東北を中心にあちこちの県から暴走族やらアメリカン乗りやら集まっていた。
俺達は山形と呼ばれその中でも俺は大将とあだ名がついていた。
フクオ達がこいつは空手をやっいて、めちゃ強いみたいな話をしたせいでもあるが後日、日拳をやってるとか言ってるなんかのホラ吹きっぽいのと皆の前で組手をして足払いでぶっ飛ばしたりもしたので教習所内では武闘派キャラとして一目置かれていた。

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教習所の教官達のユニフォームは何故かG1ジャケットでリーゼントをして気合い入れてる人までいた。
恐らくあちこちから集まる暴走族みたいのから舐められる訳にはいかないのだろう。
結構厳しい事を言うしこの野郎と思っても免許が欲しいから誰も逆らえない状況だった。

やっぱり同世代が集まれば酒飲みが始まり免許を取ったら何のバイクを買うかと言う話で盛り上がる。

俺が買いたいのはGPZ400Rで当時は中古で安いバイクだったけどそれであればチューニング出来ると言う事でローンにチューニング代も含んで組もうと考えていた。キリンを読んで900ニンジャに憧れたのだけど大型を取る前に改造した400ニンジャに乗りたかったのだ。

フクオはゼファー、ナルは走り屋だったのでNSRが欲しいとは言っていたけどまだ決めていなかった。※後に何故かアメリカンのスティードを購入。

教習所での運転は得意だった。一本橋や急制動や坂道発進などほとんどミスった事がなかった。
実技試験本番も落ちるわけがないと余裕を持って挑んだ。

実技試験当日、かなりの強風が吹き荒れていた。
仲間達が一本橋で風に煽られ何人か失格になった。
可哀想にと横目で見ながら全ての種目をやり切った。

山形3人全員がミスなく終わったのだが合格発表まで安心出来ない。
そして結果発表!

結果は3人の中で俺だけが不合格だった。
周りの連中も「何で大将が?」と騒いでいたのだが俺の運転を見ていた一人がクランクの時、後輪が段差を踏んでいたと教えてくれた。

強風に必死に耐えて運転していてそれには気づいてすらいなかった。

カプセルホテルの布団の中で涙目になっていた。まさか落ちるとは…
正直空手の試合で負けた時よりも悔しかった。
フクオやナルが優しいので余計に泣きそうになった。
俺は一旦山形に帰り翌週に戻ってくる事にした。

その翌週パーフェクトな実技で合格するのだが今となれば大した話ではない。しかし何故か我が人生トップクラスに落ち込んだのは試合の敗北でもなく失恋でもなくこの一回目の実技試験の結果発表であった。

GPZ400R

それから春休みは土方でバイトしてTZRで良くしてもらったYSP鶴岡店(ヤマハ専門店)に何故かカワサキの400ニンジャ最終型とアップハンドル、バックステップ、CRキャブを注文した。
しばらくしてバイクが納車となった。

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マフラーはまだ決めていなかったのだが南葉商会と言うバイク屋に転がっていたBEETのナサート菅を安値で売ってもらいサイレンサーを違反となるレース菅にした。
重低音が響き渡り高揚感を感じることが出来た。
フクオは新車でゼファーを買ったのだがこの頃は暴走族がゼファーを好んで族車にしていた時代だった。
フクオはKERKERのメガホン管を付けたのだがこの2台はこれから一年の間、庄内浜の海岸線を狂ったように爆走する事になる。

ユタのペンキ屋で働いていたトモちゃんは中免所得後カワサキのバリオスを買い、Yと装甲車の闘いに出てきた長者食堂の息子のターは当時特攻の拓で有名だったCB400Fを買っていた。
ターも学校を辞めてユタと同じペンキ屋で働いていたので結構高額なヨンフォアを買う事が出来た。
YSPは工具を貸してくれたので場所を借りてよく部品を交換したりキャブのセッティングなど自分でやらせてもらった。

日曜の朝になると俺は海岸線を攻めていた。加茂水族館と由良の間を高速で駆け抜ける。
ちょっと間違えれば海に落下して命を失うような事を平気でやっていた。
あそこのコーナーを何キロで曲がれるか?とかそんな事で張り合っていた。
峠も走ったし車の走り屋を追いかけたりもした。

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学校を辞めて働いてバイクにもっとお金を使いたいと思っていたのだが3年に進級するタイミングで担任の先生に親と一緒に職員室に呼ばれた。

進級

担任曰くこのままでは進級は厳しいと。俺はラッキーと思った。これで学校は辞めれると。留年までして高校生活を送る気などはさらさらなかった。
第一に出席状況が悪い上に進級に必要な課題も未提出だった。
進級する為にこの課題をやれと出されたのがパソコンだかワープロだかのソフトに打ち込む文面を紙にどっさり書くと言う意味不明なものだった。
全く出来そうもない課題を見て「じゃあ辞めます」と母親の前で担任に即答すると担任は怒り「周りの気持ちを考えた事があるのか?」と怒鳴られた。

俺は「おめぇの気持ちなどさっぱり解らない」と言い返した。
担任は非常に頭が固く融通の利かない人だった。

説教しながら怒鳴る担任に腹が立ち「バーカ」と言うと担任は怒って殴りかかってきたので逆に両手で胸ぐらを掴んでぶん殴ろうと吊し上げた。先生は浮いていた。
咄嗟に母親が止めに入り担任は命拾いしたのだけど俺は怒って職員室のドアを思い切り閉めて学校から出た。
行き先は皆のいるセントルだった。

セントルに着くや学校を辞めると皆に伝えると友人達は学校を辞めない方が良いと言う。不思議なことに相談相手達こそよく学校を辞めたいと言ってる奴等だったのだが。
暗くなり、もう明日から仕事を探さなければと家に帰ったらリビングには職員室で出された課題が置いてあった。
こんな物を誰がやるかと思ったのだけど俺がいなくなってからの母親と先生の話し合いは続いたそうだ。
先生は俺の事を「あれはもう無理ですね」と母に伝えたそうだが高校卒業教信者の母が珍しく「そんなに辞めさせたかったら結構です」と言ったそうだ。

すると先生が妥協点としてちゃんと出来てる同級生が買いた課題の完成したものを貸すからそれを見て写し書きしてくれれば良いと言ってくれたそうだ。
しかし俺は仲間に辞めると言った手前、やっぱり学校戻るとは言いたくもなかったので課題には触れもしなかった。
そのどっさりの課題はその夜、母に頼まれた中学生の妹が全部書いて終わらせそれを提出した。

結局俺は進級する事になった。

あとがき

今だから思うけどバイクで高速で爆音撒き散らして走り回ってた事も先生の胸ぐら掴んで殴ろうとした事も親孝行もせず親に反抗しまくっていた事も全部自分が悪いです。
先生このnote見ていたらになりますがこの場を借りてお詫び申し上げます。

17歳を思い返せば力が溢れてとにかく爆発しそうだった。
バイクがあるから夢中になってあの時代を生きれたと思う。

そしてナル、もう君には会えないけど一緒に過ごしたひと時の時間を俺は大事な思い出として忘れません。

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