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18歳

冬が訪れる。山形は雪が降るのでバイクは乗れなくなるのだが、皆が車を買い出すのでそれに乗せてもらって移動する事が多くなった。
学校に行く時はほぼ毎日のように母が雪道を運転して俺を送って行った。
俺は卒業が近いと言うのにこの後に及んでサボろうとしていた。
親に送ってもらっているのに申し訳ないのだが朝のホームルームで出欠の確認した後にバスに乗ってそのまま帰宅したりもした。
サボれば前はバイクで走っていたのだがする事が無いので従兄弟の家に行ってそこの2歳の息子とずっと遊んでいたりした。
それが学校より楽しかった。

ユズルは早いうちに学校を辞めていたにも関わらずフリーターでパチンコ通いだった。
彼の親だかに譲り受けた92レビンに乗っていたのでユズルを捕まえてジョニーズまで乗せて行ってもらったりしていた。

山形の冬はウィンタースポーツでもやらない限りする事はない。
皆で集まって酒を飲む回数も増えてきた。
これからどうするのか?高校卒業近くになるに連れて深く語りあったものだ。

ユタ、トモちゃん、フクオのペンキ屋3人衆は、とあるスナックに通い出した。そこでは地元の二つ上の女性達が中心でバイトをしていてペンキ屋の飲み会かキッカケで通うようになったと思う。
お店以外でも女性達とアフターで遊ぶようになり今現在も何かと続いていたり…
3人は急にスラックスを履き出して変なハイネックを着ていた。
「何それ?だせぇー」と言うとお前は解ってねぇなと上から目線で言われたのだが実際金のない俺は3人にその店に連れて行って貰ったりお世話になっていた。確実に俺は下だった。

ワイルドスピード

そんなスラックスを履き始めたフクオは買ったばかりのRX-7で海岸線を攻め始めた。
タイヤはスタッドレスタイヤを履いていたのでグリップが悪いにも関わらず濡れた路面をタイヤを滑らせながら攻めていた。
狭い助手席に俺はナビゲーターのように座った。
峠に行くと雪道をドリフトしながら下った。
勿論運転がまだ未熟なので雪の壁に激突する事になる。
中古だったけどかなり程度の良かったセブンだったが容赦無く傷が増えていった。
この時代、こんな事は普通86かシルビアでやるものに。脇に座っているだけの俺は無謀な運転の恐怖に耐えていた。

ある日トモちゃんの32Zの脇に乗って峠に行った。
前をフクオが走っていた。
下りをガンガン攻めるフクオにトモちゃんのZは付いては行けなかった。
峠が終わりフクオはだいぶ先にいた。
差をつけられたトモちゃんはヤンキーみたいな座り方とハンドルの握り方で農道の直線を飛ばした。
周りの田んぼは雪が積もっていたのだが道路は雪では無く濡れていた。
何を思ったかトモちゃんは結構なスピードの中でマンホールを避けて走り出したのだが片手でハンドルを回した瞬間にZはスピンした。
制御不能になりZは田んぼの方に飛んでいった。
シートベルトもしていなかった俺は必死で手摺を掴んだのだが田んぼに着地するやフロントガラスに思い切り頭を打った。
運転手ははハンドルを握っていたので無事だった。
頭にコブが出来たのだがドアを開けて降りるとズボッと田んぼに足が埋まった。
手前にあった大きな用水路は飛び越していた。Zは飛んだのだった。
レッカーを待っている間、動けないZの中には矢沢が切なく流れていた。

この日もそうだがフクオの脇に乗っていた時も俺は一歩間違えば助手席で死んでいた。
ただ運が良かっただけだけどこの頃の俺達は命を簡単に考えていた。

数日後、夜遅くに起きているとクラクションの音がしたので通り沿いの部屋の窓から道路を見下ろすとフクオのセブンが親父さんのサニーに牽引されハザードを点灯しながら進んでいた。
いつもの峠でやったらしいがセブンは片側の側面が大破していた。

卒業

3学期の後半は卒業の単位を満たした生徒達は自由登校となった。
進路をそれぞれ決めて卒業に向かう感じだ。
俺は勿論単位が足りていなかった。
出席日数こそうまく計算してサボっていたのだが授業はほとんど受けていなかったので5教科くらい補習を受けなければいけなかった。

出された課題と言っても、もう簡単なものでしかなかった。
職業訓練校に行く事も決めていたし学校的にも早く去って貰いたかったのだろう。
英語に関しては教科書の2ページくらいを暗記して来いと言うのが課題で結局半分しか暗記しておらず残り半分は先生が読んでそれを復唱するだけで単位を貰えた。

俺の進級問題で殴り合いになりそうになった担任の先生ももう何も言わなかった。

この時期はとにかく毎週末皆で集まってよく飲んだ。
酔った勢いで仲間同士が揉めたりそれを止めたりあちこちのカラオケで騒いだり、東京に行くと言う奴らもいたのでラストスパートみたいに残り少ない時間を騒いだ。

やがて卒業式の日が訪れた。
大した思い出のない高校生活だった。

だいたいの男子生徒が買ったばかりの車を見せ合うように学校に集まった。
俺は限定解除はまだしていないけど先輩に900ニンジャを借りて最後の登校をした。
ヒロアキと学校近くの空き地にバイクで行くと卒業式後、地鳴りのような音と共に校門までニンジャで乗り付け学生服を投げ捨てた。
アバよと言う俺の気持ちだった。

文字にして気付く事がある。
俺のやっている事が滅茶苦茶ダサい。
学校もろくに行かず親元にいるくせに反抗的で最もらしい事を言って何の力もない。
好きな事は沢山あっても大した努力もせずに日々を生きて来た。
結局18年ずっとそうだったのでは無いか?

この駄目っぷりは当時は自覚が無く、更に奈落へ落ちていくのであった。

卒業後

4月、前途したようによく仲間達と飲んでいると東京の話題になっていた。
強い格闘家がいるのも関東で、当時は第3京浜や首都高などに雑誌に取り上げられるようなモンスターマシンも沢山走っていた時代だ。
俺はこのままこの街で生きていくのか?
ずっと引っかかるものがあった。

職業訓練校の入学の説明会に行った。同じ3中出身のヒデユキと言う友人も一緒に入学する事になっていた。
意図的ではなかったが母と見学に来た時とこの時の俺の外見は少々違っていて、ジョニーズの影響もあったからか少し派手になっていた。
ぶがぶがのパラシュート部隊のパンツにベトナムジャンバーを着ていた。
学校にはバイクで行ったのだがそのバイクもいじりまくって目立つようになっていた。

特に何をしたわけでもないが外見から少しだけ俺はマークされたようだった。
校長みたいな人がどうでも良いような話をしている最中にヒデユキと少し話した。
すると校長は急にぶち切れて「話を聞いてんのかーーー」と俺に向かって叫んだ。

今思えば最初にピシっとさせようと思って叫ばれたのだろう。そんなに問題でも無かったのだが昔の3中の教師みたいなのを連想してしまい一気に興醒めた。
家に帰るや職業訓練校にはもう行かないと親に伝えた。
母は何で?と言うけれど理由は面倒だからと言うくらいで自分の気持ちはモヤモヤした状態だった。
その後ヒデユキは職業訓練校を卒業して今現在も立派に整備の仕事をしている。
あの時校長が叫ばなかったら俺も整備士としての人生を真っ当していたのかも知れない。
ここが最初の人生のターニングポイントだった。

ヒデユキとジョニーズ

その後はペンキ屋を辞めていたトモちゃんが造園屋でバイトしていたので俺も頼んで一緒に働かせてもらう事にした。
東京に行ってホスト王になると宣言するトモちゃんだったのだがいつも一緒に話しているうちに俺も上京するべきだと思うようになってきた。

この時期に普通免許を取得する為に自動車学校に通い始めた。
もう就職を考えなければいけなくなったのに普通免許が無いと採用されない会社が多かったからだ。
結局こうなるならバイカーだとか意地を張らず高校在学中に取っておけば良かったのだが何も考えていなかったのだろう。

将来についてはジョニーズに行ってヒデカズさんに相談した。ヒデカズさんは整備士を目指すなら専門学校とか行かなくてもレースをやる事で整備の技術は身につくとアドバイスをくれた。
自分が乗るマシーンを自分で組んで走る。ヒデカズさんの信者だったのでその気になった。
それとサーキットの走行も興味があったのだ。

その前にやる事があった。
2輪の限定解除である。少し暖かくなってからフクオと一緒に雪の溶けた月山を越えて免許センターのある天童市に向かった。
当時は10000円くらいで一発試験の教習を受ける事ができた。
その数日後にフクオと初の限定解除の試験を受けた。試験管が後ろから車で付いてきて最後まで付いて来ると合格になると言うものだった。
30人以上受けていたが2人くらいしか合格者はいなかった。
当然俺もフクオも失格だった。

まだ限定解除はしていないものの合格を見込んでジョニーズに95年式のGSX-R1100を注文した。
当時は300km出せると言う名目でカワサキのZZR 1100と並び雑誌で比較特集されるような日本トップのバイクだった。
国内仕様はないので逆輸入車、俺のは北米からの逆輸入車となる。
納車までに限定解除する事が急務となった。

トモちゃんはZを売り飛ばし東京へ飛んだ。
バンドのヴォーカルになりたいケンヤも一緒に行った。
2人は同じアパートの隣同士だった。
今思えば俺達はこの頃、何かをチャレンジする際は必ず誰かと一緒だった。
皆、東京にもビビっていたのだろう。
俺の周りは親がケツを拭いてくれる奴が多かったように思う。
俺も少なからず世話にはなっていたけれどうちの両親は厳しいところは厳しかった。
先に幼少時代の事を書いているが仕事に限っては親父は鬼のように働いていたし俺がフリーターでしっかりしていない状態を母は嫌った。
コネもツテも無い上京と言うものにしばらくは悩まされながら先に進めない自分がいた。

造園屋の後は精密機械の工場や焼き付け塗装の塗装場などで働きながら限定解除の試験をトライした。
そうこうしているうちにバイトをしながら普通免許は取得してしまった。
夏にはアメリカからGSX-Rが届いた。

限定解除でいつも失格になる理由が方向支持(ウィンカー)が出来ていないだった。
俺が使っていたのがカドヤのハンマーグローブと言う鉄板が付いたゴツいグローブだった。
もしかして…と思ってグローブをクシタニのレース用ものに変えて試験を受けてみたらウィンカーのスイッチが押し易く試験はだいぶ惜しいところまでいく事が出来た。
それから2回目でやっと合格。通算8回かかったのだが一回の試験代が3000円で天童までの往復代、講習料を入れても現状の大型2輪と比べリーズナブルに限定解除する事が出来た。
受かるまでは執念が必要だったがこれで念願のGSX-Rに乗る事が出来る。
愛車のGPZは三中の後輩に売る事になった。

東京

練馬のすぐ近くの鷺ノ宮。
ここにトモちゃんとケンヤの住むアパートがあった。
電話料金が異常に高かった時代、彼らは酔っ払うと東京の公衆電話からコレクトコール(通話料金相手負担)でうちに電話してきた。
彼らが楽しそうに話す東京と言う街が壮大で全く想像がつかなかった。
因みに一回の通話で8000円とかかかっていたので親にはよく怒られた。

トモちゃんは女の子達が働く夜の店でスカウトだかキャッチの仕事を始めていた。
バンドのヴォーカルになりたいケンヤは仕事もせずに同時期に上京した同級生達と集まっては騒ぎパチンコに明け暮れる日々を送っていた。

上京したいと思ってる俺だけど何が何だか解らないのでとりあえず彼らのいる東京まで行って下調べしようと思った。
それは夏だった。

新潟まで急行で行って新幹線で上野まで。
ケンヤが上野まで来てくれると言ってたのだが2日酔いで無理と言うので何とか山手線に乗り高田馬場まで行ってそこに迎えに来てもらった。
大宮で型枠大工の仕事に就いて寮に入ってるユズルもやって来て鷺ノ宮で飲む事になった。
遅くなるとホストみたいな格好にオールバックのトモちゃんも合流した。
ケンヤとトモちゃんはたった2ヶ月くらいで庄内弁から標準語に変わっていたがそれが妙にわざとらしく不自然だった。
田舎もんの彼等は都会に対してビビりそして強がっていた。
実際は弱く寄り添い合っていただけなのかも知れない。
夢だなんだ皆で語りまくった。
翌日別の友人が住んでいた板橋辺りのハローワークに行ったり求人誌を買って読んだりした。
どうやって都会で生きるかを考えると手っ取り早いのが現場仕事だった。

この遠征がきっかけで一つの選択をする事になる。

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