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手に入れた翼

柔道部

2年になると上田君は卒業して学校ににいなくて退屈になった。その代わり新入生が入学してくる。

そのタイミングで柔道部に入ってみる事にした。柔道は授業でやった事はあるがなんとかなりそうな気がしたのだ。

西校の柔道部は3年がごそっと卒業すると新3年生は2人くらいしかおらず2年も少ない。必死に部員を集めている状況だった。

顧問の先生には空手の方が大事だから空手の練習の合間にやらせてくれるなら入部したいと伝えたのだった。

我ながら滅茶苦茶な要求だったと思うけどなんとそれが通ってしまった。俺はウォームアップに巻いてあったロールマットに突きと蹴りの連打をしてから柔道の練習をした。

同級生のミツヤ君と黒田君が強かった。最初は簡単に投げられた。何度も投げられると原理が解ってきてなかなか投げられなくなった。

新入生も割と入ってきて経験者もいたので良い練習になったのだが俺は基本を無視した両手狩り(タックル)や裏投げを多用していた。

俺に裏投げを喰らった先輩が脳震盪を起こしながら「お前はなんか違うぞ」と言う。

でもこれ「反則じゃ無いですよね?」と俺は確認した。確かその頃YAWARAちゃんに出てくるロシアの選手の必殺技だったはず。それを真似していただけだった。

柔道場にはミットやヌンチャクまで持ち込んでいた。

試合

極真の公式戦には2回ほど出場した。
高校生はポイント制と言ってルールが少し違ってハイキックがヘッドギアに当たると効いてなくても技アリになる。
自分はこのルールが苦手だった。

そもそも当時の練習は組手はほとんど無く約束練習とミットが多かった。
組手と言えば昇級審査会でやるくらいなので大会がぶっつけ本番的となって非常に緊張してしまうのだった。

思い返せばテニスの試合でもやたらと緊張していたし、人前で何かをする時はポテンシャル以下しか発揮出来ないと言う体質だった。

最初の試合は山形で行われた東北大会だったが高校生は何故か県内の選手の中に1人だけ青森だったが秋田の選手が混ざっていてその青森or秋田の人にハイキックで技有りを取られて判定負けで3位。
優勝したのはその青森or秋田の選手だった。

当時は福島支部が東北で1番強かったのだがそこで行われた東北大会にもエントリー。
一回戦で当たったのは一つ年上の優勝候補で序盤に上段蹴りで技アリを取られもう無理だろこれと思っていたら相手の膝蹴りが突き刺さったタイミングで膝を付いてしまい合わせ一本負け。
情け無い話だが膝は何も痛く無かったし経験豊富な相手の勢いに完全に飲まれていた。

帰りの車で先輩方に「長南だったらもっとやると思ってた」と非常にがっかりさせてしまっていたのを覚えてる。
何か違う。自分の力を出せていないと言うのはいつも感じていた。
その2戦を終えて昇級審査会以外で組手をしたいとは思わなくなっていた。本当に俺の弱さと言い訳なのだが緊張も高校生ルールも嫌だった。

そんな状態でも周りの先輩方は自分の事を強いと言ってくれてたし田畑師範は周りに「長南を全日本に連れて行く」と言ってくれていた。

結局自分が田畑師範の気持ちに空手家として応える事は無かったのだがこの時から約16年後の2010年の3月、DREAMのリングで極真松井派の世界ウェイト制中量級王者を完封するのだから田畑師範の目に狂いは無かったと言いたい。

※見出しの写真は当時は本部直轄浅草道場の師範で第4回世界大会王者の松井章圭さん(現松井派代表)が大会の演舞で来県された際に撮って頂いたもの。

春が来て暖かくなってきた頃、同級生達が原付の免許を取り始めた。16歳になったので筆記試験を免許センターで受けて合格すれば簡単に取る事が出来る。
免許の取得やバイクの所持は校則違反であるのだがクラスメイトが数名取っていて自分も興味が湧いてきた。

クラスメイトの一人にヒロアキと言う男がいた。彼は出たばかりの新車のTZR50Rを買っていた。50ccなんてポケバイみたいなものだと思っていたらヤマハのTZRやホンダのNS-1はそれなりの大きさがあった。
ヘルメットは若井伸之仕様を被りピカピカの白いTZRでうちに遊びに来た。リミッターをカットすれば100km以上出るそうだ。
何故30km制限の原付が簡単に100kmも出るようになりそれが売られているのか謎だったがとにかく俺もそれが欲しくてたまらなくなった。

スクーターを買う同級生もいたがスクーターには全く興味がなかった。
まず親父にギア付きのバイクの運転方法を習った。

それから毎晩親にバイクについての交渉をした。
高校を卒業する事とバイトをして自分でお金を払う事を条件に高校在学中にバイクを買う事を許可してもらった。
親父がバイクを好きだったのでバイクに関しては理解があった。

思い返せば館ひろしさんやMADMAXのグース、湘爆の面々、AKIRAの金田などなど好きなキャラは単車乗りが多い。
親父の弟である叔父がモトクロスをやっていて小学生の頃よくレースを見に行ってたのだが、そこで3輪バギーや小さいやつを乗らせてもらうのが好きだった。
18歳になったらバイクに乗りたいとは思っていたけど2年も早く乗れるなら今しかないとその時は慌てるように思った。

ある日曜、親父と酒田の某バイク屋チェーン店に行き店頭にあった92式TZR50(新古車につき割引)を購入した。
ヒロアキのより旧式になるが値段も安くなってて俺には十分だった。
早速俺はデイトナのリミッターカットを注文した。

俺にとっては人生が変わったかのような出来事だった。海にでも山にでも親に連れて行ってもらうようなところへ自分で行ける。
バイクの部品は自分で説明書を見ながら組んだりしていた。
空手の稽古もバイクで通い長期休暇になると現場仕事でバイトをしてバイク代の支払いに回した。

読んでいた格闘技通信に加えて最初はヤングマシンやオートバイ、峠を走るようになってからはバリバリマシンやゼロハンチャンプなど明らかに公道でレースみたいな事をやってる雑誌を読んで熱くなった。

ヒロアキとはちょいちょいとバイク遊びをしていたが相変わらず西高生とはそんなに連む事は無くバイクで一人走り回ってる事が多くなった。

そんなある日、同じTZR50の黒を乗った奴が話しかけてきた。
一小、三中の同級生だったフクオと言う男だ。
久しぶりの再会だったのだが「今度一緒に走ろうぜ」と言う。

この再会からこの時期の生き方が急変していくのだった。

実は2台目となるTZR 50R。峠で休憩していたら走り屋のプレリュードがスピンして突っ込んできて92TZRは廃車。ヒロアキと同じ93年のものになりました。勿論プレリュードに弁償してもらったものです。

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