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走り屋と暴走族と

そんな時代

3年へと進級したものの引き続き学校へは行きたくなくて。そもそも高校の場所が遠過ぎたせいもあって(自転車で片道飛ばして30分)よくサボっていた。
自分で選んだ高校なのだが、このままじゃ絶対行かなくなると高校のある大山に住んでいるヒロアキの家までバイクで行ってそこから自転車で通う事にさせてもらった。

同じように学校の近くまでスクーターで行って空き地みたいな場所にスクーターを隠して登校していたような連中もいたのだが先生に見つかり停学の免許証没収と言う重い処分が下されていた。
そんな事があっても俺は朝からGPZで高音を撒き散らしながら飛ばし自転車で真面目に登校する生徒達を追い越し、バスで登校している生徒達の乗っているバスも追い越し、教師達が運転する車さえも追い越してからヒロアキの家まで通っていた。
同じTZR50Rに乗っていたヒロアキだが中免取得後は当時新型のカワサキZRX400を購入していた。
俺達は退屈だと言って授業を抜け出すと2人でバイクを取りにヒロアキの家に戻ってから、あろう事かわざわざ授業中の学校の敷地内をブォンブォン吹かしながら走行してから、加茂坂を抜けて海岸線を走り回ったりした。

中学時代は喧嘩の強さで有名になってたけど、この頃は地元のバイク乗りの間でCRキャブの付いた黒いGPZ400Rに乗ってる高校生がいる言うのが有名になり始めていた。
それは喧嘩と違って同級生よりも大人の男達に知れ渡ると言う点で嬉しかったしリッタークラスのバイクと勝負しても負けない気持ちでいつも走っていた。

当時はなけなしの金で買ったショットのライダースに俺とフクオで作ったバイクチーム“Fear of Death”と言うチーム名と死神をロゴをGベストにバックプリントして上に重ねて着ていた。
刺繍でもなく手書きのデザインの安いカラー(看板)だ。
ちなみにフクオ君もパチンコに通って学校サボり過ぎて進級出来なくなりユタ達と同じペンキ屋に就職していた。

時代背景的には暴走族は少なくはなかった。年上も同世代も派手に走って集団危険行為で捕まっていた。
全国各地がそうであったように先輩から受け継がれたそのエリアの暴走族の看板を掲げて特攻服を着て直管コールを切って信号止めをして夜の街を走り回る連中は一定数存在した。

俺は全く暴走族には興味が無くて旧車は好きでも族車は好きになれず漫画の特攻の拓やカメレオン…その他が流行っていた時代だけど自分がやろうとは一切思っていなかった。

バリオスを買ったトモちゃんは自分達で族を作ろうと言い出した。元スカートめくり軍団の団長だけに無駄なカリスマ性が彼にはあった。
勧誘されたけど勿論俺は嫌だと言った。
ヨンフォアを買ったターは乗り気だった。
ユタはどっち付かず。
トモちゃんの中では俺の参加は戦闘力的にもマストだったようだ。
俺やフクオは嫌だと言ってるのに酒を飲んでいると楽しそうにこれからの暴走族ライフをトモちゃんは皆に話した。
自ら総長をやると言ってるトモちゃんにとりあえず名前をなんと考えてるのか聞いてみた。
彼が必死に考えた名前は“極音(ごくおん)レーシング”だそうだ。
聞いた途端に俺達は爆笑した。
めちゃダサい。トモちゃんは名前を笑われてキレそうになっていた。
特攻の拓に出てくる爆音小僧を軽くパクったのか地元の極龍と言う族を真似たのか解らないがそれは止めた方が良いと総長には伝えた。

族はやっていなかったけど当時セントルエリアを中心に三中卒業生達がどんどんバイクを乗り始め集まり始め鶴岡警察には通報が入ったり、俺達も軽く集団で補導されたりと警察にマークされている事は解っていた。
更に三中の自分達より一つ下の代もバイクを集団で乗って走り回りそいつらも族の旗上げを目指していたようだ。

真ん中が総長

5月

ある日の夕方いつものようにセントルで集まっていると私服警官がそれぞれの家を回ってると言う連絡が入った。
携帯もない時代、確かターのお母さんがセントルに電話をかけてきたはず。
「お子さん達が暴走族を結成していると言う情報がある」と言う容疑でそれぞれの身柄を抑えようとしていたそうだ。
慌てて家に電話すると母親がビビった様子で「あなた暴走族やってるのか?」と俺に聞いてくる。
本当にやって無いからそれは伝えて、すぐにバイクを地元のバイク屋の南葉商会に走らせた。
そこに置かせてもらっていた音量がJMCA規定内の集合管のサイレンサーに取り替えてそれから鶴岡警察署に向かった。
無罪を説明する為だった。

警察署に着くや警察官に囲まれてバイクの改造についてイチャモンを付けられた。が排気音は煩くないし保安部品もちゃんと付いてる上にバイクに限っては俺の方が警官達よりも全然詳しかった。
その後取り調べ室に移動し6人くらいの警官に再び囲まれ叫ばれた。
「お前らが族を作ってるのは知っいるし仲間は既に吐いた」と。なかなかの脅しだったのだが、実際やっていないのでやってねぇと言い続けた。

集団危険行為をやっていればまだ解るのだが本当にやっていないしどれだけ脅されてもそれには屈しなかった。結構な言われようだったので頭にきてここで暴れたいと思ったくらいだ。
お前が吐くまで帰さないと言う。明日でも明後日までも居てやると言い返した。
当時の部長だったかが食い下がる俺にこう言った。お前は高校生だそうだけど学校でバイクは禁止されてるだろう?
俺は「んだ」と方言で答えると、「だったらお前がバイクに乗ってる事はこっちから学校に連絡する」と言う。
学校は行きたくないのでラッキーと思った俺は「免許証を没収されてまで学校に行く気はねぇから学校を辞めるだけだ」と言い返した。
すると部長は学校には言わないから学校は卒業しろと言い出す。学校の先生と言い、警官と言い、親と言い俺の高校卒業に何の価値があるんだ?

続けて俺より前に来ていた仲間達数名が書いたと言う反省文を見せつけられた。
[暴走族を結成してしまい申し訳ございませんでした。2度としません]みたいな内容だったが全員の字が汚過ぎて真面には読めなかった。
警官にも苛ついていたのだが俺の仲間達にも「あいつら〜」とかなり腹が立った。しかし読めないような汚い文字の並んだ反省文に怒った顔はちょっとニヤけてしまった。
俺は一筆、[暴走族はしていませんしこれからもしません]みたいな事を奴等とは違う綺麗な字で書いてやった。
1、2時間の論争が終わり部長は「お前が暴走族をやっていないのは解った。必ず卒業しなさい」と握手をしてきた。
俺が帰る頃には警察署に母親も駆けつけた。
母を置いて俺はバイクで帰った。

夜中に皆で集まった時俺はトモちゃんに怒った。なんでお前ら族もやってないのに謝ったり反省文書いてんだよ?と。

トモちゃんは警官達が怖かったそうだ。ユタも何も言い返せなかったそうだ。
トモちゃんの脳内は極音を結成したつもりだったのだろう。
俺以外はバイクを没収されたりフクオは俺達のチームのベストまでも没収された。
トモちゃんは俺とフクオのチームの事や皆でどこを走ってるかも全部警官達に説明していたようだ。自分で総長やるって言ってたくせにと怒りを通り越して呆れてしまった。

警察署に残った母は俺のGベストは家にあるのか?と警察官に聞かれたそうだが「事故ってボロボロになったから捨てたようだ」と何でも密告する総長と違って機転を効かせてくれていた。

そもそも族なんて旗上げすれば他所のチームとも面倒な事になるし年上にはシャコタンの四つ輪で現役の暴走族もいたから必ず潰しに来るだろうと思っていた。
俺達にはバックみたいな奴等は存在しない。
また鶴岡警察も暴走族対策には本気で、走っているところより自宅を攻めて抑えると言うのが当時の主流だった。
集団危険行為で捕まると免取りとなって一年くらいは免許を取れなくなるし、酷いと鑑別所、もっと酷いと少年院に行ったりもしなければいけない状況となる。
そんな覚悟を持っている者は極音レーシング(笑)には誰一人といなかったはずだ。

部長と握手して俺の主張は解って貰えたと思った翌朝、鶴岡警察が暴走族を検挙と俺達の事が地元の新聞に載っていた。
17歳建設業数名(何名だったか忘れた)+高校生1名、記事の中で族の名前は“爆音”になっていた。
更に俺達が補導されるきっかけになった三中の後輩達の族も検挙となり、こいつらが自分達の先輩も族をやるそうだと警察に情報提供していたのだった。

警察ともあろうものがあれだけ説明して握手もしたのに…大人や国家権力が憎く本当に暴走族になって警察署の周りを走ってやろうかとさえ思った。

数日後セントルに行くとペンキ屋の仕事をサボった総長とターがいた。
俺とフクオの“Fear of Death”に俺達も入れてくれと言う。俺は遠回しに断った。
フクオのGベストは鶴警に没収され俺のGベストは母に家のどこかに隠された。
俺達のGベストの死神の横には爆音御免とプリントされていた。それが新聞の暴走族名“爆音”になってしまった。
トモちゃんは特攻服までは作っていなかったし極音レーシングと書かれたものは何一つ存在しないしなかったからだ。
爆音御免なんて今となるとダサいけど何か難しい4文字熟語を入れたかったのだが結局思い付かずバイク煩くてごめんと言う愛嬌だった。

当時のアルバイト先だった武田商店に行くと従業員のおじさん達が暴走族が捕まったらしいと話していた。「高校生もいたみたいだけどお前も気をつけろよ」と言われた。
俺の顔は真っ赤になっていたはずだ。

高校最後の夏休み。俺は左官屋でバイトをしていた。
力仕事も多くトレーニングにもなった。
現場仕事をしている間は就職している仲間達と同等に生きている実感があった。

休日はバイクで海岸線を飛ばし皆で海で泳いだりもう一生ないこの時間を楽しんでいた。
空手は前ほど真面目にはやっていなかった。
バイクをイジってる分、自主練の時間は減りバイト終わりでトレーニングするより遊ぶ事に夢中だった。
思えば部屋のポスターは格闘技のものが多かったのにどんどんバイクのものに変わっていった。

CRキャブは自分なりにセッティングしてなかなかスピードが出るようになった。
親父が会社にあったアルミ版を持って来てくれたのでそれで自作のフェンダーレスキットを作った。
読んでる雑誌は格闘技通信よりROAD  RIDERが好きになっていた。

いつものように走り回ってると900ニンジャに乗ってる人達に話しかけられた。
他にもZX-10やFZ750など。
俺とフクオは海岸線を一緒に走ることになり加茂から由良ではなくさらに遠い温海と言うところまでの海岸線を一緒に走った。
直線では敵わないもののコーナーがあればどんどん追い付く事が出来た。
いつも攻めていたし怖いものがこの時期は無かった。
リッターバイクが相手でも俺達は通用している。
俺のアドレナリンは全開だった。夜遅くに帰ってからも興奮して眠れなかった。
それから俺は同世代より年上の人達と多く連むようになりバイクをイジったりミニバイクレースに帯同したり地元のバイク乗りの人達と交流を深めていった。

長南夜空道場

ベーサトの通う鶴工のクラスメイトにヨッチューと言う男がいた。ヨッチューはクラスメイトだったはずが留年して2回目の2年生だった。
これまた強烈なキャラでボンボンで酒癖が悪く親にスティードを新車で買ってもらうような男だった。
戦闘力の低い彼は強くなりたいと俺に言ってきた。
俺の空手だったら教えれるし1年の頃にモリ達とトレーニングしたみたいにすれば良いだけだから週に1回、再び小真木原運動公園の芝生の上で空手を教える事にした。
一緒にランニングした後に組手の構えからパンチやキックを教えてミットを持ち合った。
体重の軽いヨッチューは俺の蹴りを必死になって耐えていた。
1ヶ月ぐらいすると指導内容に組手も混ぜる事にした。

通ってる田畑道場では組手の時間が少ないと思っていたし俺も練習になると思っていたのだが相手が弱過ぎて多分練習にはなってなかったと思う。
ただ続けてると明らかにヨッチューは上手になっていたし少し強くなっているのが解った。

今現在、格闘技を教える事を生業としているけどこれが初めて俺が教えた格闘技だった。
すると何人か真似して練習に参加するようになった。
多い時は10人近くいた。
そんな奴等が集まると皆腕試しをしたくなってウズウズしているのが解った。
師範代である俺もまぁ良いかと極真ルールでの組手を許可したのだがKO続出でハイキックでKOされる奴もいた。

俺は中学の頃と違い喧嘩をしなくなっていたのであいつ本当に強いのか?とハイキックでKOして気分の良い総長トモちゃんが俺に挑んできたけど俺が数発総長の攻撃を避けて攻撃に転じようとしたら恐怖を感じたのか組手の途中で走って逃げ出した。
小学校の時ベーサトと戦ったおっつんは果敢に俺に対してボディの連打で攻めてきたのだがその後飛び膝を喰らい芝生の上に転がった。
ターもまた俺の膝蹴りを腹に喰らい呼吸が出来ずに蹲った。
大山倍達総裁はアメリカで空手を広める際に実力を示さなければ人は付いて来なかっただろう。
俺もそれをやったつもりだったのだが数回で皆が来なくなってしまった。
ずっと基本的な事を中心に教えてたヨッチューはこんなはずじゃないだろうと思っていたようだ。
ある日練習の時間に小間木に行くと誰も来なかった。

仕方ないからその夜は1人で走ったのだが俺は長南道場の閉館を決意した。
ヨッチューは学校際の前に怪我したくないと言う理由でサボったようだったが頼まれて教えてたのにと俺は腹が立ち、もう一度教えて欲しいと頼むヨッチューの願いは聞いてやる事はなかった。

結局2ヶ月くらいで長南道場は閉館した。


夏が終わり寒くなってきた。皆が普通車の免許を取得しようと教習所に通い始めたのだが俺はバイクを裏切りやがってと通おうともしなかった。

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