見出し画像

働き者

修行編

巨漢のパンチパーマのNさんに俺はロックオンされた。
俺の現場に来いと言う。出稼ぎ爺さん軍団は懲り懲りだったので願ってもない班移動のチャンス。
俺はお願いしますと言い、爺さん軍団のバンから俺の道具を移動した。
Nさんの班は若者が多かったのだがタカヒロ君、ジュンジ君の兄弟と自分の一つ下の年も二人いて皆が青森の八戸出身だった。
若者達は真面目だったが出稼ぎ爺さん達とはよく喧嘩していた。
仕事の出来なさや、その遅さを怒る若者達とヘルメットをちゃんと被りなさいと怒る爺さん達。
俺は長いこと爺さん達とも一緒だったので立場的には中立だった。
仕事はまだ全然出来ないけど動き続けることと力では誰にも負けないように人の何倍も運ぶ事を心掛けていた。
材料上げも担ぎも左右の腕のどちらでも出来るようにしていた。
こっちの方が体のバランス的に良いのでは?と思ってやっていたのだがこれが後々格闘技に活きるとはこの時思ってもいなかったのだが。
型枠大工の仕事とは鉄筋コンクリート造(RC)のコンクリートを流し込む型枠を組みパイプで固め梁や天井や階段も同様にベニヤと桟木で組んだものをパイプやらサポートやら金物でしっかり固定する。
そこにコンクリートが流し込まれて枠を解体屋がばらすとコンクリートの建物が出来るのだが、型枠大工、鉄筋屋、鳶は躯体3大業者と呼ばれ我々型枠大工は現場の中では大工さんと呼ばれている。

数年で一人前になれるような簡単な仕事ではない。図面を全て把握し全てミリ単位で計算しベニヤを切り枠を組み金物で固める。流し込まれるコンクリートに枠が耐えれるよう考えて施工しなくてはいけない。
やり方は同じ材料を使っても何パターンもありより早くて無駄が無さと正確性も求められる。
バイク屋になりたくてアルバイト気分で上京したのにえらい本格的な仕事に就いてしまったのだった。
親元でぬくぬく育った俺には良い刺激だった。同世代が入社してもだいたいすぐ辞めていった。
根性ねぇなとその時は思っていたけど正しいのはそいつらだったのでは?と酷い扱われ様だったので今になるとそう思う。

Nさんは仕事中によく怒る人だった。俺が一番下っ端だったので八つ当たりされる事も少なくなかった。
俺よりでかくてパンチパーマで見た目も怖いけれど、いつも心の中で思っていることがあった。「喧嘩したら俺の方が強いから」
どんなにこき使われ理不尽な事を言われても心の中でそう思ってれば何でも絶えれた。
この時期に俺の腕力はどんどん上がっていった。
4mパイプも12本担いで歩いていた。これはかなりの体幹トレーニングになっていた。
飯の量も沢山食っていたけど体は絞れてバキバキになっていた。

一生懸命に働いてるとNさんは気に入ってくれたのか俺をよく飲みに連れていくようになった。元々酒は飲める方なので飲め飲め言われれば容赦なく飲んだ。
スナックに行けば若い子にも会えるので現場から一般社会に出れたみたいで楽しかった。若い同世代の女の子と仲良く話してるとNさんは俺の金で飲んでるんだと言わんばかりに席替えタイムを執行し俺は全然年上のフィリピン人の女性の隣にさせられたりした。
Nさんは仕事の事をよく語る。
ホステスもこんな現場仕事の話を聞かなくてはいけなくて大変だなと思ったけど、たまにNさんは酔っぱらって俺の働きぶりを褒めてくれていたのが少し嬉しかったりもした。
俺を自宅にも連れて行ってくれて奥さんの料理を食わせてくれたり可愛がってくれていたのだと思う。
そんなNさんだけど散々飲んで語った翌日は親方なのに平気で仕事をサボったりする人でもあった。
「昨日語ってた話はなんだったんだよ?」と普通に思ったのだが社長はNさんを扱い辛くなっているように見えて社内では若干Nさんのやりたい放題になっている感は否めなかった。

同級生

仕事でキツい時、何か腹が立った時は先に上京していたケンヤにセブンイレブンの公衆電話から電話して話していた。
テレフォンカードでどんどん残りが減っていく時代だ。
彼は当時パチンコ屋で働いていたのだろうか?夢だったバンドのヴォーカルどころか音楽活動など全くせずダラダラ東京で生きていたのだがケンヤの声を聞くと俺はホッとするのだった。
ケンヤは上京してアウトローの道を進むはずだったのだがフリーターのまま数ヶ月を過ごし、建築業の親の紹介で下北にあった工務店に住み込みで働くことになった。

地元の山形ではユタは相変わらずペンキ屋で働きながらも俺たちのいなくなった鶴岡の夜に名前を売ると言って暴れていたようだ。
当時の鶴岡は独特で飲みに行けば必ずチンピラだか何だかが必ず絡んでくるような無法地帯だった。
何件か必ず揉め事が起きるような場所があって、飲み歩くなら喧嘩上等で気合を入れて家を出る必要がある。
そんな街で三中は長南だけじゃなく俺がいると言わんばかりにユタは暴れていたようだ。

そしてずっと俺の前を歩いて道を記してくれていたベーサトに大きな変化があった。
高校在学時からF-1レーサーと言う夢に向かって一生懸命な彼を応援してくれて、卒業後に彼が就職した電気工事の会社だったのだがベーサトはレース活動も辞め会社も退職していた。
ベーサトはF-1レーサーと言う夢を完全に諦めていた。そしてその後は職場も転々と変え高校時代に我慢していた分遊びまくっていた。

格闘技も何もやっていないけど型枠大工でガンガン働いている俺にすれば親友が自分の夢をいち早く挫折した状況が非常に悔しかった。
俺に本当の事を話してくれればいいのに…
リミッターを解除したベーサトの遊びっぷりは周りが呆れるくらいの様子だった。
人に嫌われたりはしていないけど俺は周りに笑われるベーサトが許せなかった。

俺が空手を教えていたヨッチューは高校を一年遅れて卒業して上京した。
当時人気のあった渋谷系の好きだったヨッチューは服のデザインの専門学校に入学した。
そして借りたアパートはケンヤの住む下北沢の寮と同じ通りだった。

この時期に携帯電話を手に入れた。アナログだ。デジタル回線だとかあった時代。
高くてまだ皆が持っていなかったけど俺は早めにゲットした。それで仲間達と連絡を取るのは容易になった。

D201

フクオは18歳で結婚をしていたのだが翌年に結婚披露宴をすると言う事で俺はスーツを買って上京組達と帰省する事になった。
1996年5月、結婚披露宴は俺達にとっては友人が結婚する初のイベントだった。
皆が気合いを入れて飲んで騒いで祝った。
松戸に戻ればまた労働が待っているのだが高校からバイクに乗ってプラプラしていた俺にとっては、やっと念願の社会人になれて仲間と肩を並べる事に後ろめたさもなく自分の力で生きている事が嬉しかった。

披露宴後泣きまくる極音総長と

サーファーになっていたベーサトには仕事をコロコロ変えるなと一言言っておいた。い
ベーサトは自分が諦めたF-1と言う夢について弁明をしていたのだが別に夢を諦めても良いけど俺にしてみればどう生きてるかが俺達には一番大事で、きっと中学生の頃のお前が今の自分を見たら絶対に怒るだろう。
そう思ったから俺は彼に対して冷たい態度を取った。

潰れた俺とベーサト、オッツンの児童公園喧嘩コンビ

トランスポーター

寮の代金は月15,000円くらいだった。プレハブだったが夕飯付きでそれは安かった。
食事と言えば白木屋や安楽亭で十分満足だった。
それでも寮の飯より十分に美味い。
週末に下北沢に行くと金の無い仲間が多かったが近所の三河屋さんと言う酒屋から俺がごっそり酒を買ってきた。
これは田舎でユタ達が高校生の時の俺にやってくれてた事と同じだ。
仕事は休まず出ていたのでお金に多少の余裕はあった。
俺はジョニーズからバンを買う事にした。
30万くらいの2躯のロングのディーゼル車だった。
これにバイクを積んで走れるし何かの度に誰かに乗せてもらったり会社のバンを借りる必要は無くなる。
ちなみに職場の先輩のタカヒロ君はチューンした32GTRに乗っていて自分と同部屋からアパートに引っ越したヒデ君はランクルをリフトアップして乗っていたり車には結構なお金をかけていた。

たまに首都高へ連れて行ってくれたタカヒロ君のGTR

ジョニーズで買った日産ホーミーのロングディーゼルはめちゃ遅くて煩かった。
ジョニーズのチームはそれを青に全塗装するのが当時の定番で勿論俺のホーミーも青だ。
それにキッカーのスピーカーを乗せてメタルやハードコアの洋楽を爆音で流して走っていた。

ジョニーズ仕様のバン

バイクと車、これが俺の財産だった。
結局、バイクの仕事につく為とか思って上京したのに建設業にどっぷりハマりレース活動など出来るような環境ではなく職人を目指してしまっている自分がいる。
ナビも普及していない時代だ。東京の道が難しくて何度も都内で迷子になった。
それでもGSX-Rで首都高を飛ばしたり環七通りを有り得ないスピードで擦り抜けたりする事が生きがいだった。
下北沢から松戸の寮まで下道で35分で行けた事がある。信号無視はしていない。
山形の鶴岡市までの道のりも関越道と7号線を使ったら4時間ちょっとで着いた。
どんなスピードだったかは想像にお任せする。

公道をとばしても何の自慢にもならないのだがこの時代は車もバイクも走り屋と呼ばれる連中がゴロゴロいて都会には改造車が溢れていた。
仕事で上に行けばもっとバイクをイジったり良い車にも乗れるのだろうか?

また空手をやってみようかと近くにあった極真の道場に見学に行った事があった。
当時は分裂騒動の真っ只中。雑誌の記事でそれを見て興醒めている自分がいた。
見学に行ったその道場の稽古だが山形の田畑師範の指導のほうが熱があって上だと思った。
関東でも全部強いって訳じゃ無いのだと解りそれからそこに足を踏み入れる事はなかった。

強くなりたい気持ちはまだあったので、たまに夜にランニングをしていたのだが、それを見かけた寮にいる親方連中に「そんな体力に余裕があるなら仕事をちゃんとやっていないと言う事だ」と言われた。
「この野郎」と思ったけど反抗はしなかった。
下っ端だからと言ってペコペコしていたのがだんだん悪い方向に向かっている感じがした。

それから事件は起きたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?