戸谷洋志

1988年生。立命館大学大学院先端総合学術研究科・准教授。博士(文学)。専門は哲学・倫…

戸谷洋志

1988年生。立命館大学大学院先端総合学術研究科・准教授。博士(文学)。専門は哲学・倫理学。ハンス・ヨナスを主要な研究対象としながら、「責任」・「未来」・「技術」・「対話」をキーワードに、研究・実践しています。

最近の記事

『光る君へ』におけるケアと物語

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の第32話「誰がために書く」を観た。紫式部を主人公に据えた今年のテーマは、文学であると睨んでいた。長い序章を経て、ようやくその本質に切り込み始めた回だった。 一条天皇は、最愛の中宮・定子を失って、絶望していた。その悲しみを癒すために、彼は定子に仕えていた日々を描いたききょう(=清少納言)の著作『枕草子』を読み耽る。同書は、一条天皇にとって定子の生きた証であり、彼はそこに亡き彼女の息遣いを感じることができた。 『枕草子』は随筆であり、

    • 『生きることは頼ること』を上梓しました

      講談社現代新書さんから、『生きることは頼ること──「自己責任論」から「弱い責任」へ』を上梓いたしました。本日から書店で販売されています。   この本のテーマは、自己責任論を批判しながら、かといって無責任さをただ肯定するのでもなく、もう一つの責任概念として、「弱い責任」を提唱するというものです。 自己責任論は、基本的に、誰にも頼ることなく、自分のことを自分自身で決定することができる、自律的な人間像を前提としています。しかし、この人間像は現実を反映したものではありません。私たち

      • 銅鐸の話

        銅鐸ってかっこいいよな、と子どもの頃から思っていた。安定感の高い形。どっしりとして堂々として、安定感がある。それでいて繊細な模様がある。上下の構造があって、絵に秩序がある。よく分からないけど、この世界の始まりに関する寓話が描いてありそうだ。そのうえ、中が空虚なのもいい。こんなに重厚感があるのに、質料がない。重い石板が宙に浮いているかのような、非現実感がある。 銅鐸は、日本では豊作を祈るなどするための祭器として使われていたが、もともとは、中国で発明され、鐘として利用されていた

        • 愛の帰結としての怪物化──安亜沙「一角獣の謎」を観て

          安亜紗がO Gallery eyesにて2024年6月24日から6月29日にかけて実施した個展「一角獣の謎」を観覧した。今回はその感想である。 今回の展示には三つのモチーフが存在する。まず、心斎橋に存在するスクエアセンタービル、次に、古代ギリシャのミノタウロスをめぐる神話であり、そして最後に、ルネ・マグリッドの結婚論である。 スクエアセンタービルは、1970年に建築された建物で、地上6階、地下1階で構成されている。中は様々なグラフティで彩られており、物が放置されていり、無

        『光る君へ』におけるケアと物語

          「AIゆりこ」について

          東京都知事の小池百合子氏が、「AIゆりこ」というコンテンツを、公式SNSで発信している。 これについては色々と考えるべきことがあるけど、さしあたり指摘するべきこととしては、欧州を中心にAIの倫理的課題を指摘され、包括的な指針の策定が進められている中で、こうしたコンテンツを政治家が発信するのはいささか不用意である、ということだ。 しばしばAIは人間の責任の領域を曖昧にするとして批判される。そもそも責任(responsibility)という概念は、国民に対する政治家の説明責任

          「AIゆりこ」について

          糖質ゼロカルパスとショート動画

          糖質ゼロのカルパスというものがある。 おやつについつまんでしまう。 糖質ゼロだから、基本は無である。 口が寂しいときには、いつ食べてもよい。 朝食の直後だろうが、夕食後だろうが、寝る前だろうが関係ない。 いくら食べても太るということはない。なんといっても糖質ゼロなのだから。 そんな馬鹿なことを考えていくと、当然太っていくわけだが、糖質ゼロ=いつ食べても構わないが、危険なのだ。無はいくら足しても無である。だからいくら食べもいいし、いつ食べてもいい。逆に言えば、それはどんなと

          糖質ゼロカルパスとショート動画

          ハッシュタグ的連帯

          『SNSの哲学』のなかで、ハッシュタグ的連帯について書いている。典型的なのは「#me too」を利用した運動の手法だ。そのタグをつければ、一つの政治的な立場を代表する意見として、検索されることができる。それによって、他者がそのハッシュタグを検索したとき、その立場を支持する人々のボリュームを、ある種の量として捉えることができるようになる。 ただ、「me too」は、政治的な立場の表明としては、いささか雑である。完全に同じ意見なのか、それとも部分的には同意できるけど違う部分もあ

          ハッシュタグ的連帯

          筋肉との対話

          筋トレが好きな人は、しばしば、筋肉をある種の友達として表現する。筋肉に語り掛け、筋肉と対話し、筋肉と合意を交わす。そうすると筋肉はこちらの期待に応えてくれる。筋肉は裏切らない。そういう言説をよく見る。 僕は筋肉が友達だとは思わない。なぜなら僕は筋肉を傷つけているからだ。もし僕が筋肉だったら、僕のようなやつを決して好きにはならない。できれば僕の肉体から離れて、穏やかな筋肉たちが住まう農村的な筋肉共同体でつつましく生きていきたい。 ただ、友達だとは思わないが、筋肉と対話するこ

          筋肉との対話

          犬目線の桃太郎

          多分、ある集団のなかで誰かを「推す」ということは、その集団の中心をその誰かに置くということ、その集団を、「推し」によって意味づける、ということを意味する。 たとえば『ONE PIECE』でサンジを推すなら、その物語はサンジを中心としたものとして再構成される。サンジが紙面に登場していないときも、「サンジはこのときどこにいるんだろう」「サンジはこの発言をどう受け止めているんだろう」と、パースペクティブの変換が起こる。 そういうコンテンツの受容の仕方を可能にしているのは、視点が

          犬目線の桃太郎

          春の虫

          春の虫が苦手だ。 多分、虫の量だけで言うなら、夏の方がたくさんの虫が飛び交っているのだろう。 しかし、春の虫と夏の虫は、なんだか少し違う。どこが違うのか。それはすなわち、テンションだ。春の虫はテンションが高い。長い冬を越えて久しぶりに再会したメンバーとの旧交を温めるかのように、はしゃぎまわっている。 それはまるで、同窓会のようですらある。「おい!ひさしぶり!しばらく見ない間に太ったなお前!いま何してんだよ!」「いやいや、それはお互い様だろ!いまはフリーランスのパーソナル

          おかか閣下

          頭の中でイメージが結びついている言葉というものが、いくつかある。 僕のなかでの筆頭は、「おかか」と「閣下」。多分、おかかはおにぎりの文脈で知って、閣下は『天空の城ラピュタ』か何かで知った。そしておそらく、ほぼ同時期に知ったのだと思う。しかも、日常生活での登場頻度がほとんど同じくらいなのもよくない。閣下という言葉を聞くと、なんだか口のなかでおかかの味がする。あるいは、おかかを食べていると、脳裏に閣下の姿が蘇る(名前のない、概念としての閣下、閣下のイデア)。 まだそういう経験

          おかか閣下

          コロシアム

          古代ローマの円形闘技場(コロシアム)では、各地の奴隷が集められて剣闘士として育成され、血なまぐさい戦いがショーとして営まれた。賭け事の類も行われていたらしい。また、ショーは一対一の決闘の形式だけではなく、史実の戦争を再現した模擬戦や、動物との戦い、さらには闘技場に人工の湖を設け、模擬海戦が行われることもあったという。 「パンとサーカス」と言われるときの「サーカス」は、現代のサーカスを指すのではなく、円形闘技場の残酷ショーを指していた。両者はともに、ときの皇帝がローマの国民か

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          ハザードランプ

          僕は通勤にバイクを使っている。バイクは事故を起こすとこちらが大けがをするので、極めて慎重に運転するようにしている。とりわけ、前方の車がハザードランプを焚いたときには、全神経が研ぎ澄まされる。 なぜなら、ハザードランプは多義的だからだ。それは、「これからバックしますよ」という合図かも知れないし、「先に行ってください」という合図かも知れない。あるいはもしかしたら、こちらに何かの合図を送っているわけではなくて、つまり、向こうはこちらを認識していないかも知れない。そうした様々な可能

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          イルカの話

          バーチャル・リアリティという言葉は、1931年にアントナン・アルトーという思想家が作り出した言葉だと言われている。当たり前だけど、彼が念頭に置いていたのは、テクノロジーによって構成された視聴覚的な疑似空間のことではなく、演劇のことだった。彼は「錬金術的演劇」という評論のなかで、演劇をある種の錬金術として説明し、そして両者はともにバーチャル・リアリティを作り出そうとするものである、と述べている。 錬金術というのは、ものすごくざっくりと言えば、石を黄金に変える技術のことだ。その

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          格闘技の技を道場の外で使用するのはやめましょう

          僕は大学生のときに、大学の近くにある空手の道場に通っていた。大学でフルコンタクトの空手部に入っていたのだが、練習が激しすぎてやめた。何かめちゃくちゃな稽古やトレーニングを強いられたわけではないのだが、先輩が強すぎて、ゲーム性が崩壊していたのだ。 大学近くの道場はライトコンタクトだった。これは、組手のときに本気で相手を強打するのではなく、いいタイミングで技が入ったらポイントを取って、そのポイントの合計点で競うというルールだ。相手にダメージを与えてもいいけど、それよりも早く正確

          格闘技の技を道場の外で使用するのはやめましょう

          ミニマリストについて

          ミニマリストには二種類いると思っている。一つは、最適化されたミニマリスト、もう一つは、反時代的なミニマリストだ。 最適化されたミニマリストは、その都度の状況に応じて、必要最小限の道具だけを持とうとする人である。こうした人は、実は、たくさんの商品を買っては、そのほとんどをろくに使いもせずに廃棄したり、転売する。なぜなら、どのように最適化するかはその人が置かれた状況によって左右されるのであり、最適化が実現されるまで、試行錯誤が繰り返されるからだ。   たとえば、一見すると一つの

          ミニマリストについて