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愛の帰結としての怪物化──安亜沙「一角獣の謎」を観て

安亜紗がO Gallery eyesにて2024年6月24日から6月29日にかけて実施した個展「一角獣の謎」を観覧した。今回はその感想である。

今回の展示には三つのモチーフが存在する。まず、心斎橋に存在するスクエアセンタービル、次に、古代ギリシャのミノタウロスをめぐる神話であり、そして最後に、ルネ・マグリッドの結婚論である。

スクエアセンタービルは、1970年に建築された建物で、地上6階、地下1階で構成されている。中は様々なグラフティで彩られており、物が放置されていり、無秩序である。現在の耐震基準には適合しておらず、近く取り壊されることが決まっている。

この、ある意味で無秩序な空間を迷宮に見立てる、ということが、安の着想の出発点だったと推測される。展覧会のなかでは、迷宮には怪物が存在しなければならない、という文章が引かれ、この迷宮のなかに存在するとされる一角獣の少女の映像が映し出される。少女は一人であり、糸を垂らしながらとぼとぼと歩いたり、一人で遊んでいたりする。

この糸は、ミノタウロスの神話における「アリアドネの糸」を想起させる。そもそも迷宮はミノタウロスを閉じ込めるために建設さた。しかし、ミノタウロスへの捧げもののために多くの犠牲が生まれたため、ある日、テセウスがミノタウロスを討伐しに、迷宮の中へ足を踏み入れる。そのとき、テセウスが迷宮から脱出できるように恋人アリアドネから手渡されたのが、アリアドネの糸に他ならない。

この通俗的なミノタウロスの神話において、迷宮は、現実の世界から怪物を隔絶するための技術的な装置を意味している。迷宮は怪物を抹殺するものではなく、人間が怪物と共存するための環境なのだ。しかし、それが技術の産物であるにもかかわらず、人間自身にもその迷宮を踏破することができない。迷宮は、「アリアドネの糸」という別の技術によって、誘導されなければならないのである。

興味深いことに、この迷宮は内臓を模して造られたと言われている。内臓とは、私たちの中にあるものだ。そしてその迷宮の内奥には怪物が潜んでいる。そうであるとしたら、ミノタウロスの神話が示唆しているのは、私たちの内奥に潜む怪物性に、「アリアドネの糸」という技術的な知性によって武装した英雄が立ち向かうという物語であり、それは言い換えるなら、自らの怪物性を技術的な知性によって乗り越える人間性の称揚である、と考えたくなる。

しかし、安の作品は、そうした安易な解釈を退ける。会場の中央に位置するインスタレーションでは、白い箱から、あたかも小腸のような、あるいは臍の緒のような、ピンクと赤のグラデーションの管が伸びて行き、それがやがて赤い糸へと変容し、他の展示物へと絡みつく様子が表現する。白い箱は、いかにもまがまがしく、怪物的であり、とてもこの世のものとは思えない。その箱から、堰を切ったように飛び出してきた、不定形のぶにょぶにょとした内臓が、やがて糸となって、展示物を誘導していく。

観客は、展示物を見ようとすると、その赤い糸によって行動を制限される。彼女の展示物は基本的に箱型のオブジェクトであり、その様々な側面にテクストや写真が貼り付けているが、それをすべて見るためには、色々な角度に回り込まなくてはならない。しかし、糸が邪魔をしてそれを簡単には許さない。そのため観客は、糸に規定される形で、糸に導かれるかたちで、展示物を見ることになる。それはまさに迷宮においてアリアドネの糸によって道を指示されるという事態にも似ている。

鑑賞中にハッとしたのは、展示物を見るために、糸に導かれて色々な体勢を取っていると、だんだん方向感覚を失うというか、酔ってくるということだ。テクストが90度回転して表示されていたり、覗い込まないと見えないようになっているものがあることも、その一因かも知れない。

おそらく安の作品世界において、アリアドネの糸もまた、怪物性に由来するものなのだろう。人間にとって、それ自身が怪物的なものと化す迷宮に対して、その迷宮を克服するための技術であるところの糸も、やはり怪物性に基づいている。怪物性による危機を、怪物性によって解決している。怪物性が直面する混乱を、怪物性によって誘導する。そうした、怪物性の自己救済の物語が、そこには描かれているようにも思えた。

こうした怪物性をめぐる混乱のなかに、マグリッドをめぐる結婚論が差し込まれる。安の引用するところによれば、マグリッドは結婚を異質なものの組み合わせとして説明していた。その解釈に従うなら、誰かを愛することは、自分と異質なものと結合することであり、その意味で怪物化することである、ということになる。

マグリッドの結婚論を介在させることは、怪物をめぐる思索に新たな光を当てる。ミノタウロスをめぐる神話は、怪物性をあくまでも内在的なものとして説明する。怪物性の自己救済は、ともすれば、閉鎖的な自問自答のように捉えられかねない。しかし安によれば、私たちは他者を愛するときに怪物と化すのだ。あるいは愛し合うときに、人は他者と共に怪物と化すのだ。その意味において、怪物化は決して自己への閉鎖を意味するのではない。それはむしろ、そうした閉鎖を打ち破り、他者へと開かれることを意味する。

ミノタウロスの神話に対する通俗的な解釈は、怪物を迷宮へと閉鎖する物語として理解される。それに対して安が提示するのは、怪物性を閉鎖的な内省へと陥らせることなく、他者への開放的な愛として理解する物語なのかも知れない。それを可能にするために、彼女はアリアドネの糸を、怪物性に由来するものとして、グロテスクな天使に侍られた門を決壊させた、怒涛のごとき内臓の炸裂として描き出したのかも知れない。

改めて振り返ってみれば、彼女はなぜその物語を、スクエアセンタービルのうちに見出したのだろうか。その建物の中には、スマート化していく現代社会に馴染めなかったものが、いわばその社会にとって「怪物」的なものが、幽閉されている。しかしそれは単に幽閉されていただけだったのだろうか。それは、単に現実社会から隔絶され、現実社会から見えないように閉じ込められ、あたかも存在しないかのように封じ込められたものでしかなかったのだろうか。

そうではないだろう、と安は考えたのではないだろうか。そこには、スクエアセンタービルという迷宮においてこそ実現した他者との出会いがあったのではないだろうか。そのビルに描かれたグラフィティは、そのビルに放置された資材は、誰のものかもわからない遺留品の数々は、そのビルへの人々の愛の痕跡だったのではないか。そう彼女は訴えているように思える。

※安さんとは、GACCOHさんで6月23日に対談させて頂きました。安さんならびに当日に有益な質問をしてくださった皆様にお礼を申し上げます。


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