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ハッシュタグ的連帯

『SNSの哲学』のなかで、ハッシュタグ的連帯について書いている。典型的なのは「#me too」を利用した運動の手法だ。そのタグをつければ、一つの政治的な立場を代表する意見として、検索されることができる。それによって、他者がそのハッシュタグを検索したとき、その立場を支持する人々のボリュームを、ある種の量として捉えることができるようになる。

ただ、「me too」は、政治的な立場の表明としては、いささか雑である。完全に同じ意見なのか、それとも部分的には同意できるけど違う部分もあるのか、そしてその場合にはどの部分が同意できるのかが、まったく表現できない。しかし、そうしたディティールを表現できないからこそ、多分このハッシュタグは力をもっている。

と言うよりも、むしろ、技術的にディティールを表現できない手法だからこそ、私たちはディティールを表現する責任を免除されるのだ。ハッシュタグで連帯を表明しようとすれば、どうしても、ディティールを説明することは省略せざるをえない。だからディティールを省略することは「私」が選んだことではないし、その責任は「私」にはない。そう思わせることによって、かえって、ある政治的な立場に賛同することへの心理的な負担は、軽くなるのだろう。

僕はこのことが、いいとも悪いとも思わない。それが社会を望ましくするための政治的な運動にとって、有益なこともあるだろう。ただ、同時に無責任な運動への加担を誘発することにもなるだろう。

そしてそれは、誰に対して「me too」するかによっても変わってくるのだろう。僕は他者から気軽に「me too」なんかしてほしくない。俺の何が分かるんだ、と思ってしまう。でも、それは多分、僕が社会的な承認を得ており、孤立していないからだ。そうした承認から排除され、孤立のなかに見捨てられた人は、「me too」されることで勇気づけられ、暴力へと立ち向かう力を借りることができるのかも知れない。

SNS苦手だな。

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