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ハザードランプ

僕は通勤にバイクを使っている。バイクは事故を起こすとこちらが大けがをするので、極めて慎重に運転するようにしている。とりわけ、前方の車がハザードランプを焚いたときには、全神経が研ぎ澄まされる。

なぜなら、ハザードランプは多義的だからだ。それは、「これからバックしますよ」という合図かも知れないし、「先に行ってください」という合図かも知れない。あるいはもしかしたら、こちらに何かの合図を送っているわけではなくて、つまり、向こうはこちらを認識していないかも知れない。そうした様々な可能性を考慮して、相手がどんな意図でハザードを焚いているのかを想像する。

考えてみたら、そんなに全神経を尖らせて相手のことを想像することなんて、めったにない。日常のコミュニケーションではまずありえない。多分それは、大抵の言語は解釈を間違えてもなんとなるからだ。「あれ、こういう意味じゃなかった?」と聴き返すことができるからだ。しかし、ハザードの誤解釈は死に直結する。だから解釈を間違えることは許されない。したがって、全力で想像力を働かせるのである。

とはいえ、そうやって想像力を働かせることは、決して悪いことではないように思える。そういうときにこそ、僕は相手の気持ちにもっとも接近し、相手の身になって世界を眺めることができるように思う。

哲学者の朱喜哲さんは、『〈公正〉を乗りこなす』のなかで、ディスコミュニケーションによるトラブルを、自動車の「事故」に喩えている。ハザードランプのような、意味が一つに確定しない機能を自動車が備えていることは、「事故」を避けるために必要なものなのだろうか、それとも、できることなら失くした方がよいものなのだろうか。ハザードランプが多義的であることで事故が起きることもあるだろう。しかし、それがあることで、当意即妙の瞬間的な意思疎通が、ドライバーの間で成立することもあるだろう。

いずれにせよ、目の前の車が突然ハザードランプを焚き始めたときの恐怖は、毎度のこと新鮮である。

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