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イルカの話

バーチャル・リアリティという言葉は、1931年にアントナン・アルトーという思想家が作り出した言葉だと言われている。当たり前だけど、彼が念頭に置いていたのは、テクノロジーによって構成された視聴覚的な疑似空間のことではなく、演劇のことだった。彼は「錬金術的演劇」という評論のなかで、演劇をある種の錬金術として説明し、そして両者はともにバーチャル・リアリティを作り出そうとするものである、と述べている。

錬金術というのは、ものすごくざっくりと言えば、石を黄金に変える技術のことだ。そのとき石は、「実質的に」、黄金と見なされる。演劇も同様で、役者は、「実質的に」、その物語の登場人物と見なされる。しかしこの「実質的に」ということは、決して非現実であるということを意味しない。アルトーによれば、それは「危険で典型的なもうひとつの現実の分身であり、その分身にあっては、諸原理がまるでイルカのように顔を覗かせてはたちまち海の暗闇のなかへと帰ってしまう」ようなものなのだ。

この「実質的」という概念が、彼にとっての「バーチャル」の意味である。ところで、僕はこの評論のなかの「イルカのように顔を覗かせてたちまち海の暗闇のなかへと帰ってしまう」という表現が、とても好きだ。

夜の海を航海している。乗客は寝静まり、甲板には誰もいない。月の光を反射する水平線を眺める。水面に映る月明りは、波によって細かく乱される。そんななかで、ふと、一対の眼差しがこちらを向いていることに気づく。それがイルカだと気づくと、身を乗り出して、その姿を確認しようとする。しかし、目が合った瞬間に、イルカは背を向けて海中に消えてしまう。波一つ立てず、その姿は見えなくなる。それが現実だったことにだんだんと確信が持てなくなる。実は夢を見ていただけなんじゃないかと思うようになる。

要するに、アルトーが演劇に対して言わんとしていたのは、そういうことなのではないか。

残念ながら、僕は最近では滅多に演劇を観ない。ただ、音楽のライブに行くと、似たような感覚を抱くことがある。ライブ会場は、まるで現実の世界から切断された、もう一つの夢の世界のようである。しかし、一歩会場を後にすると、そこで本当にライブが行われていたということに、確信が持てなくなる。だんだんと、自分は確かにライブに参加していたのだろうか、それはただの夢だったのではないだろうか、という気持ちにすらなってくる。やがて、ライブの内容は思い出せなくなっていく。夜の海に帰っていくイルカのように、ライブの記憶は霧散していく。

なぜ、音楽のライブや、演劇がある種の仮想空間だとして、なぜ、僕たちは仮想空間を記憶できないのか。それはもっと理論的に考えるべき事柄だろう。

夜の海でイルカに会ってみたい。そして、「そこにいるのか!?」とか言ってみて、雰囲気を台無しにしてみたい。

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