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犬目線の桃太郎

多分、ある集団のなかで誰かを「推す」ということは、その集団の中心をその誰かに置くということ、その集団を、「推し」によって意味づける、ということを意味する。

たとえば『ONE PIECE』でサンジを推すなら、その物語はサンジを中心としたものとして再構成される。サンジが紙面に登場していないときも、「サンジはこのときどこにいるんだろう」「サンジはこの発言をどう受け止めているんだろう」と、パースペクティブの変換が起こる。

そういうコンテンツの受容の仕方を可能にしているのは、視点が流動的に変わりうるということ、つまり視点が固定されていないということだ。言い換えるなら、絶対的な視点が存在しないということ、物語の意味が確定されていないということである。

絶対的な視点によって物語の意味が確定されているコンテンツもある。たとえば桃太郎だ。桃太郎の主人公は桃太郎であってそれ以外ではないし、桃太郎の教訓は勧善懲悪であってそれ以外にない。読者は、犬を推して、犬目線で桃太郎を読むことができないし、鬼目線で読むこともできない。もしそうすれば、桃太郎の物語は根本的に崩壊する。あるいはそういう読み方は可能かも知れないが、少なくともそのためには、勧善懲悪という教訓は捨てなければならない。いかなる確定された教訓もない物語としてであれば、桃太郎を犬目線や鬼目線から読むことも可能だろう。しかしそれは、僕たちの知る桃太郎とは違うコンテンツだろう。

確定された意味がないということ。それはクリエイターからコンテンツの「読み方」を教えてもらえないということでもある。ジジェク風に言えば、何を欲望すればよいのかを、命令してもらえない、ということだ。彼は、絶対的な権威が不在である現代社会において、人々は自分が何を欲望するべきか分からなくなり、閉塞状況に陥るだろう、と予言していた。しかし推し文化はそれを見事に裏切っているようにも思える。

ただ同時に、「推し」が持つ排除や暴力性や欺瞞についても、同時に考えるべきだけど。

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