格闘技の技を道場の外で使用するのはやめましょう

僕は大学生のときに、大学の近くにある空手の道場に通っていた。大学でフルコンタクトの空手部に入っていたのだが、練習が激しすぎてやめた。何かめちゃくちゃな稽古やトレーニングを強いられたわけではないのだが、先輩が強すぎて、ゲーム性が崩壊していたのだ。

大学近くの道場はライトコンタクトだった。これは、組手のときに本気で相手を強打するのではなく、いいタイミングで技が入ったらポイントを取って、そのポイントの合計点で競うというルールだ。相手にダメージを与えてもいいけど、それよりも早く正確に技を入れる方が、勝利しやすい。そのため組手は、パワー一辺倒ではない、技の応酬が繰り広げられる美しい試合になりやすい。

僕は「捌き」という技が好きだった。相手の技に合わせて、相手に身体を密着させ、軸をずらして、相手を投げ飛ばす技術だ。面白いのは、相手の道着を掴んだり、ちょっと足を引っかけたりはするものの、派手に足払いをしたりするのではなく、最小限の動きで相手を吹っ飛ばせるということだ。特に、回し蹴りなどの回転系の技に対しては有効だった。

ただ、好きだっただけで、得意だったわけではない。だから何度も反復練習して、ようやくちょっとは組手で使えるくらいになった。その少しあと、引っ越しに伴って、その道場は辞めてしまった。

何年か後のことである。地下鉄を歩いていると、遠くからこちらに向かって突進してくるおじさんに遭遇したことがある。なんでかは全然分からないのだが、体当たりする意図があったとしか思えない。避けようとしたのだけど、魚雷のように角度を微調整して、こちらに向かってくる。

身体が接触した瞬間に、身体が勝手に捌きの技術を発動して、そのおじさんの体勢をくずさせてしまった。さすがに吹っ飛んだりはしなかったけど、おっとっと、みたいな感じで、転ぶ寸前みたいな感じにさせてしまった。申し訳ないと思いつつ、ぶつかってきたあんたが悪いとも思った。

さて、この話、哲学にも似たようなところがあると思う。

哲学書を読んでいるとき、人はある与えられた厳密なルールのなかで、哲学的な思考をしている。それは道場のなかで、ライトコンタクトルールという規則のなかで、技を磨いたり、組手をしたりするようなものだ。たとえばハイデガーを読むとき、『存在と時間』のなかの「帰趨性」という言葉と出会って、その意味を説明できるかを自分に問いかけ、ああでもない、こうでもないと考えることは、道場で捌き技を習得するために、ああでもないこうでもないと、先輩の身体を借りて練習することに似ている。道着を着たハイデガー先輩。魔法とか使ってきそうだ。

そうした訓練によって習得された技が、ある日突然、役に立つことがある。地下鉄で何の前触れもなくぶつかりおじさんに遭遇したとき、捌き技で自分の身を守れるように、何かの大きな問題に直面したとき、哲学的な思考がその問題の解決に役立つことがある。

ただ、おそらくその役の立ち方は、技が完全に再現されることによってではないだろう、と思う。地下鉄で自分の身を守ったときも、僕は技を完全に再現できたわけではなかった。単に、直撃を避けられるポイントに、身体の重心を咄嗟に動かしただけだ。それは厳密に言えば空手の技などではない。でも、空手を習っていなかったら、その動きはできなかっただろう。

同じように、哲学書を読んで考えたことが、そのまま問題解決に役立つことはほとんどないだろう。ただ、哲学書を読んで考えていなければできなかったような考え方が、できることはあるかも知れない、と思うのだ。それは、端から見れば、ほんとうにちょっと考え方を変えるだけのことなのかも知れないけれど、咄嗟にその思考ができるか否かが、人生を分けることだってあるのかも知れない。

その、具体的な場面において、はっきりとした形を持たず、しかし哲学的な思考を訓練しているからこそ現れてくる、思考のあり方を、なんと呼んだらいいのだろう。それは哲学的な思考なのだろうか。少し違うようにも思う。

とりあえずぶつかりおじさんは滅んでくれ。
あと格闘技の技を道場の外で使用するのはやめましょう。ダメゼッタイ。


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