文学からパレスチナ問題を知る①~G・カナファーニーの生涯
イスラエルによるパレスチナのガザ地区に対する攻撃は、極めて深刻な人道危機となっています。イスラエル・パレスチナ紛争は毎日のようにニュースの見出しに登場しますが、詳しくは分からないという人が多いと思います。
イスラエル・パレスチナ紛争の入門的知識については、是非下記をお読みください。
さて、歴史家や国際政治学者、ジャーナリストなどが書いたノンフィクションとしての本を読むことも大切ですが、小説が問題の本質を突いていることもあります。本稿では、パレスチナ人の作家ガッサーン・カナファーニーの小説『ハイファに戻って/太陽の男たち』(河出文庫、黒田寿郎/奴田原睦明訳)を紹介したいと思います。
ガッサーン・カナファーニーの出生
1936年4月9日、ガッサーン・カナファーニーはパレスチナのアッカに生まれました。彼は中流階級の生まれで、フランス系ミッションスクールで教育を受けます。
彼の人生が暗転したのは12歳の時です。1948年当時、パレスチナではユダヤ人とアラブ人の紛争が激化していました。パレスチナを委任統治していたイギリスは撤退が決まっていましたが、すでに手に負えない状況でした。
デイル・ヤシーン村の虐殺
1948年4月9日、ユダヤ人の武装組織がアラブ人の村デイル・ヤシーン村を襲い、女性・子ども・老人を含む住民を虐殺しました。この報せはアラブ人たちを恐怖させ、逃げ出した人々が大量の難民となります。アラブ人(パレスチナ人)が故郷を奪われ難民化した出来事を、「ナクバ」と呼びます(アラビア語で「大災厄」の意)。
カナファーニーの一家も、故郷を捨てて難民となりました。デイル・ヤシーン事件は、アラブ人たちが恐怖で逃げ出すよう、イスラエル側が見せしめとして行ったものでした。事件はくしくもカナファーニーの誕生日であり、彼は生涯自身の誕生日を祝うことはありませんでした。
「悲しいオレンジの実る土地」
デイル・ヤシーン事件の約1か月後、イスラエルの建国が宣言されます。反発した周辺アラブ諸国がイスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が始まりました。
カナファーニー自身も難民となったナクバの経験は、前掲書にも収録されている「悲しいオレンジの実る土地」(1963年)に描かれています。
物語は、事態をうまく呑み込めない子どもの視点から描かれます。何やら忌まわしい報せを受け取った父はパニックを起こし、一家はオレンジの農場を捨てて国外に逃げることになります。
パレスチナ人は、イスラエルによって土地や財産、故郷の美しい風景まで奪われたのです。
その深い悲しみは、「ぼく達は、オレンジの実る土地からも、遠く引き離されてしまっていた」(P117)という一節に現れています。
カナファーニーの最期
成人したカナファーニーはパレスチナ解放運動に身を投じる傍ら、パレスチナ人の苦難を小説で表しました。
1967年、パレスチナ解放人民戦線(カナファーニー(PFLP)が設立され、カナファーニーはそのスポークスマンとなります。彼の言論活動は国際的にも注目を浴びたため、イスラエルにとっての脅威となりました。
1972年7月、レバノンの首都ベイルートにおいて、カナファーニーは自動車に仕掛けられた爆弾で暗殺されました。享年36歳。一緒にいた姪も犠牲になりました。
(続く)
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