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戦争まで引き起こした「イエロー・ジャーナリズム」③~ピュリッツァーのアメリカン・ドリーム

前回はこちら。

 本稿の主題である「イエロー・ジャーナリズム」が登場するのは19世紀の終わりごろのことである。ざっくり言えば、「発行部数を伸ばすため、俗っぽいゴシップなどを派手な演出で報道する。他社を出し抜くため、さらに報道合戦が加熱する」という構図のジャーナリズムといえる。

新聞界の二人の巨人

 イエロー・ジャーナリズムは、ジョセフ・ピュリッツァー(1847~1911)とウィリアム・ランドルフ・ハースト(1863~1951)という二人の新聞人の間で展開された。ピュリッツァーは、優れた報道や出版などに与えられる「ピュリッツァー賞」にその名を残す。一方のハーストは、30に及ぶ新聞に加え、雑誌・映画など関連企業を傘下に収め「新聞王」という異名をとった。映画「市民ケーン」(1941)のモデルとしても知られている。

(※アメリカの新聞は日本と違い、全国紙よりも地方紙の方が発達している。広大な国土全体に、均一な紙面を提供するのは難しいからだ。有名な《ニューヨーク・タイムズ》や《ワシントン・ポスト》も地方紙である。《ウォールストリート・ジャーナル》などの全国紙が存在感を発揮し始めるのは、通信の発達した1980年代以降のことだ。本稿で登場する新聞も、すべて拠点都市とその周辺限定の地方紙である。)


アメリカに降り立ったジョセフ・ピュリッツァー

 ピュリッツァーは1847年生まれのユダヤ系ハンガリー人である。彼の父は成功した商人であったが、父の死によって一家は没落。1864年、17歳のピュリッツァーはアメリカに移民した。南北戦争では北軍の義勇兵として従軍している。

 戦後はミズーリ州のセントルイスに住み、ドイツ語新聞の記者として働く。セントルイスではドイツ系人口が多く、ピュリッツァーがドイツ語を解することが役立ったのである。彼は州議会議員などを経て、1878年に経営難の地元紙を買収し『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』紙を創刊した。

ピュリッツァーを襲った思わぬ挫折

 買収時に4000に満たなかった発行部数は、ピュリッツァーの辣腕によって劇的に増加し、1882年9月には22300部にまで成長した。

 ところが、1882年10月に事件が起きる。スレイバックという弁護士が、記事の内容に抗議して編集部に押しかけた。その際に銃を使って脅したため、編集長のコッカリルによって射殺されてしまった。コッカリルは裁判にかけられなかったものの、事件のダメージは大きかった。評判を大きく傷つけられたピュリッツァーは、セントルイスを離れる決意をする。

 それでも、ジャーナリズムに賭けるピュリッツァーの意思がくじけることはなかった。1883年、彼は《ニューヨーク・ワールド》紙を買収してニューヨークに進出する。このニューヨーク進出は、ピュリッツァーにさらなる飛躍をもたらした。

(続く)

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