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【書評】和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)

 数多の戦国武将の中でも、柴田勝家はかなり有名な方です。織田信長の重臣であり、信長の死後、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れました。

 猛将として知られる一方、歴史の敗者である勝家には負のイメージも付きまといます。創作では、あまり頭のよくない猪突猛進型の武将で、時代の流れについて行けず敗れ去った――という人物造形になっていることが多いようです。

 しかし、勝家については同時代の史料に乏しく、実像は謎に包まれています。本書は、これまで意外となかった柴田勝家の本格的な評伝です。


謎に満ちた勝家の生涯

 柴田勝家については、その父の名前すらはっきりと分かっていません。勝家は天正11(1583)年に亡くなりますが、享年は史料によって57歳~62歳と幅があります。つまり生年も判然としないのです。

 勝家の養子には勝政、勝豊がおり、実子として権六(賤ヶ岳の戦いの後、処刑)がいるようですが、やはり異説も多くはっきりしません。歴史の敗者ゆえに史料が散逸してしまったためです。

政治にも優れていた勝家

 猪武者のように思われている勝家ですが、本書には意外な姿も登場します。永禄11(1568)年、信長は足利義昭を伴って入京。その後、勝家は蜂屋頼隆らの武将とともに畿内の統治にあたり、所領をめぐる係争の解決などにあたりました。

 宣教師ルイス・フロイスは、勝家に仲介してもらう形で信長と謁見しました。勝家は政治能力も高く、信長に対する影響力も大きかったのです。

なぜ勝家は秀吉に先を越されたのか

 このように優秀な勝家は、なぜ最終的に秀吉に敗れたのか。本書を読むと、「勝家は織田家中でも一番評価されていたから」という逆説的な理由が浮かび上がってきます。

 勝家が主に活躍したのは、一向一揆の勢力が強く、当地の難しい北陸でした。さらには上杉氏という強力な敵とも境界を接しています。北陸は苦しい戦いが予想されるからこそ、勝家が方面軍司令官に任命されました。

 本能寺の変の後、秀吉は他の重臣に先んじて畿内に戻り、明智光秀を討ちます。勝家と秀吉には、次のような差がありました。

①秀吉と戦っていた毛利氏は和睦に傾いていたが、勝家と戦っていた上杉氏は滅亡を覚悟して対峙していた。
②勝家は、秀吉よりも1.5倍ほど京都から離れた場所にいた。勝家は秀吉の「中国大返し」を上回る速度で撤収したが、間に合わなかった。

 流石に条件が不利すぎます。勝家の能力が、秀吉にそれほど劣っていたわけではないのです。

優秀だったゆえの悲劇

 また、勝家と秀吉の指揮する軍の性質にも違いがありました。戦国大名は、家臣たちを「寄親・寄子(上司と部下)」として編成します。
 信長の信頼厚い勝家には、既に家中で地位のあった有力な武将が与力(配下)につけられました。彼らは「勝家の部下」という意識には乏しく、秀吉との対決の際にはマイナスに働きました。勝家の配下は秀吉と比べて団結力が弱く、あっけなく瓦解してしまいます。

 秀吉に及ばず敗れた勝家の実像に迫る、意欲的な一冊です。

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