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戦争まで引き起こした「イエロー・ジャーナリズム」(最終回)~ハーストの支払った代償

前回はこちら。

高くついたイエロー・ジャーナリズムの代償

 1901年9月6日、マッキンリー大統領が狙撃され、8日後に死亡した。衝撃的な暗殺事件に対し、「ハーストの新聞が大統領暗殺を煽った」という非難がライバル紙を中心に巻き起こった。

 確かに、ハーストの新聞の社説には、大統領の暗殺を容認するかのような言説が掲載されたことがある。だが、それは暗殺事件の数ヶ月も前のことであり、事件との因果関係を類推するには無理があった。犯人のレオン・ツォルゴッシュには精神異常の疑いがあり、しかも移民の子で英語が読めなかった。
 しかし、こうした事情が勘案されることはなく、ハーストは「殺人者」として公然と批判されるようになる。新聞人としてのハーストの名声は大きく傷つけられた。煽情的な報道によって他者を攻撃する者は、ふとしたきっかけで攻撃される側に回りかねないのである。あれほどの狂騒を巻き起こしたイエロー・ジャーナリズムも、20世紀に入ってからは下火になっていった。

有名な逸話が広まった理由

 最後になるが、米西戦争時のイエロー・ジャーナリズムをめぐっては、次のような逸話がある。開戦前、キューバに送られた挿絵画家レミントンは、ハーストに次のような電報を送った。


「万事平穏、ここには何の問題もありません。戦争は起きないでしょう」
 ハーストは、画家にこう返信したという。
「そこにとどまるように。君は挿絵を用意しろ。私は戦争を用意する」


 非常に有名な逸話だが、実は事実かどうかは定かではない。『新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの生涯』(デイヴィッド・ナソー著、井上廣美訳)によれば、これらの逸話を喧伝したのはほかならぬハースト自身だったという。自己宣伝に長けた彼は、「ハーストの力によって米西戦争が引き起こされたのだ」という「伝説」を歴史家たちに植え付けることに成功したわけだ。
 上記の逸話は、ハーストとイエロー・ジャーナリズムについて語るとき、必ずと言っていいほど引用される。もしかしたら、私たちは米西戦争から1世紀以上を経た現在でも、ハーストの作り出した「フェイクニュース」に騙され続けているのかもしれない。

(了)

参考文献
デイヴィッド・ナソー著、井上廣美訳『新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの生涯』日経BP
佐藤卓己『現代メディア史』岩波書店
武市英雄「米西戦争とセンセーショナリズム:N.Y.ワールドのメイン号沈没事件の報道を中心に」(コミュニケーション研究、1970)
大井慎二「センセーショナリズムを考える―アメリカ・ジャーナリズム史の文脈から」(マス・コミュニケーション研究、1993)

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