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日活ニューアクションの魅力!

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日本のアクション映画史上、最大のターニングポイントとなった1960年代末から70年代にかけての「日活ニューアクションの世界」をまとめました。
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『不良少女 魔子』(1971年・日活・蔵原惟二)

『不良少女 魔子』(1971年・日活・蔵原惟二)

 『不良少女 魔子』が公開されたのは1971 (昭和46)年8月25日。同時上映は藤田敏八監督『八月の濡れた砂』だった。

 1954 (昭和29)年、『国定忠治』(滝沢英輔)と『かくて夢あり』 (千葉泰樹)から製作再開を果たした日活は「信用ある日活映画」をキャッチに文芸作、石原裕次郎、小林旭のアクション映画で時代を築いてきたが、1971年の晩秋、ロマンポルノへと路線変更することになる。そういう意

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『流血の抗争』(1971年・日活・長谷部安春)

『流血の抗争』(1971年・日活・長谷部安春)

 日活がロマンポルノへと路線を変更し、一般映画の製作を休止することになる1971 (昭和46)年は、日活アクション史における最後の年でもある。この『流血の抗争』は6月10日に封切られた長谷部安春監督にとっても最後の日活アクションとなった。く新しい資金源を求めて次々と新興都市を喰いつぶす巨大な組織暴力の実態>とプレスシートにあるが、アクション映画そのものも大きく変容していた時代でもある。

 才気あ

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『広域暴力 流血の縄張』(1969年・日活・長谷部安春)

『広域暴力 流血の縄張』(1969年・日活・長谷部安春)

 ドスを呑込んだダボシャツ姿のアキラが、新宿歌舞伎町を彷徨う。望遠レンズで捉えたキャメラが、ナマナマしく1969年の新宿を行き交う人を映し出す。血まみれのダボシャツ。剃り込みの入った額。全身から発散する気迫。まさか、これが「渡り鳥」で黄色い歓声を浴び、スーパーヒーローとアジアで賞賛されたマイトガイと呼ばれた小林旭だと、誰も思わなかったんじゃないだろうか? 

どう見ても本職。もちろん周囲にはスタッ

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『無頼 人斬り五郎』(1968年・小澤啓一)

『無頼 人斬り五郎』(1968年・小澤啓一)

「無頼シリーズ」第4作!

 第2作『大幹部 無頼』で、それまでの日活アクションにないヴァイオレンスな世界を展開した小澤啓一監督が、再びメガホンをとったシリーズ第4作。脚本は「無頼」の世界を作った池上金男と小澤監督。以後、小澤が第6作『無頼 殺せ』(1969年)まで、このシリーズを続投していくこととなる。

 オープニング。雪の降るある晩、藤川五郎(渡哲也)が刃を向けるのが、中部地方を支配する名振

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『紅の流れ星』(1967年・日活・舛田利雄)

『紅の流れ星』(1967年・日活・舛田利雄)

「何か考えることねえか、って考えてるんだよ」舛田利雄監督と渡哲也による、1960年代末の日活アクションの金字塔! !

 この『紅の流れ星』は、俳優・渡哲也にとっても、日活アクションにとっても工ポック・メイキングとなった傑作。渡は、1965 (昭和40)年に『あばれ騎士道』でデビュー、昭和40年代を担う日活スターとして大々的に売り出された。渡は、舛田利雄監督による『嵐を呼ぶ男』(1966年)、『星

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『侠花列伝 襲名賭博』(1969年・日活・小澤啓一)

『侠花列伝 襲名賭博』(1969年・日活・小澤啓一)

 日活100年を迎えた2012年、松原智恵子さんに「ご自身のベストは?」と質問をすると、即座に「ベストではないかもしれませんが、どうしても観たい作品がある」と答えられたのが、この『侠花列伝 襲名賭博』だった。それまで任侠映画、現代やくざ映画といっても、美しく可憐なヒロインばかりだった彼女が、初めて、壺振りや仁義を切る映画に主演。好奇心旺盛だった頃で、立ち振る舞いや、壺振りの指導を受けるのが楽しかっ

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『八月の濡れた砂』(1971年・藤田敏八)

『八月の濡れた砂』(1971年・藤田敏八)

日活青春映画の「白鳥の歌」!

  昭和46(1971)年。日本映画史に残る衝撃的な作品が登場した。藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』は、斜陽の映画界にあって、ロマンポルノ路線転向直前、日活最後の一般映画として封切られた。同時上映は、蔵原惟二監督の『不良少女魔子』(夏純子主演)。石原裕次郎の衝撃的なデビュー作『太陽の季節』(1956年)や初主演作『狂った果実』(1956年)に始まる日活青春映画の歴史

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『無頼 殺せ』(1969年・小澤啓一)

『無頼 殺せ』(1969年・小澤啓一)

「無頼シリーズ」第6作!

 1969(昭和44)年3月に公開されたシリーズ第6作にして最終作。1969年は、日本だけでなく世界の音楽、ポップカルチャー、政治、モラルが大きく変革を遂げた年でもある。もちろん、映画をめぐる状況も大きく変わりつつあった。

 『無頼 殺せ』の脚本は第1作から、第3作『無頼非情』を除く5本のシリーズを手掛けてきた池上金男。東映の『十三人の刺客』(1963年)で集団抗争

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『無頼 黒匕首』(1968年・小澤啓一)

『無頼 黒匕首』(1968年・小澤啓一)

「無頼シリーズ」第5作!

 小澤啓一監督によるシリーズ第5作。1969(昭和44)年の正月映画として、石原裕次郎の『忘れるものか』(松尾昭典監督)と二本立て公開された。一年間に5作品つくられた「無頼」シリーズが、メイン番組として正月にラインナップされていることからも、このシリーズの人気が伺える。脚本は、第1作の世界観を作った池上金男。

 タイトルの「黒匕首(ドス)」は、前作から登場した主題歌「

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『無頼非情』(1968年・江崎実生)

『無頼非情』(1968年・江崎実生)

「無頼シリーズ」第3作!

 「無頼」シリーズは、第1作『無頼より 大幹部』の舛田利雄監督門下の監督が手掛けている。第2作『大幹部 無頼』でデビューした小澤啓一監督に続いて、この第3作『無頼非情』では、小澤の先輩にあたる江崎実生監督にバトンタッチされた。

 江崎は1954(昭和29)年、製作再開なったばかりの日活に助監督として入社。市川崑監督の『こころ』(1956年)、井上梅次監督の『火の鳥』(

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『大幹部 無頼』(1968年・小澤啓一)

『大幹部 無頼』(1968年・小澤啓一)

「無頼シリーズ」第2作!

 豪腕と呼ばれた舛田利雄監督の下で、石原裕次郎の『零戦黒雲一家』(1962年)や『赤いハンカチ』(1964年)などの助監督として活躍してきた小澤啓一監督。1960年代末から70年代初頭にかけて、日活ニューアクションを支えていくことになる澤田幸弘監督らとともに、1956(昭和31)年、日活助監督部に入社。ちょうど石原裕次郎が『太陽の季節』(1956年)の“若者言葉の指南役

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『無頼より 大幹部』(1968年・舛田利雄)

『無頼より 大幹部』(1968年・舛田利雄)

 石原裕次郎映画を中心に、日活で骨太の男性アクションの佳作を連打してきた豪腕監督・舛田利雄。デビュー間もない渡哲也を、裕次郎映画『赤い谷間の決斗』(1965年)で起用、“男対男”の拮抗と友情を、西部劇的な連帯感のなかで描いた。以来、会社の要請で裕次郎を“第二の裕次郎”に育てるべく、『嵐を呼ぶ男』(1966年)、『星よ嘆くな 勝利の男』(1967年)、『紅の流れ星』(1967年)と、かつて裕次郎で成

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日活ニューアクションの時代〜『無頼』と渡哲也〜

日活ニューアクションの時代〜『無頼』と渡哲也〜

 1960(昭和35)年、日活は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治の四人のトップスターを“ダイヤモンドライン”として命名、彼らの主演作をローテーションで公開する“ピストン作戦”を展開。アクション映画の黄金時代が到来した。ところが1961(昭和36)年には、裕次郎がスキー事故で骨折、赤木圭一郎が不慮の事故で亡くなるというアクシデントに見舞われ、その穴を埋めるために、ダイヤモンドラインに宍戸錠、

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『あばよダチ公』(1974年・澤田幸弘)

『あばよダチ公』(1974年・澤田幸弘)

 昭和45(1970)年、渡哲也の『斬り込み』でデビューを果たした澤田幸弘監督。『太陽の季節』『狂った果実』が作られた昭和31(1956)年に日活に入社。同期に小澤啓一、一年後輩に長谷部安春監督ら、日活ニューアクションの旗手たちがいる。日活アクション全盛期に助監督として活躍し、斎藤武市、鈴木清順監督などに師事し、同期の小澤啓一の「無頼シリーズ」でチーフ助監督を担当していた。同期や後輩に比べて、遅咲

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