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『無頼より 大幹部』(1968年・舛田利雄)

 石原裕次郎映画を中心に、日活で骨太の男性アクションの佳作を連打してきた豪腕監督・舛田利雄。デビュー間もない渡哲也を、裕次郎映画『赤い谷間の決斗』(1965年)で起用、“男対男”の拮抗と友情を、西部劇的な連帯感のなかで描いた。以来、会社の要請で裕次郎を“第二の裕次郎”に育てるべく、『嵐を呼ぶ男』(1966年)、『星よ嘆くな 勝利の男』(1967年)、『紅の流れ星』(1967年)と、かつて裕次郎で成功した企画を現代的に再生、新境地を模索していた。

 なかでも『赤い波止場』(1958年)のリメイクである『紅の流れ星』で、渡が演じた主人公・五郎は、裕次郎を『望郷』(1936年・仏)のジャン・ギャバンとするなら、『勝手にしやがれ』(1959年・仏)のジャン=ポール・ベルモンドのような現代性があった。裕次郎の時代の“熱さ”とは対極にある、渡哲也の“冷めた感覚”。この資質の違いこそ、渡哲也の新たな魅力であった。

 舛田利雄は、この『紅の流れ星』で、東映で『十三人の刺客』(1963年)などを手掛けていた、新東宝シナリオ塾時代の仲間、脚本家の池上金男(後の作家・池宮彰一郎)を招いた。その成功は低迷していた日活アクションのカンフル剤となり、続いて「『紅の流れ星』の続篇を撮らせて欲しい」と申し出るも、会社からは“どうしてもダメ、やくざものをやれ”と断られてしまう。当時の映画界は空前の任侠映画ブーム。東映、大映、日活がそれぞれ、時代劇、現代劇ともにやくざ映画を連作していた。

 会社の命を受けた舛田監督は、「どうせなら、古い大“浪花節”大会にしやろうと、始めたのが『無頼』なんです」(「映画監督 舛田利雄」2007年ウルトラ・ヴァイヴ)と筆者のインタビューに答えている。

 原作は、藤田五郎の自伝的小説「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント」(1967年南北社)。作者の実体験をもとにした“実録もの”であるが、舛田監督と池上金男は、これを「戦後史をアウトローとして生き抜いていく、ある若者の青春物語」ととらえ、渡が演じる主人公・藤川五郎のキャラクターを造形。少年時代から現在に至るまでの、五郎が生きて来た情況を、タイトルバックで描いた。なぜ五郎がアウトローになったのか、それがドラマの重要な骨子となる。それが舛田監督のセオリーでもある。例えば高橋英樹主演の『狼の王子』(1963年)では、前半のかなりの時間を割いて、主人公の少年時代から現在に至る道筋を描いて、経験とトラウマが、主人公にどういう風に投影されているかを、観客に伝えている。

 『無頼より 大幹部』では、タイトルバックで、少年時代の五郎が、どれほど苛烈な情況のなか過ごして来たかが、周囲の大人がどれだけ冷たかったのかを、短いカットの積み重ねで描いている。伊部晴美の奏でるテーマ音楽の旋律が、五郎の記憶や体験を観客に共有させてくれる。余談だが、このメロディは、第三作『無頼非情』で歌詞がつけられ、主題歌として渡哲也が歌うこととなる。

 タイトルが明け、戦後の焼け跡、闇市のなか、五郎少年は生きていくための処世術を身につける。菊地章子の流行歌「星の流れに」が時代の空気を再現している。やがて五郎は青年となる。ここで渡哲也が登場するのだが、それまでの描写で、われわれは藤川五郎という男の人生を知っているのだ。そこで鑑別所時代からの“先輩”杉山勝彦(待田京介)が登場する。二人を盃を交わした“兄弟分”ではなく、鑑別所の“先輩”としているのは、舛田監督のこの映画への眼差し。五郎は義理のために、今は敵対する上野組の組員の杉山を、杉山の妻・夢子(松尾嘉代)の眼の前で刺して、刑務所に入る。

 それから三年、五郎が出所してくると、夢子は赤線に身を窶している。五郎を待っていると約束した冴子(三条泰子)はサラリーマンと幸せな結婚をしている。冒頭では歳月が五郎をやくざにしていくプロセスを丁寧に描いていたが、ここでの五年の歳月は、二人の女の変貌で表現している。

 ここから“五郎の現在”が描かれていくのだが、松原智恵子扮する橋本雪子は、五郎をやくざとしてではなく、自分を救ってくれた恩人として、一人の男性として慕う。山口県萩市から、縁談がイヤで逃げ出してきた雪子が、浅草でチンピラに絡まれていても、周囲の人は誰も助けようとしない。そこへ五郎が現れる。

 「見て見ぬふりをする人よりも、自ら行動で示す方が、よほどいい。ということなんだ。親がいなければ、親の代りになってやる。それが温もりなんだよね。」(前喝書)と舛田監督は語っている。

 この雪子を救うシークエンスは、舛田監督の青春映画『ひとりぼっちの二人だが』(1962年)で、芸者になるのを嫌がって柳橋から浅草に逃げ出してきた吉永小百合と浜田光夫、坂本九との関係のリフレインでもある。またこの映画が“青春映画”として作られていることは、五郎の子分となる辻川猛夫(浜田光夫)が、焼き鳥屋の娘・公子(北林早苗)の関係でも明らか。また水原一家のチンピラ猛夫と、敵対する上野組の幹部・辻川勇(川地民夫)の二人は、道を踏み外しているチンピラと、踏み外しかけている不良学生の関係を描いた舛田の『太陽は狂ってる』(1961年)の延長線にある。

 母親を喪失し、妹を失い、アウトローとして生きて来た五郎は、これまでの日活アクションのヒーロー同様、喪失したアイデンティティの回復のために戦ってゆく。刑務所を出所した五郎には居場所がなく、猛夫と鈴木(藤竜也)の子分たちとの共同体や、自分を慕う雪子と新たな居場所を探していく。

 クライマックス、五郎が上野組組長(青木義朗)をナイトクラブで追いつめる場面。ステージでは青江三奈が1951(昭和26)年のヒット曲「上海帰りのリル」を歌っている。ヴァイオレンス・シーンの音を排除して、青江三奈の声だけが流れている。鮮烈な場面だが、カットバック編集してオールラッシュでチェックするときに、ミックス前なので音がワントラックしかかからない。そこで編集の井上治が歌だけで繋いだところ、それが効果的だったので採用したという。

 ともあれ、渡哲也のクールな五郎と、純真無垢な松原智恵子の雪子。監督によれば“浪花節的”関係が、1960年代末の冷めた時代の空気と相まって、『無頼より 大幹部』は渡哲也にとっても日活アクションにとっても新境地となってゆく。

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