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【エッセイ】不幸とか不幸とか不幸とかをつめこんでふやかしたらハッピーセット

 朝食会場でオムレツを作り続けるシェフの永久機関。精液にブラックライト。存在をかき消していく音姫。机に頬をくっつけて眺めると、空に傾いていくキャンパスの芝生と校舎。

 最近、視界に映るものすべてに意味づけをしてしまって、かといって目を閉じても、形ではない事象や過去に思いを馳せてぐるぐるととりとめもないことを考えてしまう。それこそ、シェフの腕で回される卵液みたいに。きっとこいつらは今の私を私たらしめるもので、剥がれていく指の皮のように、この紙の上に落とされて然るべきなのだと思う。


1.生活

キャンパス

 キャンパス内を誰かと歩くときと一人で歩くときでは、耳に入る音の色が当然違う。一人で歩くとき(あるいは大講義室、あるいは食堂で一人そこにいるとき)は、どことなく人々の声は相容れないものに感じられて、逆に誰かと歩くときは、賑やかに笑いながら、この声が誰かの相容れない音になっていることをジワジワと感じながら話し続ける。後者では、それにちょっぴり罪悪感を抱きながら歩く。

 何をするにせよ一人で、ということに抵抗感はない。孤食大好きマンだし! でも一人になった途端に世界が相容れないものになるのはどこか息苦しい。だけどその息苦しさを求めている。誰かといるときはその誰かとの世界、一人でいるときは対世界としての世界。


東京

 集めすぎて埋もれてしまったアイデンティティみたいな東京。比較的他人に冷たい街は、あの相容れない対世界としての世界とは違う安らぎを感じる。いつまでも他人行儀でいてください。学校帰りに制服のまま、新宿のタピオカを食べに行ってそのまま映画を観たあの頃が懐かしくて羨ましい。


電車

 正午。中央線に揺られながら、色のない光が射し込む自動ドアの窓に映る外を見ていた。飽きはしないけど見慣れた景色。ビルとか大きな公園とか高校とか、道に転がる人だとか。眺めているのも束の間に、どんどん流れてまた新しい情報が私の目に入ってくる。

 地下鉄に乗り換える。窓には自分の姿しか映らなかった。きっとそれは、この地下鉄だけでなく夜の中央線でも同じ現実。スカイツリーくらいの加工がされたら、自分に向き合わないで済むんだろう。


バス

 バスに揺られて運転の危うさだとか突然飛び出してくる車の勢いだとかを目の当たりにしているうちに頭の中で、バスの座席の通路側に座っておくことで窓側の座席よりも事故による被害を回避できることと、中庸の万能性が繋がってしまった。真ん中に座るだけでいいのに、自分の中で、車窓に映る外の景色を見たいからと、窓側を選んでしまいたがる自分もいる。

果汁

 飲料に入ってる果汁、たった1パーセントや0.1パーセントのために原材料に調達してくるのけなげでかわいらしい。もはや何飲んでんのかわかんなくなってくる。


音楽

 軽音部でコピーバンドの演奏を聴きながら、見知ったリズムにヘドバンしながら──自分は叫びたい気持ちを他の誰かの音に任せていればそれで満足できるんだろうか。


音楽2

歌詞のある曲のもつ騒がしさに耐えられなくて、Instrumentalやクラシックを耳に流しながら歩くとき。その音は思考と共存してくれるし、思考の後押しもしてくれる。言葉を使わずに感情を奏でる楽器に憧れる。ピアノの高音【ラ・カンパネラ】は金切り声みたいに聞こえて、楽器が重なり合う瞬間【ひまわり】は、複雑で複雑で複雑な、の気持ちになる。イヤホンをつけて爆音で流していたら、踏切の遮断機の警報音に気づかなくてひやっとした!


トイレ

 キャンパスのトイレ、いっつも自分が入って扉閉めた瞬間に水が流れる……。トイレから帰れコールされてるのかと思うとさすがに泣けてキタ……。


 「あれが虚構【デネブ】、虚構【アルタイル】、虚構【ベガ】」って教えてくる王子様的な誰かを空想している。そんな虚構を「綺麗だね」って思うことを、あの夜空以外の何かにもしているのかと思うと虚無(これがほんとの虚無かあ)になる。リーガルリリーの言葉を借りるなら、夜の、空の、ホームレス。


毛染め

 初めて髪を染めたとき、染まってしまってキャンパス内にいる大勢の誰かと区別がつけられなくなった。それが嬉しいときもあるし、何色になっても結局私は私にしかなれないことに酔っぱらうときもあれば、私でしかいられないことが文字通り嫌になるときもある。あの子になりたいわけではないけど、あの子の要素がちょっとだけ欲しくて。向上心がないわけでもないけど、あの子になろうとするほうが手っ取り早い気がして。奪おうとかそんなんじゃないからほんのちょっとだけ拝借させてくれないかな。


2.あふれるコンテンツ


当事者性

 心を抉るような事件はぜんぶ他人の眼で見ただけなので、今ここにいる私は触れていない。


呟き
 A『死んじゃいたい。消えたい。自殺しよ』
 B『あたしより幸せなおまえが言うな』

 頭に巻きつけられた白い布。紫と黒にふちどられて一重になった両目。人形みたいに縫い目ができた口の中。リンゴと同じ、真っ赤になって膨らんだほっぺ。以前、脳震盪で運ばれて病院のベッドで目を覚ましたBちゃんは、ちょっと早めのハロウィンみたいに、インスタのストーリーでそれらを披露した。
 「痛いよ。しんじゃうのかな」と訴える呟きをリアルタイムで追いながら何もできなかった(いいえ、しなかった)私も、父親に手錠がかけられて連れていかれるのをぼやけていく意識の中で見ていたBちゃんも、レベルは違うのかもしれないけどお互いに被害者だった。

 痛みの感度も幸せの尺度も異なることなんて当たり前の話だけど。ある程度恵まれた中で生まれてきたAは嘆くことも許されないのかな。嘆く理由がなければ、不幸せになる資格もないのかな。と思いはするけど。あの日傷ついたBちゃんが蘇っては、どちらの呟きも包み込めたらいいのに、なんて。

「きれいごと言うなら、それ相応の汚いこと経験してから言えよ」
わかる。わかるよ。知ることができないだけで。


Bちゃん
「父親に学校凸られたらヤバいから転校するかも~(笑)」
 細い線でいっぱいになった腕を清々しいくらい剥き出しにして学校に来ていたBちゃん。傷ついた出来事も、人に話すときには笑い話にしてしまうこと。心当たりがあるでしょう。(←偉そう)
 あの腕は、限りなく究極に近い行為だったのかな? それとも、あなたが生きていることの勲章だったのかな? ……そして今こうして私はBちゃんを、一つのコンテンツに仕立て上げようとしている。いつか私も誰かのコンテンツになるのかな。別にいいけど。

 Bちゃんの腕で思い出したけど、この前『傷だらけの悪魔』という映画を観ていた中で、リスカを見せてきたクラスメイトに対し、主人公が「……で?」と返し颯爽と去っていく場面があった。少なくとも現在の私は主人公寄りの立場だと感じたけど、それと同時に誰かの本気(マジ)をあざ笑ってる自分にも寒気がする。(ちなみにこの映画、ちょっとB級ダッタ)


秘密
 〈ここだけの話〉の〈ここ〉が新しい〈ここ〉になっていき、自分たちの存在している世界の〈ここ〉がいつの間にかどんどん広がって足元がぐらついてしまう回。そんなときは、自分の中の他者性と秘密を共有する。


父、母、そして大人になるということみたいなこと

 成人式の後に両親から渡された手紙の中に、「すべてをわかってあげられなくてごめんね」とあった。すべてを受け入れる必要なんて全然ないし自分は求めてすらいないし、そもそもすべてを理解するなんてキモイじゃん、自分のすべてを受け入れてくれるだなんて、なんとまぁ都合のいい解釈なんだろう! と率直に顔をしかめた。鍵をなくして入ってこれるようにするから、鍵ではないやり方で入り口を閉ざすのだ。

すべては自分のせいです、という結論にもならないただの諦めに近いものに依存していた頃の自分はもういなくて、自分を責めてもしょうがない溝が両親との間にあったから、こうなったのだと今は思う。


謎の子供、登場(だれ)

 一年半ぶりに実家に帰って自分の部屋(一階)でくつろいでいたら、突然玄関の扉が開く音がした。そして続けざまに、二階のリビングへと続く階段を軽快に駆け上がっていく明らかに子供の足音が聞こえてきた。えなになになに座敷童? と焦りつつ二階に上がると、ソファに見知らぬ女の子が座ってくつろいでいたので思考が停止した(圧倒的恐怖)。とりあえず「こんにちは」と挨拶をしたら(えらい)向こうも誰だこいつ、みたいな顔で「こんにちは」と返してきて、そのまま沈黙――。数分後に母親が買い物から帰ってきたので、「この方は?」と女の子を指さして聞くと、「あ~、近所の○○ちゃん!」とにこにこしながら言ってきた。最近私の実家に出入りしている近所の小学三年生だそうだ。その子を見ると、手慣れた様子でハンモックに乗ってゆ~らゆらしている。あれ? 娘交代した?

 後日友達にその話をすると、「リアルパラサイトじゃん」「おまえの子育て失敗をその子でやり直してるんだよ」と笑われ、シャレにならんとなった。母親も母親で、再生しようと頑張ってるんですね。ぬん……色んな克服の在り方があっていいと思うにょ。


命!

 久々に帰省するたびに、少しずつではあるけど確実に弱っていく祖母の姿を目にする。目の前で命が揺れている。いずれ訪れるのは劇的な死ではないだろうから、ある程度の向き合い方を考えなければならない。

檻から逃げて井の頭公園に飛び立っていった小鳥もきっともう死んだ。お風呂にいれたら風邪をひいてしまったひよこも鶏になる前に死んだ。肩まで上ってきてはしゃいでいたシマリスも冬眠したまま起きずに死んだ。独り立ちに失敗して足が折れたところを助けた雀も一週間で死んだ。それからうさぎも死んだ。それらと同じように、肺炎と鬱でとっくの昔に死んでいる祖父の死も、バイク事故に遭った知人の死も、首を吊って死んだ友人の父親の死も、みんな私の記憶に残っていて、目の前で祖母の命が揺れるたびに、色んな命がバアアア~っと頭の中を流れていく。私や誰かの中のコンテンツの一つ一つにはなるけども、あくまでそんなこともあったで済まされる、ちっちゃな出来事。

 私は祖母の命が消えるとき、それが劇的でなくても泣くと思う。劇的ではないからこそ泣くと思う。ベッドから無理に体を起こして「またきーちゃんに会えて嬉しい」と涙ぐむ、祖母の顔。あー、やめてくれい。罪悪感で死んじゃう~。……でもそれは後悔したところでしょうがないよね!!
 褒美は日ごとに変わっていく。休日に遊ぶのはあの頃みたいにいとこやおばあちゃんではなく、友達や彼女、彼氏だし、あの頃の空間と今を比較してもしょうがない。怖いのは、こんな風に想う対象があと何年か経てば親に変わっていくこと。どう向き合おうかな、と迷っているうちに、それは少しずつ近づいてきている。
 でも死ぬからといって、じゃあ生前関わり方を変えるべきだったのかと考えてもそれには無理がある。死んだら美しく思えるようになるのは気のせいで、死ぬからと言って態度を変えるなんて意味がわからないじゃん。死が絶対的なものだなんて思わないよ。生きてた頃はエサやりを面倒臭がって栄養失調にさせたくせに、死んだ途端に喪失感を抱いて毛を切り取ってコレクションしたうさぎみたいに。いつか死ぬからって理由で、優しくなんかしなくていい。


特別

 特別といわれる人が嫌いなんじゃなくて、特別だから自動的に良いものと決めつけて、「特別だ」と称賛する周囲が、その環境が嫌いなんだとつくづく思う。だからもう、わけのわからないもので喜んで、私だけを置いていかないで。やめてよね、そういうの。形から特別になろうとして、取り返しのつかないことになるのはやめようね。みんなあなたになれないのに、みんなあなたみたいにしてしまう毒をもっている、あなた。


芸術とコンテンツ

 『毎日かあさん』で有名な西原理恵子の娘の暴露ブログの騒ぎを知って軽く衝撃を受けた。母親が大ファンで、サイン会にも一緒に行ったことがあるくらい馴染みのあるものだったので。
 授業で田山花袋『蒲団』を扱ったときにも感じたのは、〈芸術(この場合芸術を「創作物」と換言してもいいかもしれない)のために犠牲にできるプライバシーってどれくらい?〉。すべてを露にしてしまうのは色気がないし、いい塩梅を身に着けたい。

暴露ブログに綴られた言葉を読みながら、誰かに自分をコンテンツとして扱われるのにも限界があるんだな、と思った。それが母親ならなおさら。知らんけど。、


3.こころ


 今しかできないことを、今忘れないように大切にしていきたいと思う。でもそれは、汚い泥に堂々と浸って笑うのではなく「あなた意外と〇〇だよね」と驚かれるようなソレでありたいという美学の中で思っていること。黒と白なら白がいい。本当に? どっちでもいい。


ごきげん

 た~のしくなっちゃって、くいな橋駅からの階段を駆け上っていく。体からみなぎるパワー! 憑き物がとれたみたいで、体が軽やかに動いた。精神が体に寄生している。力が制御できなくて、友達と買ったタピオカを盛大にこぼした。


悲しいとき

 自分が楽しめないことで楽しんでいる人たちとその笑顔を見て、ふさぎこむ。矛盾しているようで矛盾していないこの気持ち。自分がちっぽけになっていくこの気持ち。そして同時に、形にならない悪意の矢印。でも、跳ね返ったその矢印がカッターに変わ……らないように気をつける。傷は誰でもつけられる。


不安

 脳と胸の内部に隠れている心の全領域に、個体でも液体でも気体でもあるような、きもちわるくて動きのある何かが充満する。からっぽなのに吐きたくなって、逃れたいと願っても記憶は、思考は、誰かの動きは、洗面台の歯ブラシの本数や水垢は、アルコールだけじゃ消えてくれないし。この憂鬱がもう少し経って、心の拠り所に変わるまでを待つ時間。


タコ

 話題になっている『タコピーの原罪』の連載を読みながら、物語自体とは別の軸で、ある者がもつ純粋性が、周囲の者がもつ汚い心に毒を浴びせる可能性があることを重ねて考える。

 善い人間の善い行為に傷つくということ。その行為によって、自分に不利益な状況が生まれて、またそのことが自分の精神にネガティブなはたらきかけをすることに傷つくこと。傷は、その行為そのものに対してのものではないから、やり場がない。やっぱり善い人間の善い行為そのものを責めるということができない。そしてそのできないことが劣等感を抱かせることになって……目をふさごうや。


プライド

 大学生になってから、わかりやすい恋(はぁと)みたいなのが消えた。外野から関係に名前をつけられることにも嫌悪を感じるようになった。安っぽくて俗的な名前に当てはめられると、自分の価値が低くなった気がするから嫌なんだろうけど、そんな高尚なものでもないのにね。えらそーに!


モヤモヤ

 ナンパされると、それをSNSで吐き出す心理は何。自分も例外じゃない。
 「私すっぴんだったのに」。「断ってもめっちゃ着いてきた」。「チョロいと思われてるんだろうなぁ」。ナンパされたことを不快だと主張する文章の、文字が表さない部分を想像する外野。「ナンパされたことを自慢してるだけでしょ」と心の中で揶揄すること。〈お花畑女の痛いストーリー〉が頭をよぎる。

 ナンパにせよ、誰かが自分の顔を高頻度でSNSに載っけると裏で「絶対自分の顔かわいいと思ってるよね」って言われがちなことにせよ、他人の言動に触れる中で『悪いわけじゃないとは思うけど、なんでか心にひっかかるの』が多い。


 支配欲とは違う加虐心が自分の中にあって、それはたとえば好きなアニメのキャラクターのお世辞にも上手いとは言えないイラストつきのラブレターを持ち帰った日の夕方、それをビリビリに破いて捨てたことだったり。憧れの人が一瞬で凍りついて、築き上げてきたすべてのことを失くす魔法をかけることだったり。でも自分は実際の行動に移せるほどの人間じゃないから、大それたことは夢みるところまでに留めて、とにかく今は手の届く範囲でなぶれる虫を刺す。


誕生日

 「お誕生日おめでとう(訳:君のこと忘れていないよ。だから私も忘れないでね。)」


物質論

ドーパミンの期限は三年だし、脳内麻薬に踊らされている私の頭


お別れ

 色々な別れ方を見てきたけど、(恐らく典型的ないわゆるクズ)彼氏を振った直後の女友達が「一生一人でシコって寝てろ!!」と中指を突き立てていたのが一番面白かった。相手に罪悪感を与えて別れるとか、最後の最後に嫌味をたっぷり言って別れるとか色々あるけど、中指を突き立てたその子の顔についた涙の跡とクマがすべてを表していた。誰かに対する好きの柱と嫌いの柱がどちらも存在していて、嫌いの柱が好きの柱を抜かしていったときに、心のジェンガが崩れ落ちて世界が変わるんだと思った。終わるんじゃなくて変わっていくから強くなれるのかな。(例外あり)


性欲

 性的な快楽に時々罪悪感や背徳感が伴うのは、理性(魂)が身体的な欲求である本能に組み込まれないように抗ってるからってこともあるのかな。だったら、性行為も死の練習の一つなのかな。

 性的なことに嫌悪感を覚える自分もいれば、オンナノヤクワリをこなせて悦んでいる自分もいる。中身よりまず先に、性だけで見られるほうがむしろ安心する自分もいる。

 いつから、どこからそれは分裂してどちらも置いてけぼりにされてしまったのか考えるなら、色々と思い当たる節はあるけども。アスファルトに向かって指をさした制服姿の自分の写真は、警察署の中に眠ったままいつまでも解凍されない。だから時々、震える指で打ち込んだ110が本当の110に繋がらない夢をみる。 

子ども

 餓鬼が苦手だし、町で赤ちゃんを見かけて「かわいいー!」と顔をほころばす人に共感することを強制されているような感じがするのも面倒臭い。賛同しないと、まるで非情な人間みたいな扱いを受けるのも、なんだかなって感じ。

色々あるけどこんなんだから絶対に自分の子どもは欲しくないって昔から思っていて、自分が母親になることなんて絶対にありえないと思っていて。シンプルにお腹痛いの嫌だし、股が張り裂けて自分から自分の子――赤ちゃんが出てくることを想像するだけで気味が悪い。奇跡じゃなくて奇妙だ。

 だから母親になんて絶対にならない。産んだとしても自分は、自分の子を自分とは違う人間だと思えないだろうし、日々のストレスや鬱憤を容易にぶつけてしまう気がする。そんなのは可哀想だ。そんなの、生まれてきた子が可哀想だから絶対に母親になんてならない。

と思っている時点で、私の中にはもう既に母性が備わっている気がして、吐き気がした。


お守り


「あっ、クエチアピンだ!」となった瞬間に、正当な何かが認められた気がして嬉しくなったこと。
 トラベルミンでは代用できない喜びで、それ以上でもそれ以下でもないと示す憂鬱の光。丸呑みされた診断書はため息でとかされる。型に流されるために病院へ通う。でもいつかはみんなから見放されて、新しい誰かを求めては遊牧民みたいに暮らしていく。

メンヘラ

〈ファッションは、メンヘラの時代へ────。〉↑逆じゃない?


一人

 結局私は一人なんだと、目を背けたくなる都合の悪い現実が目の前で起こる度に思ってきた。そう思うと少しだけきもちい。だけどそれは自分には一応誰かがいるという安心と前提の上に成り立っているからであって、家に帰れば母親がお帰りと言いながら料理の乗った皿を運ぶ。父親が帰ってきて、洗面所で電動歯ブラシの音が鳴る。兄の部屋から通話している声が聞こえてくる。高校時代の友達はいつまでもTwitterの中で暮らしているし、それがダメなら中学時代の友達だって誕生日にはプレゼントを発送してくれる。

 きっと今精神が死骸になっても、悩みの種とは別の支柱が助けてくれる。一人ではないからこそ一人が好き。


化けの皮

 酒も女もタバコもギャンブルも疾患も、淫行も援交も芸術になる世界。だから時々、芸術家たちから芸術の皮を剥ぎ取って俗的なものへ変換するお仕事をしたい。「わたしって、おかしい?」というわたしに向かって、いいえをあげたい。


不幸

 場所を変えても、また別の不幸を探して飛び込んでいく。タネの一粒一粒はたいてい他人のことで、そう、他人のことで悩めるうちはまだどこかで諦めだとか逃亡だとかの果てがあるけど、ずっとまとわり続けるのは自分のこと。でも、真っ白なものは汚したくなるし、純粋なものの中にある黒い染みを探そうと躍起になるし、これを失うことは自分が死んでしまうのも同然で。痛いのは嫌だし怖いので、そんなことはしない。ので、このまま甘い不幸を吸って吐いて生きていくのが自分の人生だと思っている……節はある。


幸福

 「幸せな心は落ち葉のように庭を彷徨うものなんだ。全体よりもその一部であることに満足して。」(ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』)に目を通して、風呂場の排水溝に絡まった髪(hair)だったもの――一本になった髪の毛と、散って落ちていった地面の上で茶色く変色しかけている一枚の桜の花びらを、瞼の下で重ねていく。もう撫でられて愛でられることもなく、ゴム手袋でつかまれたり、土で汚れた靴の裏で踏みつぶされるソレが幸せであるならば、私も幸せな心をもっている。


不幸自慢

 不幸とか不幸とか不幸とかをつめこんでふやかしたらハッピーセット。不謹慎なことは承知の上で、不幸自慢のタネを多く所有している人間が羨ましい。家族の早逝、友人の事故死、いじめられた過去に自殺未遂。もっと些細なことでもいい。失恋の傷や受験の失敗、試合での敗北や堕落した日常生活(もっともこれらが些細なことであると捉えない人もいるだろうけど私にとっては些細なこと)。

不幸を嘆きたい人間。自分が見舞われた不幸の中に含まれる幸福の割合が少しだけ大きいがゆえに、不幸の中から搾り取れるだけの幸福に魅入られながら、不幸を主食にして生きている。その時は辛くてもやがては自分の不幸も蜜になる。

私の不幸話も、誰かの不幸話も、またある誰かにとっては悲劇を装ったくだらない茶番劇に過ぎないのかもしれない。それにこんな話、小説を広げればいくらだって転がっている。文章表現法の授業を履修すれば、誰かの暗くて物憂げな過去など嫌でも目に入る。誰かの不幸が評価対象になる。

それでも、不幸自慢にしがみつくことはやめられない。自分から何も言わないでも気づかれて頭を撫でられる功績なんて限られているんだし、ある程度は必要ね。だから、引きずり込まれた不幸の中にずっぷりと浸かりながら、そこにある幸福を知って生きていく。

 対義語は類義語であること――幸せの対義語が不幸せではないことを知っている。



背伸びしてようやく地面に落ちる不思議ちゃんを、ちゃんと見ていて、殺される過程。

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