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読書感想文 アニメをサンジゲンに!/松浦裕暁

 デジタルアニメーション会社である「サンジゲン」にとって転機になったのは、GONZO制作『咲-Saki-』におけるワンショット、麻雀牌切る手元をCGで表現したことだった。その以前のアニメに出てくるCGといえば、車であったりメカであったり、いかにも「デジタルでござい」という表現だったが、『咲-Saki-』によって、手元とはいえ、キャラクターをデジタルで表現する……という展望が示された。
 翌年にはテレビアニメ版『おおかみかくし』(2010年1月~3月放送)ではじめてキャラクターの全身がCGで表現される。当時はまだ、テレビアニメのCGといえばメカばかりの時代だった。

 ただキャラクターをCGで作るといっても、生産コストと見合わなかったら仕事として成立しない。そこにはクオリティだけではなく「生産性」も向上させていかなければならないという課題もあった。
 2010年代はじめ頃は、ハリウッドのCG制作などを見ると、すでにアニメーションやモデリング、リギング、ライティングなどの分業化が進んでいた。やや特殊な例を挙げると、えんえん電柱だけを作り続けている……という人もいた。大規模にアニメーションを作ろうと思ったら、それくらい分業化していかねばならない。
 日本のアニメの作画が原画と動画と分かれているのだから、いずれCGも同じように分業化が進むだろうと、当時からわかっていた。ただ、海外CGアニメとは違う分業のやり方も目指していかねばならない、と感じていた。
 TVアニメの予算は1本あたり1500万~2000万円の間で、アニメーション部分にかかる費用は500万円ほどだ。CGアニメのクリエイターは、人月単価がだいたい50万円ほどで、TVアニメの1話を制作するには2ヶ月かかる。すると500万円の予算で雇えるのは、5人ということになる。しかし、現実問題、たった5人でアニメの制作は不可能だ。
 そこでCG制作会社が存在するメリットが生まれてくる。会社で制作を請け負った場合、管理費や経費を会社の運営費でまかなうことができるので、同じ予算でも2ヶ月で10人のスタッフを雇用することができる。これによって、効率化と予算の問題を解消していくことができる。

 CG制作は人月だけではなく、カット単位で生産効率を考えていく必要がある。そこで、カットごとに「難易度」を決めて分類していく。

T……1枚止め絵のカット。
TA……止め+アニメーション。止めカットに一部が動いているカット。
A1~A3……キャラクターが動くカット。数字は人数を表している。
S……A3以上に労力のかかるスペシャルカット。

 この区分けを決めたのは、『宇宙をかける少女』(2009年1月~6月放送)の時だ。SFでハイエンドな画面を目指した作品で、当時のラインディレクターが全話・全カットを分析し、以上のように分類した。
 1話ごとの予算は決まっているので、難易度ごとにカットのパーセンテージを割り出しておけば、生産効率とコストの振り分けができる。TやTAなら練度の低い新人アニメーターでもこなすことができる。新人に任せられるということは、人月も安く抑えられる。
 Sカットはベテランアニメーターに時間をかけて制作をしてもらう。このやり方であると、制作期間、予算、ともに範囲内にきっちり収まることがわかった。クオリティを維持しつつ、予算と期間を守る方法が、この辺りで確立されていった。

 CGアニメのメリットとしては、制作が進めば次第にクオリティと生産性が上がることだった。『蒼き鋼のアルペジオ』(2013年10~12月放送)の制作が始まった当初は、1カットの制作にも時間が掛かり、一発OKが出ることも少なかった。第3話まで制作したときには、「この調子だと放送に間に合わないぞ」という事態になっていた。
 ところがその後の6話まで進む頃には効率がよくなっていった。アニメーターが慣れてきた、ということもあるが、制作中にノウハウの蓄積がたまっていき、しかも後から追加で制作しなければならないものも減っていくので、後半は生産スピードとクオリティをどんどん上げることができた。

 『蒼き鋼のアルペジオ』は最終的にクオリティを上げることができたし、高い評価にも繋がったが、成功に甘えているわけにはいかない。サンジゲンは『蒼き鋼のアルペジオ』の制作中から10ヶ月にも及ぶ反省会を催し、100ページにも及ぶ報告資料を作成し、それをサンジゲンの内のノウハウとして反映させた。
 こうした反省を経て『ブブキ・ブランキ』(2016年1月~3月放送)の制作に入ったのだが、『ブブキ・ブランキ』は放送開始前の3ヶ月前に制作がスタートし、毎回放送ギリギリまで制作していた。
 ところが『ブブキ・ブランキ』は分割2クールで、その2クール目のほうは、放送開始前には制作が完了していた。
 『蒼き鋼のアルペジオ』は1クール制作するのに8ヶ月かかっていたが、『ブブキ・ブランキ』は2クール制作するのに12ヶ月に抑えることができた。単純に計算すると、30%も生産性を向上させることができたというわけだ。これが反省会の成果だった。

 2000年頃のGONZOは社内がバラバラな感じだった。上の方ですでに話が決まっていて、下が巻き込まれていく……という構図だった。社員達は会社に文句ばかり言っていて、現場にはネガティブな空気が蔓延していた。アニメーター達は自分の手元……つまり与えられた仕事だけをこなして、全体には興味が無い。ディレクターですら、自分のこだわりたいカット以外には興味が無いといった状況だった。

 その時代のアニメの中に出てくるCGは、いかにもCGという感じだった。作画とは別モノ扱いで、質感も合っていなかった。制作工程を見ても、CG部が制作されたものは、撮影を通さず、そのまま編集に乗っていた。キャラクターには撮影でフィルターなどの処理が施されるのに、CGは作ったものはそのまま編集に入れている。これでは質感も合わないのは当然だ。CG制作部も、「質感が合っていない問題」は気付いていたけど、現場に提唱ができなかった。
 そんなある日、CGアニメーターの一人が、ものすごくメリハリの利いたリミテッドアニメーション風のカットを仕上げてきた。この時、ようやく「作画とCGの違和感はなくせるかも知れない」という期待に行き着くことができた。
 CGアニメーターの一人が手書き風CGを制作したことで、CGの可能性はもっと広がりそうだという期待が生まれ、「GONZOの下請けCG部」という立場から独立しようという機運が生まれはじめた。
 下請けにはメリットとデメリットがある。メリットはいろんな下請けを引き受けることで、スタッフの練度を上げることができる。それに、収入面を考えると、元請けをやるよりは下請けをたくさん引き受けていたほうが経営的に安定させられるというのもある。
 下請けのデメリットは、例えばサンジゲンは初期『ラブライブ!』のアニメーションPVを担当したが、しかし「制作:サンジゲン」という名前は残らない。スタッフクレジットには名前が載るけど、そこを見る人は誰もいない。永遠に自分たちの名前が残らない、日陰暮らしになってしまう。
 こうした事情から、2004年、アニメでCGを作りたいというメンバー達が集まって、フリーランスのCGアニメーション会社「サンジゲン」が立ち上げられた。CG制作の中でも、セルルックに特化した会社の成立ということで、業界的にも目立つ存在となり、それがサンジゲンのアイデンティティにもなった。

本の感想

 セルルックCGアニメーション会社「サンジゲン」創業者・松浦裕暁がいったいどのような経緯を経て、「サンジゲン」を立ち上げるようになったか、そしてその後の話や、かなり具体的なアニメーション制作についても書かれた本だ。

 セルルックCGアニメーションといえば、ポリゴン・ピクチャアズやオレンジといったライバル会社がいるが、その中でも業界の先頭に立ち、最も早くCGアニメの可能性を示したのが「サンジゲン」だ。『蒼き鋼のアルペジオ』という作品によって、CGアニメでも車やメカばかりだけではなく、キャラクターも作れて、しかも1シリーズまるまる引き受けて映像にできることを証明した。ポリゴン・ピクチャアズやオレンジは、サンジゲンの後を追いかけている会社とも言えてしまえる。

ポリゴン・ピクチャアズ……代表作『シドニアの騎士』『亜人』『GODZILLA 星を喰う者』
オレンジ……代表作『宝石の国』『BEASTARS』『ゴジラS.P』

 「これからのアニメーションはどうなるのか?」という問いがある。
 日本のアニメは手描きに特化している。でも今時、手描きのアニメを制作し続けているのはほとんど日本だけだ。世界を見るとどこもCGに転向してしまっている。効率の面を考えると、CGのほうが良いからだ。
 アニメーションをCGで制作することの利点は、ある一定以上クオリティを上げると、手書きでは不可能なカメラワークや活劇を実現できることにある。その実例はオレンジ制作『BEASTARS』を見ればわかるだろう。獣キャラの周囲をカメラが回り込んでいくようなカットは、手書きだとそれだけでも超難易度のカットになるが、CGでやると、すっとできてしまう。あれだけ自然に見せようと思ったらモデリングで相当な苦労をしたはずだが、CGの利点はしっかり作られたモデリングがあれば、あとは新人でもそれを動かせることができる。手描きアニメのような練度を必要としないという利点もある。
 手書きは手書きであるが故に、表現の限界が生まれてしまう。日本のアニメは間違いなく高品質だが、しかし、それも描き手の才能と熟練度に依存してしまう。手書きであるが故の「限界」にもいつか直面しなければならない。
 限界というのは、第1に「線の量」だ。手書きアニメは、一定以上線の多いキャラクターを描くことができない。例えば『鬼滅の刃』の竈丹治郎が羽織っている市松模様。あれをアニメーションで表現するのは、地味に大変だという話を聞いたことがある。手書きアニメーションだと、キャラクターが背負っている「模様」や「装飾」や「入れ墨(ペイント)」といったものに限界があり、どうしても簡略化して表現しなければならないし、簡略化したものであっても、現実に書くとなると大変なのだ。
(余談。私も漫画で「入れ墨」の入ったキャラクターを登場させたが、まあ大変だった。毎回自分が作った資料を見ながら、正確に入れ墨の位置を合わせていかなければならない。時間が掛かるし、面倒くさかった)
 手描きアニメの限界は、せいぜい一つのフレームに2~3キャラ程度だ。劇場アニメーションだったら、一つのカットに50人とか100人のキャラクターを動かすことはあるが、TVアニメでそんな人数のキャラクターを一度に動かすことはできない。そんなカットを作ったら、瞬く間に現場は破綻するだろう。
 そうした諸々の問題を解消するのがCGアニメーションだ。CGアニメーションであれば、手描きアニメが抱えがちな問題をすべて解消できる。「作画崩壊」はなし。手書きでできることの限界を超える可能性を、CGアニメは持っている。

 ではCGアニメの隆盛によって、手描きアニメがいきなり駆逐されていくのか……というとそうはならない。CGアニメはCGアニメ特有の「臭み」がなくなるところまでは進んでいない。
 一つの問題は「線」だ。CGアニメーションはポリゴンの縁をベージュ曲線というものを引いて線を表現するのだが、このベージュ曲線が手書きの線の感覚と必ずしも一致するかというとそうはならない。
 サンジゲン制作でいえば『ブブキ・ブランキ』という作品を見ると、線がどれも両端が細く、中間が太く表現されていた。「筆」で書いたような線が意識されていた。これまでのCGアニメではすべての線が均一すぎて違和感があるという問題があったから、そこでメリハリを付けよう、と考えてそのように表現したのだろう。でも、デジタル的に絵の全体に対してその処理を施しているから、すべての線が均質に両端が細く、中間が太いという線になってしまって、それはそれで逆に不自然だった。それに、線と線が交わるところは本来太く表現されるはずだ。でもデジタル的に、手書き癖としてありがちな線を再現することはほとんど不可能だ。

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↑『ブブキ・ブランキ』線の太いところ、細いところのバランスが滅茶苦茶。

 手描きアニメでよく話題にされがちなのは「スネ夫の髪型問題」というものがある。スネ夫の髪型は立体で表現した場合、どうなるのか? これにはそもそも「正解」なるものがない。スネ夫の髪型を立体で表現することはできない。
 こうした問題はスネ夫だけの話ではない。すべてのアニメキャラクターは、立体にすると不都合な部分を抱えている。正確な立体に基づいて制作されたアニメキャラクターは存在しない。だがアニメキャラクターにとって、立体として正確かどうかは正解ではない。それよりも、その絵においてフォルムが格好いいかどうか、が重要視される。CGで制作すれば正確な立体を持ったアニメキャラクターを創造することは可能だが、それが格好いい/可愛いかというと「NO」だ。
 オレンジは『宝石の国』と『BEASTARS』の両作において、1カットごとにCG制作部がカットを作り、その後アニメーターがキャラクターのフォルムや影付けを手書きで修正していった。CGで手書き風に制作しようとすると、デジタル上で作ったモノをポンと出せば完了……というわけにはいかず、どうしたって手作業による修正を入れて、「実は正しくないけど格好いい形」に修正しなければならない。そうした手間がいるんだったら、最初から手書きのほうが手っ取り早くて楽だ……という考え方にもなる。

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↑『宝石の国』より、手書き修正の入ったカット。

 手描きアニメの良さというのは、いかにして線を引くか、ということに行き着く。線をざっと引いて、その瞬間気持ちよさが出ているかどうか。立体として正しいかどうかじゃなくて、そこに線が引かれているかどうかが格好いい/可愛いか。そうした風合いを出そうと思ったら、手書きに勝てるものはない。
 CGアニメでそうった手書きの風合いを出すことは決してできないわけだから、手描きアニメがいきなり駆逐されていくことはないだろう。
 という以前に、セルルックCGアニメは「手描きの絵」が基礎になるわけだから、その元素となる表現が駆逐されてしまうわけがない。

 とはいえCGアニメーションはこれからも存在感を増していくことだろう。ここまで書いてきたように、フレームの中にいるキャラクターが2~3人程度だったら、手描きアニメはそのポテンシャルを十全に発揮できる。でも一つのフレームにいきなり100人とかは動かせない。10人でも難しい。10人のキャラクターを同時に登場させ、かつ踊らせる……というシーンになると、もう手書きの範疇を超えてしまう。

 手書きのままだと、その時代の才能と熟練度に依存してしまうわけだから、永久に「現状維持」ということになる。日本が制作するアニメは、いま世界的人気……というのは事実だ。でもそれもいつまでも続くまい。どの作品も同じレベル、同じクオリティでしかない……と気付かれると、その人気は一気に傾くだろう。「飽き」は絶対に来るのだ。
(「天才」が突如現れればこの問題は解消されるが、その天才はいつ現れるかわからない)
 人の生理として、同じものを飽きずに見続けることはできない。人の興味を惹きつけ続けるには、ずっと同じクオリティのものを出し続けるだけでは絶対にダメで、少しずつアップデートして行かなければならない。人はアップデートしているものを一つ一つ見付けて、その文化の成長を楽しんで追いかけてくものなのだ。
 でも手書きだとそれも限界があるし、実際すでに限界に来ている。そこでCGアニメの可能性が出てくる。CGアニメーションだと手書きの限界値である線の量を超えられるし、1カットにいきなり100人とかも同時に動かせてしまう。今の手書き以上のクオリティのものを出していこうと思ったら、次のステップがCGアニメーションだというのは間違いないだろう。

 本書にはCG制作アニメが生まれた経緯や、実際の制作工程に関わる問題や、CG制作の規模が大きくなっていく過程までが書かれている。
 教育の問題にも少し触れていた。興味深かったのは、サンジゲンではエフェクトの制作に「流体生成ツール」を使用しないことだ。流体生成ツールを使うと、数値を入力するだけでエフェクトを生成できてしまう。この方法だと、それがどのように成立しているのか考えなくてもできてしまう。それだと成長に繋がらない。だから面倒くさくとも、流体生成ツールを使わせず、手作業でエフェクトを作らせているという。この試みはいい。
 この本が書かれた2016年時点でサンジゲンは社員数150人に達しているという。ここからが難しいポイントだ。150人というのは人間の認知能力の限界なので、これ以上になっていくと、一人一人の把握ができなくなってしまう。マネジメントが急に難しくなるポイントだ。
  企業にセクショナリズムがはびこるようになると、人は自分の手元しか見なくなる。末期GONZOの状況が書かれていたが、末期になると会社の連携が崩壊し、アニメーター達は自分の仕事だけを見て、それが全体におけるどのようなカットなのかも興味が無くなる。きっと、それが完成した放送も見ていなかったことだろう。
 一般の企業であると、別にこれは大問題では無いのだ。私は色んな工場勤めをしていて、ベルトコンベア仕事も一杯こなしてきたが、ああいった仕事は本当に自分の手元しか見ない。それが全体のどういう部分なのか知らなくても良いし、その商品がどのように店に並ぶのかも知らなくてもいい。何も知らない、考えなくても成立しているのが、一般企業だ。

 でもアニメーションのようにクリエイティブな仕事となると、そういうわけにもいかなくなる。セクショナリズムの意識が社員に蔓延すると、あっという間に作品がつまらなくなってしまう。作品がつまらないと売れなくなってしまう。現場の士気は、作品のどこかに出てきてしまうもので、視聴者はそれを敏感に察するものなのだ。
 人間というものは不思議なもので、役職が与えられると、その「役職を持っている自分」ということにアイデンティティを持ち始め、ポジショントークをはじめる。「個人」としての意識よりも「社会」としての立場を上に考えるようになる。会社の人数が大きくなって、一人一人が組織の全体像をイメージできなくなると、こういう状況に陥りやすい。これが行き過ぎると、セクショナリズムに陥る。かといって、組織が大きくなると統制するために役職が必要になり、その役職を中心としたヒエラルキーも必要になる。
 サンジゲンはこの問題に行き当たりかけている。CGアニメはこれからの技術だが、大きくなっていく過程で、この問題には必ず向き合わなくてはならなくなる。これを乗り越えなければ、結局の所、セルルックCGアニメを制作しているのはサンジゲンとポリゴン・ピクチャアズとオレンジだけ。全体の中のいちジャンルで終わる。
 さて、これからどうなるのか? この本が書かれて5年が過ぎているが、この時の答えがそろそろ出る頃かも知れない。


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