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映画感想 牛首村

 駄目映画とは、どういう映画のことなのか?

 今回は、和製ホラーを視聴しましょう。『牛首村』は2022年公開。ホラー映画のベテラン、清水崇監督。『犬鳴村』『樹海村』に続く村シリーズ第3弾……ということは、2作目を見逃しているのか。北陸地方に実在する坪野鉱泉が題材となり、実際の場所でロケもされた。
 興行収入は5億6000万円。
 『牛首村』に関する情報は、いろいろ探ったけどこれくらいしかなかった。まあたまには3行で終わってもいいでしょう。

 それでは前半のストーリーを見ていきましょう。


 富山県魚津市。鬱蒼とした茂みに飲み込まれそうになっている廃墟がそこに佇んでいた。地元の人々は『坪野鉱泉』と呼ぶ。1956年に創業した温泉施設だったが、1980年に経営破綻し、管理人不在で解体されず放置された。2000年頃から「北陸最強の心霊スポット」という不名誉な称号が与えられ、肝試し目当てに訪れる人が絶えない場所になっていた。
 そんな場所に、女子高生が3人。間もなく夕闇が迫り、廃墟に暗い影が落ちていく。そんな中へと入っていく。施設内に取り残されたエレベーターに入ると、異世界へ行けるという。その様子をネット配信し、人々の注目を集めることが目的だった。
 3人のうち1人、詩音が牛の覆面を被り、エレベーターの中へ入る。扉を閉めると……中から悲鳴が。異常を察した2人が扉を開けようとするが、なかなか開かず、ようやく開いたと思った瞬間、エレベーターが転落。慌てて1階へ下りて、エレベーターの中を覗くが、詩音の姿はなかった。

 東京に暮らす雨宮奏音は、父親と暮らす平凡な日常を送っていた。
 バイト先に、友人の蓮がやってくる。奏音は疎ましく思いながら応対するが、蓮はどうしてもとある動画を見て欲しいという。その動画は、坪野鉱泉の肝試しをやっているあの3人の少女の動画だった。蓮が言うには、そのうちの一人、エレベーターの中で行方不明になった少女が、奏音に似ているという。
 その時、肝試しをやっていた少女のInstagramを辿ってみると、詩音の写真がいくつか現れる。どれも確かに奏音に似ている。
 その時は何事もなくやり過ごすが、帰宅した後、あの動画が気になりはじめる。確かに自分によく似ている。それ以上に、あの動画と接する前後から、奇妙なイメージが頭の中に浮かぶ。幼女時代の思い出……この記憶は何だろうか。
 どうしても気になった奏音は、蓮とともに富山へ向かう。富山の駅で地元民の山崎に出会うと、彼の車に乗せてもらって件の坪野鉱泉へと向かう。その途中で「牛の首」にまつわる怪談を聞く。日本一怖い怪談だというが……しかしそれを聞いた人全員が呪われて死んでしまうので、どんなお話しかわからないという。その怪談を示す物証もなく、「そもそも存在しない怪談だ」というのが山崎の解釈だった。
 間もなく心霊スポット・坪野鉱泉へとやってくる。奏音と蓮は、坪野鉱泉の中へと入っていく。


 奏音と蓮が坪野鉱泉へやってきて、件のエレベーターを発見する……ここまでが前半30分。

 さて、本編だが……
 うーん、面白くない!
 いや、普段は気を使っていろいろ包むんだけど、ここまで清々しいダメ映画は久しぶり。
 どうしようもなく駄目な映画は、対処法としてそもそも取り上げない、見なかったことにする……というのがいつものやり方なのだけど(ブログで取り上げられることもなかった作品はそれなりにある)、ここまで振り切った堂々たるダメ映画は本当に久しぶり。むしろ、どうやったらここまでつまらない映画が作れるのか聞きたいくらい。
 今回は映画の内容を掘り下げるのではなく、本作を「ダメ映画の教材」として取り上げ、内実を掘り下げていく。

 奏音の手に付けられた傷跡。安っぽい特殊メイク。問題なのは、いかにも作り物とわかってしまう特殊メイクのほうではなく、この傷がいつ付けられたものなのか、作中で語られていないこと。冒頭のエレベーターのシーンというのはわかるのだけど、なんであの場面で奏音の手が出現していたのか、語られていない。語られていないから、最初からモヤッとする。

 奏音はなんとなく部屋の中に気配を感じる……。不安に感じて窓を閉じて、机に戻ろうとする。すると、フレームに不審な少女が映り込む。
 おわかりいただけただろうか?
 ……という場面だが。怖くないし、驚きもない。ああ、いるねぇ……という感じ。
 なんで怖くないんだろうか……。1つめにハッキリ映りすぎ。2つめにここに至るまでにも、色んなところに色んなものが映りすぎ。すでに色々映り込みまくっているから、この場面が来た時にはもう慣れちゃってる。怖い心霊現象を見た……ではなく「なんだか賑やかねぇ」という印象。

 先日視聴の『SMILE/スマイル』のある場面。フレームの真中心に幽霊が佇んでいる(拡大して見てみよう!)。
 こっちはフレームのど真ん中、堂々と映り込んでいるが、暗闇の中にうっすらと浮かび上がる様子がなんとも不気味。2つの画面を見比べて、どっちが不気味に感じるかは一目瞭然。

 こっちも「なにか映り込んじゃってる」場面。でも、こうやって画面を見ても、ぜんぜん不気味に見えない。作為が見え過ぎちゃって、不気味な現象に見えなくなっている。
 それに、こういう仕込みをやり過ぎて、物語の進行を停滞させている。こういう光景を見せるために、画面がわざとらしく止まるんだから……。

 次は画作りの問題。
 このシーン、「富山にやってきました!」という場面だけど……。どこが富山? とにかく画面が狭い。何が描かれているのかわからない。俳優が「ここが富山かー」と言わなきゃわからないくらい画面に特徴がないし、という以前にそういう台詞を俳優に言わせるな。

 次も画作りの問題。
 富山にやってきて、海岸に蜃気楼が浮かび上がる。奏音にはその蜃気楼が、人が何人も立っている光景に見える……描写に無理がある。画になってないし、「いや、それはないわ」という状況。

 そこから続いて、海岸を見ている奏音の背後に、亡霊が現れる……という場面。しかもだんだん近付いてくる。
 ギャグですか、これ。真面目にやってください。
 この場面をただ見ただけでも不気味に見えない。ここも作為が見え過ぎちゃってる。画になってない。すべてにおいて駄目すぎて、なにも表現できていない。本当に真面目に映画を作って欲しい。

 駅で山崎という地元民と出会い、車に乗せてもらって坪野鉱泉へと向かう。その道中、車に少女が激突する……という瞬間。
 たぶんショックシーン……のつもりだが、しかしスタントの人が車のボンネットに飛び乗り、その上でくるっと回って、こうやってフロントガラスに顔を見せる……という芝居があまりにも鮮やかにやり過ぎ。ぜんぜん車と激突してない。どう見ても鮮やかに車に飛び乗り、衝撃も回避しちゃってるのがわかってしまう。スタントマンの立ち回りの鮮やかさが見えちゃって、逆に笑える場面になってしまっている。しかもこの後、スタントマンがぐるぐるぐる……と体を回転しながら車の上へと転がっていく。車の勢いでそうなったのではなく、スタントマンの身体技でそうなった……のがわかってしまうから、より笑えてしまう。いや、このスタントをやってのけた女の子は凄いよ。でも、事故ったように見えないのが問題。

 映画が始まって26分ほどで、坪野鉱泉到着。
 はい、ここがダメ。何がダメなのかというと、坪野鉱泉という舞台。いや、坪野鉱泉という場所がダメなのではなく、この後、坪野鉱泉は物語に一切登場しなくなる。じゃあなんで坪野鉱泉を登場させたの……と疑問に感じるくらい。坪野鉱泉という場所が、物語的なフックになってない。

 ここは連続で見ましょう。
 奏音が件のエレベーターを見つけ、奥のガラスに花と蝶を描く。

 一度カメラがエレベーターの外に向けられ、再び元の位置にカメラを向けると……あっ! 蝶が増えている!
 スタッフ~! みんなわかっていると思うが、こういう場面はカメラが動いた時に、フレーム外に待機していたスタッフが出てきて、場面に細工している。映画ではよくある視覚トリックだが、問題なのは蝶の描写! もうちょっとしっかり描けよ! 慌てて描いた……という感じでちゃってるよ!

 この後、地元の高校生、将太と出会う。将太は詩音の彼氏だった少年。詩音とそっくりの奏音に運命的なものを感じ、詩音の家へと連れて行く……ここから映画の後半。

 この後もいろいろツッコミどころ満載のシーンが続くわけだが……いくつか取り上げよう。

 嵐の中の対話シーン。たぶん、ロケ中に嵐が来て、いい感じのロケーションになったから撮影しよう……となったのだろう。

 ここ! 奏音役の女の子が、台詞を一つ言うたびに視線を下に向ける。
 たぶん、直前に台本を渡されたんでしょうね。台詞が入ってなかったんでしょうね。そういうこと、映画撮影では度々あることだよ。でも露骨に台本見過ぎ。さすがにわかっちゃうよ!
 あとこの場面、日本映画にありがちな、意味もなく叫ぶ、喚くシーン。「ダメな邦画にありがちなシーン」のテンプレート的なシーンになっている。日本の俳優って、いつから叫ぶ、喚く、という芝居しかできなくなっちゃったんだろうね……。

 過去回想。「村には忌まわしい因習があったんじゃ……」と語られる一場面だが……。
 『犬鳴村』の時にもツッコミを入れたが、設定に無理がある。奏音は2020年代の女子高生。そこから2世代前のお話し……として紹介されているが、奏音の2世代前の人が子供だった頃といえば、(結婚と出産が遅かったということにして)だいたい1950~1960年代頃……。とっくに高度経済成長期に入っているし、どんな村にも電気が通って、テレビ文化が広まって、文化の平均化が始まっている頃。いったいどこの村の話だよ、これ。

 あたかも「戦前の村社会」のようなお話し……。
 後半、なぜかそのお爺ちゃんお婆ちゃん時代の村にタイムスリップするという展開があるのだが……。
 村の様子を俯瞰で捕らえた場面。何がおかしいかわかるだろうか?
 過去回想では、あたかも「戦前の村社会」のようなお話しが語られていた。本当に戦前のお話し……だったら、この頃は日本全国の山で森林不足に陥っていたはず。ここまで鬱蒼としているのは、現代の山の風景。ついでに、杉の木を植えまくったのは戦後の話。明らかに「戦後の風景」になっている。時代設定いつなんだよ……。

 双子にまつわる因習が残る村。過去の世界へ行くと、双子の村人達が次々に現れる。

 ……のだけど、この場面。後ろにいる男性……西洋人じゃない? たまたまそういう風貌しているだけ?
 ちなみに、エンドクレジットを見ると、どうやら本当に双子を集めまくって撮影したらしい。

 と、こんなふうに、ツッコミどころだらけ。ツッコミを入れるのに忙しすぎて、疲れてしまうタイプの映画だ。
 ここまで細かいダメなところを挙げていったが、もう少し大枠でダメなところを掘り下げていこう。

 途中でも話したけど、まず画作りがダメ。主演に可愛い女の子が出ているのに、ぜんぜん可愛く見えない。ここまでダメな撮影やったら、女優に失礼でしょ。
 そもそも画作りが「映画の画」じゃないんだ。これはテレビドラマの画面。どういうとかというと、映画のスクリーンはでかい。この大きなスクリーンに、普通に俳優の顔をクローズアップで映すと、それだけで圧迫感が出てしまう。顔のクローズアップは映画のスクリーンでやると、それだけで“意味”が発生してしまうから、使うタイミングを考えなくちゃいけない。
 一方、テレビドラマは一般家庭のテレビ、20~30インチほどのテレビ……という想定で作られる。そういう想定だから、画面に映すものはいちいちクローズアップしなければならない。そうしないと、細部が見えないからだ。俳優の顔クローズアップも圧迫感が出ないし、20~30インチのテレビであれば現実の人間の頭と同じサイズ感になるから、むしろ“親しみ”に繋がる。一般的なバラエティ番組は、ひたすらにタレントの顔・顔・顔……しか出てこない。そのように画面を作っても違和感にならないのは、そもそもテレビが小さいから。
 ただし、それも20~30インチのテレビであれば……という話で、50インチ以上のテレビでタレントの顔ばかり連続する映像を見ると、うっとうしくて見ていられなくなる。
 ……という話は、映像作りの基礎中の基礎。映画学校の教科書に書かれているような話。こういう話からしなくちゃいけないくらいに、『牛首村』の画面作りはダメ。「映画の画面」ではなく、「テレビドラマの画面」になってしまっている。

 次にシナリオ作りの問題。シナリオが問題だらけ。
 まず最初に「牛の首」にまつわる怪談が意味深に語られるが、これがダメ。なぜならこのエピソードが後半の物語に繋がるフックになってない。

 次に実在の心霊スポット、坪野鉱泉が出てくるが、これもダメ。なぜこの場所が出てくるのか、この場所でなければいけないのか……その理由が特に示されていない。
 その後、将太という少年と出会い、とある村へ向かうことでようやく「本編」と呼べるお話しが始まるのだけど、それまでのお話しとなんら繋がりのない村の因習物語がここで始まってしまう。前半の物語は、伏線として一切機能しない。じゃあ、ここまでの展開は何だったのか。
 シナリオの展開上、意味のないエピソードに、意味のない舞台。しかも展開の一つ一つがゆっくり。今時、素人でもこんなダメなシナリオは書かないよ……というくらい駄目シナリオ。これがプロの書いたシナリオ……というのが信じられない。

 これは「生理的に駄目」……という話になるけど、登場人物が全員IQ70以下のアホだらけ。行動や言葉使いに知性を感じない。獣が喋っているようにすら見えてしまう。アホだから怪異に襲われた時も理性的に行動しないし、追い詰められると叫んだり喚いたり……「義務教育の敗北」という言葉が浮かぶくらいのアホ。
 なんでこの映画、アホしか出てこないんだ……そこで生理的な嫌悪感を感じてしまう。
 このように描くのは、つまり映画がIQ70以下のアホに向けて作られた映画だから。あるいは、作り手がIQ70以下。そうでなければ、「若者に対する見下し」が制作者の意識の中にあるのだろう。


 そしてテンプレート的なホラー表現。どこかで見ました……というホラー表現ばかり。この映画ならでは、この映画の物語に寄り添ったホラー表現がまったく出てこない。

 ホラー表現って、なにをやってもいい……というわけじゃないんだ。必ずメインのストーリー、テーマに寄り添っていなければならない。なぜその表現でなければならないのか……そこに一貫性が示されていなければならない。
 しかし一方で、ホラーは“文法外し”をやらねばならない。なぜなら、人は未知の表現と接すると、それを「奇怪だ」と感じ、そこに不気味さを感じる。それが既知の表現になると、「ああ、お馴染みの表現だ」となってその表現を驚いたり、怖がったりすることはない。例えば1954年に『ゴジラ』が初めて公開された時、当時の人々は本気でゴジラを怖がった……という話が残っている。当時は“怪獣”そのものが完全に“未知の存在”で“未知の表現”だったからだ。その後、怪獣は「お馴染みの存在」になったから、もう恐怖の対象ではなくなった。
 だからホラー映画は、ホラー映画的なテンプレート的表現に決して頼ってはいけない。むしろ逆で、外さねばならない。映画的な文法も外さなくちゃいけない。そこでいかに意外性を表現できるか……それがホラー映画の醍醐味でもある。ホラー映画こそ、表現に頑張らなくちゃいけないのは、このためだ。
 ただし、その一方で、一見文法を外したように見える表現に“意味”と“一貫性”を持たせなくてはならない。ホラー映画はだいたい映画の後半に向かって、幽霊の正体が明かされる。すると、それまでまったく脈絡もないように思えた表現が、実は一貫した理由が背後にある、ということが見えてくる。脈絡なく出没しているように見えていた幽霊や悪魔も、実は一貫した出現条件があったことがわかってくる。そういう映画的なパズルがピタリとハマって「気持ちいい~」となる。これがある意味、ホラー映画的な快楽ともいえるが。
 これを実現させるために、幽霊や悪魔にはどういった動機と能力を持っているか、制作初期に定義付けしていたほうがいい。

 それで、本作の場合だけど――ホラー表現に脈絡がなさすぎ。その場その場の思いつきを、映像にしているだけ。なんでその場面で幽霊が出没したのか……そういう理由のないシーンがえんえん続く。映画の最後まで見ても、本当に意味がなかった……ということに気付いて「なんだったんだ?」となる。
 その画作りもあまりにも露骨なんで、ぜんぜん怖くないし、しかも思いつきホラー描写があまりにも多すぎてお話しが進まない。“無駄で無意味なホラー描写”がこの映画を駄目にしちゃっている。

 ここで怖がらせよう――という決めの瞬間がギャグになっちゃってる……というのもこの作品の問題。現実にこういう光景を見ても、「うわぁ!」とはならないよ。笑っちゃう。

 あと「奇子」って……

 これのことでしょ?
 誰にでもわかっちゃうような引用で、しかもただ引用しただけ。こういうのは浅い。引用する時、というのは自分が作った物語の中にしっかり寄り添わせて、「自分のもの」にしなくちゃ駄目。これはただ引用しただけだから、元ネタに対する敬意もない。

 『牛首村』はある意味で凄い映画だ。ここまでの駄目な映画はそうそう見られるものではない。駄目すぎてビックリするし、笑えてしまう。あまりにも駄目映画過ぎて、映画表現・シナリオの基本から語らねばならなかった。こういう基本もできていないような映画が、普通に映画館で上映していて、しかも関係者が干されることなく映画を制作し続けられることが不思議。いったいどんな人が映画館まで観に行っているのだろうか……。
 それにしても、なんでここまで駄目になっちゃったのかな……。清水崇といえば2003年の『呪怨』で一世を風靡し、貞子に並ぶホラーアイコン・佐伯伽椰子を生み出した人だ。どうしてここまで落ちぶれたんだろうか……。
 問題は清水崇だけではなく、日本のホラー映画だ。ホラー映画はいろいろ見ているのだけど、日本のホラー映画はみんなハズレ。面白い、面白くない以前に、クオリティが一定水準に達してない。『牛首村』の場合はシナリオが素人だし、画面の作りはテレビドラマ。映画になってない。かつて「Jホラー」として世界中に席巻し、影響を与えまくったあの時の勢いはどこにいったんだよ。先日視聴した『SMILE/スマイル』だって、Jホラーの影響受けまくりだったぞ。そのJホラーを生み出した日本のホラーが駄目になってるって、どういうことだよ……。ホラーかどうか以前に、映画として仕上がってない。いま日本の映画界にあるのは、「かつてJホラーを世界に流行らせた」「最近の海外ホラー映画は日本のJホラーのパクリだ」というプライドだけ。今はアメリカ映画の方が、Jホラー的な表現は上手くなった。

 日本のホラー映画って、なんでこんなに駄目になっちゃったんだろう……。映画そのものが、悪霊かなにかに呪われているんじゃないか。今回の映画は、そう思うくらいにひどかった。日本のホラー映画が落ちぶれた実体を見た……という感じだった。

 こんな駄目映画だが、見る意義はあるのか? 実はある。傑作映画よりも、駄目映画のほうがそこから学べるものは多い。傑作映画は途方もない大予算だとか、才能と技術の力によって成立する……というものがほとんどだが、駄目映画はその反対。あえて駄目映画を見て、何が駄目なのか、どうすべきなのか。自分の創作に何を持ち込むのか。それを考える機会として非常に意義がある。
 ただし、視聴の場合は1.5倍速をオススメする。標準速度だと、あまりの展開の遅さに、映画を最後まで見られない可能性がある。この映画の場合だと1.5倍速がちょうどいい。といっても、1.5倍速にしても作品が面白くなるわけではないが。


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