見出し画像

読書感想 日本とユダヤの古代史&世界史 田中英道 茂木誠

 矛盾はないように感じられるが……??

 まずこんなお話しから。
 日本の伝統的文化とユダヤの伝統的文化はよく似ている。具体的な例で見ていこう。

 関東地方の古墳から出土する「武人埴輪」は、正統派ユダヤ教徒のいでたちによく似ている。ちなみに埴輪が多く作られていた弥生時代の衣装と武人埴輪はぜんぜん似ていない。

 山伏が額に付けている兜巾(ときん)と、ユダヤ教徒が儀式で額に付ける小箱のテフィリン。また一方はホラ貝で、一方は角笛。

 日本のお祭りではこうやって神輿を担ぐが、古代ヘブライ人の祭祀階級であるレビ族が「契約の箱」担いでいる様子とよく似ている。ちなみに「わっしょい」はヘブライ語にも同じ言葉があって、意味は「神が来た」。

 神社には赤い鳥居が必ず入り口に立っているが、出エジプト記の過越で門柱と鴨居を羊の血で赤く染める様子に似ている。

 イスラエル国の国旗となっている「ダビデの星」。陰陽師が好きな人なら知っているはず。日本古来から伝わる由緒正しいサイン「籠目文」。

 皇室の紋章は「菊の紋」であるが、エルサレム旧市街のヘロデ門に刻まれた紋章と一致する。

 1つ2つ似ていたら「偶然」で済まされる話だけど、偶然似ているものが5つも6つも出てくる……。ここまでくると何か理由があるんじゃないか、と考えるのは自然な話だ。
 フランシスコ・ザビエルは日本にやって来た時、すでにユダヤ教を思わせるものがあちこちにあったことに、驚いた……なんて逸話がある。昔の人から見ても、「あれ? 似ているぞ」と感じるものはあったらしい。
 日本とユダヤ教にはなにか繋がりがあるんじゃないか……という思想を「日ユ同祖論」といい、はじめに提唱したのは明治時代に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドである。その時は特に誰かが賛同することはなく、忘れられていった。しかしその後も日本にやってくるユダヤ人が、不思議なくらい日本の伝統文化とユダヤ教の伝統文化が似ていることに気付き始める。
 といっても現代に至るも「日ユ同祖論」は亜流の中の亜流。「トンデモ学会」はこの日ユ同祖論をやり玉に挙げ、「日本における日ユ同祖論は、敬虔なユダヤ教徒に対して失礼だ」と言い切っている。どちらかといえば正統派学問ではなく、「トンデモ系」に分類されている。

 さて、事実はどうなのだろうか? それをこれから掘り下げていこう。


縄文時代の文明


 お話しを縄文時代の文明から始めよう。
 縄文時代の集落は、その多くが台地の端っこにある。まず真ん中に広場が作られる。お墓も中央に作られていた。そのまわりを取り囲むように竪穴式住居を作り、さらに外側に貝塚を作っていた。
 その広場に、ストーンサークルやウッドサークルが作られた。こうした広場のサークルは秋田県の大湯環状列石の縄文遺跡をはじめ、能登半島の真脇遺跡、金沢市のチカモリ遺跡などから発見されている。

 青森県の縄文時代最大の集落と言われている住居跡からは、このような6本柱の跡が発見されている。しかしそれが何のために使われたのかは不明だ。物見櫓ではないか、という推測で現在のような再現物が作られている。
 しかし茂木誠氏はこれを樹木信仰や太陽信仰の起源ではないか……という説を立てている。というのも、南側の3本柱は夏至の日の出の方向にぴたりと一致する。南東側の柱と北西側柱は冬至の日の出方向に一致する。東端の柱と西端の柱は秋分・春分の日の出と日没と一致する。これは昔の人が暦を読むために考えたものであり、信仰のためのものではないのか。
 また縄文時代には戦争なるものはほとんどなかった。弥生時代、縄文時代を比較すると、大きな違いは弥生時代には防壁と掘りがあった。「外敵」を意識した集落の作りになっている。しかし縄文時代の遺跡にはどこも防壁と掘りは見つかっていない。外敵の心配がなかったのなら、「物見櫓」を作る必要もないはずだ。だからこの柱は見張り台ではなく、宗教的施設だったのではないか。

 「土偶」を見てみよう。
 縄文土偶は何を意味しているのか。おそらくは古事記に出てくる「ヒルコ」を現している。つまり障害のある子供である。
 中南米の遺跡からも似たような土偶が出土していて、こちらでははっきりと障害者を示す特徴が現れている。それと比較すると、日本の土偶も恐らく同じニュアンスが込められているのだろう。
 縄文時代では小さな集落での婚姻が多く、障害を持つ子供が生まれるケースが多かった。土偶を見ると手がなかったり、脚がなかったり、目がただれていたり……。土偶はそういうものに対する「鎮魂」の意思が込められていたのではないか。
 そんな障害を持った子供は、集落の中でどのように受け入れられていたのか。古代においてはそういう身体の障害や精神障害を抱えた者は預言者と呼ばれることもあった。久延毘古(くえびこ)といわれるカカシの神なども、おそらくそういう人であったのだろう。
 ただ縄文の人たちは、そういう病気の子供を写実的に捕らえるのではなく、類型的に土偶に落とし込んでいった。そこで元来「醜い者」だったものが、美しかったり可愛らしくなったりする……。日本人は縄文の頃にはすでにそういう美意識を持っていたのだ。

 日本の学校では、歴史の授業で縄文時代や弥生時代については教わるが、「神話」については完全に黙殺する。「神話は古代人が考えた空想の産物だから、教える必要はない」……というのが日本の教育界の考え方である。
 しかし神話の中に日本の原型的な精神性が表れている。それはどの国の人たちも了解しているから、普通の学校では神話から教える。

 ここではまず「日高見国(ひだかみこく/ひだかみのくに)のお話しから入っていこう。
 『日本書紀』では第12代景行天皇の時代に日高見国は2度登場する。一つはヤマトタケル(日本武尊/倭建命)が東国へ蝦夷征伐に行った時。もう一つは天皇の側近だった武内宿禰(たけうちのすくね)が諸国を視察した際に「東方にある広大で肥沃な土地」として日高見国が出てくる。
 同時期に書かれた『常陸国風土記』には信太郡(じだぐん・現在の茨城県土浦市周辺)が日高見国とあるし、日本書紀の注釈書である『釈日本紀』にも記載が出てくる。『延喜式』(えんぎしき・平安時代中期に編纂された律令の施行細則をまとめた法典)には古来より伝わる日本の祝詞『大祓詞』(おおはらえことば)として「大倭日高見の国を安国と定め奉りて」という一節が出てくる。これは「大倭=大和」と「日高見国」の2つの杭が合体して、日本という国が成り立っているのだ、という当時の人々の認識を示している。
 おそらくは東日本全体が日高見国だったのだろう。宮城県石巻市には日高見神社、岩手県奥州市には日高神社がある。
 これは「高天原はどこだったのか?」という問いにも繋がってくる。茨城の鹿島神社、千葉の香取神宮、筑波山などに高天原はあったのではないか。事実として、鹿島神宮の近くには今も「高天原」という地名が残されている。
 日高見とは「太陽が一番よく見える場所」という意味だと思われる。その場所はどこか、というと日本列島の最東端である銚子。そこが日本でもっとも神聖な場所だった。

 『古事記』に記されている日本の最初の神は天之御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)という。その次が高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)である。この3柱の神を「造化三神(ぞうかさんしん)」と呼ばれている。
 この3柱は古事記の中でも最初の神であるが、具体的なエピソードがなく、よくわからない存在となっている。
 ただ、名前の中に「むすび/むすぶ」という言葉が出てくる。「むすぶ」という言葉は「家族を結ぶ」こと、縄文の「縄で結ぶ」ということを現す。息子や娘といった言葉にも「ムス」が入っており、つまり両親が結ばれて産まれた……という言葉という意味がある。
 日本人にはそういった「全員が結ばれている」という感覚があり、だからこそ安心があり、守られているという意識があった。
 この意識は集落の中で自己完結するものではなく、周辺の自然環境とも連動していた。縄文時代の自然は非常に豊かだったため、海に行けば魚や貝が、森に入れば木の実がたくさんあった。これらはすべて神の恵み。恵みが得られることは、神と結ばれているという意識もあった。そうした生活感があったから、財産や蓄財にはあまり執着していなかっただろうと考えられる。縄文時代の遺跡から外壁や堀が出てこないのは、こういうところにある。
 こうした意識は日本人のなかに潜在的にあって、例えば「国家」は「国の家」と書く。国という一つの大きな家だ……という考え方だ。一方、英語の「ネイション」はあくまでも「契約」という意味。国家の成員が家族だ、という認識はない。

 途中に出てきた鹿島神宮の話を掘り下げよう。
 鹿島神宮は日本でもっとも古い神社ではないか。その根拠は日本列島の東端にあるということ。次に神社全体の構造。
 まず西の端に鳥居があり、そこから長~い参道がずーっとあり、東へと向かっている。普通の神社は鳥居から入ると、本殿が一番奥にあるわけだが、鹿島神宮はそうではない。本殿は参道の途中で、道の邪魔をしないように北向きに建っている。
 この神社の場合、参道がメインであって、本殿がサブ。鹿島神宮は参道こそが重要で、そこが太陽の通り道となっている。この参道をずっと東へ行くと――「高天原」という地名が出てくる。現代では住宅地になっているそこだが、まさに『古事記』に記されている高天原で、さらに東の海岸へ行くと鹿島神宮の鳥居が建っている。

 夏至の日の出になると、この鳥居の正面から太陽が昇ってくるところが見え、さらに鹿島神宮の参道を太陽がずーっと昇っていくところが見える。つまり参道が「レイライン」となっていて、このレイラインを延長していくと「皇居」を通過し、さらに「富士山」を通過し、「伊勢神宮」で終着するようになっている。

 次にスサノオ(須佐之男命・素戔嗚尊)について掘り下げていこう。
 スサノオは異常な気質の神だ。衝動的かつ暴力的。和を尊ぶ神々の中でも異質。乱暴狼藉の末、とうとう高天原の神々から干されて、葦原中国(日本列島)に追放されてしまう。
 このスサノオこそ、日本に最初にやってきたユダヤ人グループではないか――というのが田中英道の仮説だ。

 まず「天津神」と「国津神」という区分けについて書いておこう。
 天津神とは高天原系の神。国津神は出雲系の神々のことである。
 スサノオは出雲系の国津神となる。
 高天原系というのは縄文時代の有力者達が、東日本に作った日高見国の人々であろう。イザナギから生まれた3柱の神、アマテラス、スサノオ、ツクヨミ。このうちスサノオとアマテラスの2人が対立し、スサノオは高天原から葦原中国に追放され、国津神となってしまった。
 追放されたスサノオはアマテラスに会いに行こうとする。するとアマテラスは「弟スサノオがこの地を奪いにやってくるに違いない」と疑い、頭にはみずらを束ね、左右の手には勾玉、背中には千本の矢が入る靫(ゆぎ)を背負う。
 やがて遭遇した二人は「誓約(うけい)」という勝負を行う。スサノオの剣からは宗像三女神が生み出され、アマテラスの勾玉からは5柱の男神が生まれる。
 これで一件落着……となったのだが、スサノオは「許された!」と思い込んでまた暴れ出す。馬の皮を剥いで屋根からぶん投げたり、農地を荒らしたり、糞で戸を塗りたくったり……。
 スサノオがあまりにも暴れ回るので、アマテラスは天岩戸のお隠れになってしまうのだが……。
 スサノオの暴れ方というのが遊牧民的。「動物の皮を剥ぐ」ということは、遊牧民なら普通のこと。それをスサノオはやろうとしたのではないか。

 出雲の神といえば、現在は大国主神(おおくにのしのかみ)であるが、おそらくその以前にはスサノオが治めていたのだろう。『古事記』『日本書紀』の両方に、大国主はスサノオよりも6世代後だと書かれている。

 では西洋史的に見て、スサノオが出雲に渡来してきたというのはいつ頃であろうか。おそらく旧約聖書に書かれている『出エジプト記』の後であると考えられる。
 ここで古代ユダヤ人の建国と離散の物語を掘り下げていこう。
 ユダヤ人は元々ヘブライ人といい、アブラハムを始祖とする。羊を飼う遊牧民の長であった。アブラハムを出発点に、その子をイサク、さらにその子がヤコブと続いていく。いろいろあってこの一族はエジプトに住み、そこで迫害を受けることになる。
 紀元前13世紀頃、救世主モーセが現れ、ヤハウェという神から啓示を受ける。モーセは仲間達を率いてエジプトを脱出し、カナンの地(現在のイスラエル周辺)へ行く。ここまでが『出エジプト記』のあらすじだ。
 カナンに辿り着いてもすぐに落ち着いたわけではなく、先住民との長い戦いがあり、ようやく紀元前10世紀頃にヘブライ王国(イスラエル王国)を建国する。初代王がサウル。さらにダビデ王とその子であるソロモン王の時代には繁栄を極めた。

 話をちょっと戻して、エジプトを脱出した話を見てみよう。『モーセ5書』の『申命記』には次ような記述がある。

 あなたの神、主の声に聞き従わなかったから、残る者は少なくなるであろう。

 主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。

 昔の人はなにかともったい付けた言い回しをする癖があったのだが、話をまとめると、モーセが同胞を率いてエジプトを脱出した後、内部で争いのようなものがあった。この時、全員が大人しくモーセに従ったわけではなく、それぞれで勝手にやらせてもらう……というグループがいた。“あなたを散らす”というのはユダヤ人が様々な国の中へ離散していくことが示されている。その“どこかへ行ったグループ”の一つが日本までやって来て、スサノオになったのだ……という。

 荒野を彷徨っていた頃、モーセは十戒を作り出すのだが、この石版を収めた箱を「契約の箱」と呼んでおり、四角形の長方体に棒が2本付いている。これが御神輿に形がそっくりだ。
 この神聖な箱は「タタリ」が込められており、運ばれた先々で災いを起こしていた。それで古代ユダヤ人たちは「うちには持ってくるな」と押しつけ合っていた。
 こういうところ、日本の三種の神器も似たようなところがあり、もともと八咫鏡は宮中で奉られていたのだが、あまりにも霊力が強いということで外に出すことになったが、方々から厄介払いされた挙げ句、ようやく現在の伊勢神宮のある場所であればよかろう……ということで定まった。
 日本のお祭りでは神輿を担ぐことになっているのだが、実はなぜ神輿を担ぐのか、この風習がどこからやって来たのかはよくわかっていない。ただ似たような風習はユダヤの中にあり、ユダヤの風習であれば「モーセの十戒」にまで由来を遡ることができる。ついでに「わっしょい」はヘブライ語にもあり、「神が来た」という意味。こういうところからも、日本の文化はユダヤ教から来たのではないかと考えられる理由だ。

 古代日本にユダヤ人達が来ていたかも知れない……。その根拠となるのは、ユダヤ人はディアスポラ(離散)で国を喪っているから。故郷がない。紀元前13世紀には『出エジプト』のなかでエジプト人から迫害を受け、その後エルサレムを建国するがアッシリア侵略で滅ぼされた後は「アッシリア捕囚」(紀元前722年)、「バビロン捕囚」(紀元前852年)と奴隷の立場になっている。紀元後の世界でも「第1次/第2次ユダヤ戦争」(西暦135年)と何度も国を喪う辛酸を受けている。もしかしたら帰る場所がないから、心理的な故郷である「神」を作り出したのではないか……。
 そうした「国を喪った民」であるから、その一部は日本という安楽の土地に住み着いたかも知れない。

本の感想


 本書の紹介はここまで。みなさんはここまでの話を聞いて、どう感じただろうか? 本当に日本の文化の根底にユダヤ教が? いやいや、こんなものは「トンデモだ」と感じただろうか。
 私も正直なところ、なんとも言えない。かも知れないが、違うかも知れない。まず言って、一つ一つの話に「根拠」が示されていない。日本のあの文化はユダヤ教の風習に似ている。あの文化もあの文化も。だからユダヤ教が原型になっているのだ……みたいに話が続くが、根拠がどこにあるのか? それは「似ているだけ」に過ぎないのではないか?

 そういうわけで、私もこの本を読みながら、自分でも検証し、書いてある内容が正しいかどうかを確認しながら読み進めることにした。
 「検証」といってもグーグルでざーっと検索してみただけ……なんだけど。情報が出てきたらそのぶん信用のポイントが一つずつ上げてもよい、という読み方をすることにした。

 まずユダヤの12支族の話から。
 ユダヤ12支族の起源はアブラハムから始まっている。アブラハムを始祖として、イサク、ヤコブと続き、このヤコブには12人の息子がいた。この12人の息子がユダヤの12支族の原型となっている。
 「ユダヤ」の名前の起源はよくわかっていない。ユダヤ12支族の1つに「ユダ族」というのがいて、このユダ族が後のイスラエル王国建国に大きな成果をもたらしたから、話を遡ってユダヤ人という名前になった説。別の説にはエジプト語、ギリシャ語に似たような言葉があり、ここから来た説がある。
 このユダヤ12支族が一度はエジプトに留まり、そこでエジプト発展のために成果を上げたのだが、しかし勢力が大きくなり過ぎたがゆえに警戒され、弾圧を受けるようになる。この辺りの経緯は普通に旧約聖書に書かれている。
 そこで救世主モーセが誕生し、ユダヤ人は団結してエジプトから脱出することになった。本書ではその後、一つのグループが日本までやって来たことなっているが……その話は飛ばして、エジプトを脱出したユダヤ人はイスラエル王国を建国する。この時が紀元前10世紀から9世紀頃。イスラエル王国最初の王がサウル。その後はダビデ王、ソロモン王と続き、イスラエル王国は繁栄する。
 しかし間もなくイスラエル王国は内紛を起こし、2つに分裂。ユダヤ10支族を擁する北イスラエル王国。ユダヤ2支族を擁する南イスラエル王国。これが紀元前9世紀頃。
 この2つの王国の思想的な違いがあり、北イスラエル王国が「多神教でもいいんじゃない?」という緩い考え方のグループ。南イスラエル王国が「絶対に神様は一人だけ!」と厳しく戒律を守るグループだった。

 その後、急に隣国のアッシリアが北イスラエル王国を舎弟扱いして「我が国に年貢を納めよ」と一方的に言ってくる。北イスラエル王国は普通の国家のありかたとして断固拒絶する。するとアッシリアは「年貢をよこさぬならば戦争だ」ということで戦争が始まった。世の中には「戦争が始まりそうになっても酒飲んで腹を割って話せばわかりあえる」とか言っている寝ぼけた連中がいるが、国家同士といういのはもっと非情なもの。相手に反撃してくるだけの力がないとわかると、一方的に舎弟扱いしてきて、従わぬなら滅ぼす……という国は昔からいくらでもあった。もちろん、今でもある。
 そんなわけで紀元前8世紀から7世紀頃、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、住民はまるごと捕囚されてしまう。
 南イスラエル王国もその後バビロンに攻撃を受け滅ぼされ、バビロンの捕囚となっている。
 この禍根は3000年後の現代でも引きずっている。第2次世界大戦後、ユダヤ人達は再びかの地にイスラエル王国を作ったのだが、しかしそのことが戦争の火種になっている。あの周辺の混乱は実に3000年近くも繰り返され続け、終わりを見いだせない。

 ではこの時に、ユダヤ人達は一人残さずアッシリアとバビロンの奴隷となったのだろうか? ここが謎めいた部分で、公式な文書記録(ここでは聖書のこと)に残っていない。ただし、ここから以降、世界中にユダヤ人達の痕跡が作られていくことになる。事実確認をしていこう。
 まずインドのコチン。ここには古代からユダヤ人コミュニティがあり、ここに住む人たちをコチン・ユダヤと呼ばれている。
 次に中国のカイファ。こちらも古代からユダヤ人コミュニティがあり、ここに住む人たちをカイファ・ユダヤと呼ばれている。
 さらにシルクロード沿いの国や街にも、ユダヤ人コミュニティがぽつぽつと点在している。ウズベキスタン、タジキスタン……どちらにもユダヤ人はいて、歴史は古い。アジアに点在するユダヤ人コミュニティがいつ頃形成されたものなのか記録はなく、とにかくも文字文化ができるよりも古い時代から長くこれらの地域に住んでいる(カイファ・ユダヤは紀元前2~3世紀頃に住み始めたと言われる。唐代に編纂された『全唐文』にはカイファ・ユダヤの名前が出てくる)。おそらくはイスラエル王国が滅んだ後から各地に離散し、インドや中国に住んだのだろうと考えられる。

 ここまではネットで検索して出てきた情報で、かなり普遍的に知られる事実だ。紀元前9世紀頃のイスラエル王国が崩壊し、それによる離散でユダヤ人達が東側に移り、多くのコミュニティを作った。聖書には書いてないけど、事実そこにいて、それぞれの国の歴史書に記されているわけだから、ここまでは異論はない。
 問題はその彼らが日本まで到達してきたか……だ。ここが危うい。ユダヤ人は中国までやって来てカイファ・ユダヤというコミュニティを作って現在もそこにいるのだが、その彼らが本当に日本までやってきたか……? これに関する確定的な情報が出てこず、憶測に基づいている。本書ではスサノオがユダヤ人であろう……と書いている。スサノオがおそらく渡来系であろう……というのはよく言われる説ではあるが、それが果たしてユダヤ人であるかはよくわからない。この辺りは推測に過ぎないので、あまり信用ができない。
 モーセはユダヤ人をエジプト支配から解放した英雄ではあるけど、どうやらあまり支持されてなかったらしく、その後、放浪の旅を続ける中で結構な数でユダヤ人達が地方に散っていったらしい……これも旧約聖書に書いてある部分。ここから離散していったグループが日本までやってきて、スサノオと呼ばれた……というのはやっぱり飛躍に感じられる。

 この辺りで「言語問題」について触れておこう。日本語というのは言語学的に「膠着語」と呼ばれ、分解できない言葉である。例えば英語などは屈折語や半膠着語として分解できる。
 例えば「Happily(幸せに)」は「Happy」という形容詞に「ly」という副詞を示す接尾辞が付いた言葉。「Friendship(友情)」は「Friend(友達)」という言葉と「Ship(関係を示す接尾辞)」から成り立っている。「desktop PC」は「Desk(机)」と「Top(上)」を合体させた言葉。デスクトップPCは机の上に置くものだから、という意味となる。
 こんなふうに、英語はその言葉の意味がわからなくとも、言葉を分解するとなんとなく推測ができるものとなっている。
 しかし日本語はそうではない。言葉が分解できないし、由来もあまりよくわかっていない。おまけに隣国である韓国語、中国語ともぜんぜん違う。日本語がどこからやってきた言葉なのかわからない(一部の言葉はアイヌ由来だということはわかっている)。『日ユ同祖論』によれば、日本語の一部はヘブライ語から来たという。一例を示しておこう。

《日本語》 《ヘブライ語での意味》
アッパレ   栄誉を誇る
アラ・マー  どうした?
アナタ    あなた
アノー    私に応答させてください
アリガトウ  私にとって幸運です
グル     団結する
コラ     自制せよ
サヨウナラ  悪魔は祓われた
サラバ    平安あれ
スケベ    肉欲的な
ダマレ    沈黙を守れ
ドシン    肥満
ノコッタ   征服した
ハッケ・ヨイ 投げ打て・よろしく
ハイ     います
ワル     凶悪な者

 こんなふうにヘブライ語と日本語には同じ言葉がわりとある。意味も一緒。日本語だと元の意味が不明な言葉も、ヘブライ語にすると意味を分解することができる。
 ここに示したのはほんの一例であって、実はまだまだたくさんある。果たして偶然なのか……? というか、スケベってヘブライ語だったんか。

 『日本書紀』の中に、かなり重要と思われるエピソードが記されている。応神天皇14年の頃の話だ。

この年、弓月君が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の120県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。

 「弓月君」という人が日本へやってきて、「私は自分の国の人民を率いてやってきたが、しかし新羅人が邪魔をして、みんな加羅国に留まっています」と言った……という。新羅と加羅国というのはいずれも朝鮮半島の国のことである。
 「県(あがた)」というのは当時の行政単位で、120県の人民というのは少なくとも1万~2万人。別の説では10万人だったとも言われる。
 問題は「弓月君」だ。弓月君というのは「弓月国」の王のことで、この国は現在のカザフスタン周辺の国ということになっている。この正確な場所というのがちょっと曖昧でよくわからない。
 とにかく弓月国の王が日本へやってきて、2万人以上となる移民を受け入れてください……という話だ。この話を聞いて、日本側はすぐに出兵し、新羅と戦い、最終的にこの移民達を日本に受け入れている。この辺りは『日本書紀』だけではなく、大陸側の文書もあるらしく、事実と見て良い。
 さてこの弓月君だ。弓月君は自分たちを秦王朝の末裔であると自称した。平安初期の名簿『新撰姓氏録』にもはっきりと「秦の始皇帝3世の孫」と書かれている。そこで弓月国からやってきた人たちを「秦氏(はたし/はたうじ)」と呼んだ。
 本書は、そもそも秦の始皇帝がユダヤ系である……というトンデモ話を出してきているが……。

 とりあえず秦の始皇帝について調べてみよう。
 秦の始皇帝は紀元前259年生まれ。父を荘襄王といい、母を趙姫という。
 問題なのはこの母親・趙姫だ。
 『史記』によると、趙姫は趙の豪族出身であった。「趙」の「姫」で趙姫といったわけだ。趙姫は商人の呂不韋の妾となったが、間もなく秦の王子に誘いかけられて宮廷に入ることになる。その時に、実はすでに子供を宿していた。その時の子供が後の秦の始皇帝となる。
 ということは秦の始皇帝の父親は、荘襄王ではなく、呂不韋ということになるが……。この辺り、『史記』でもぼかされている。どっちなのかよくわからない(曖昧にされるのは、「誰が本当の王位継承者であるのか……」という問題になってしまうので、あえて、という推測もできる)。
 本書ではこの呂不韋こそが、実はユダヤ人であるとしている。まず名前だが呂不韋、中国語読みでリュブウェイというのは漢族の名前ではない。呂不韋は羌族出身であるのだが、イスラエルの喪われた10支族調査機関・アミシャープはこの羌族を「ユダヤ人の末裔だ」と主張している。
 ということは秦の始皇帝はユダヤ人だ。
 秦の始皇帝のお墓近くで発見された王子の骨をAIを駆使して復元すると、顔がどう見ても漢民族っぽくない。明らかにコーカソイドの特徴が出てきた。中国では始皇帝の息子の顔がぜんぜん漢民族っぽくない、ということで「この分析にはおかしい」ということになった。

 弓月君はその始皇帝の末裔であるからユダヤ人である……というのがこの本でのお話しであるが……。このお話しは怪しい。まず始皇帝の父親が誰なのか確定していない。呂不韋なのか、荘襄王なのか。だとしてもいきなり「ユダヤ人である」というのは話に飛躍がある。始皇帝の息子の復元図がコーカソイドっぽい、というのも印象問題でしかない。呂不韋の出身・羌族が実はユダヤ人の末裔だ、というのも根拠がない。すべて推測に基づいている。この辺りの話を信じるわけには行かない。

 と、こんなふうに「古代日本にユダヤ人が来ていたのではないか?」というお話しだが、読み進めながら自分でも深掘りして行った結果、本に書かれている内容について大きな矛盾はなかった。どれも“可能性としては”あり得る。事実としてユダヤ人は何度も故郷を喪い、離散し、あちこちにユダヤ人コミュニティを作っている。そのなかのあるグループが日本にやってきた……まったくあり得ないわけではない。ただし、確定情報がない。矛盾はないが「穴」はある……という感じだ。その情報の穴を一つ飛ばしにして、「ユダヤ人は日本にやってきている。なぜならば……」という話になっている。さすがに素直にすべて信じるというわけにはいかない。
 ただ、「夢のある話」だとは感じた。なぜなら中国にも古代からユダヤ人のコミュニティがあるのだが、そのコミュニティは「カイファ・ユダヤ」と呼ばれ周囲から一歩距離を置かれている。カイファ・ユダヤとして周囲から「自分たちとは違う」と見なされているし、カイファ・ユダヤも周囲とは完全に混じらないように、「カイファ・ユダヤ」というアイデンティティを維持して現在に至っている。
 カイファ・ユダヤは見た目もすでに地元の人と同じようになっている。ユダヤ人はもともと中東出身で中東風の容貌をしているのだが、カイファ・ユダヤはすでに漢民族と同じ顔をして同じ格好をしている。それくらいに同化してしまっているが、伝統だけは喪わないようにしている。
 しかし日本に来たかも知れないユダヤ人は完全に同化してしまっている。つまり、ユダヤの教えやユダヤの神を完全放棄しているのだ。あの頑なな一神教徒であるユダヤ人が、自分たちの教えを放棄して日本人に同化した……。なぜなら日本がまさしく「楽園」だったからだ。もはや「俺たちはユダヤ人だ!」と周囲に壁を作っていく必要はない。そして日本人の方もユダヤ人の文化や風習を受け入れて、神社や鳥居や祭の御神輿などを作っていった。それが日本という楽園がもたらした力だ。
 といっても、ユダヤ人達が本当に日本に来たかどうか、というのは確定情報ではないが。事実だとしても、日本が古代史時代から平和だった……という話にしかならない。

 日ユ同祖論は実はイスラエルでも議論されている話で、本書の著者である田中英道も招待され、講演をやっていたりするそうだ。この話を聞いたユダヤ人の反応は複雑なもので、ユダヤ人の習慣や信仰を捨ててしまった彼らは裏切り者ということになる。しかしユダヤ人の習慣や信仰を守る必要がないくらい平和だった……ということでもある。ということは日本こそまさに楽園だった。
 ユダヤ人のコミュニティは世界中にあって、どこにいってもユダヤ人は「外からやってきたお客さん」で、距離を置かれたり迫害されたりしている。それが日本では完全に同化してしまっている。それこそ、ユダヤ人達にとって目指す姿ではなかったのか?
 こんな具合に、ユダヤ人にとっても日ユ同祖論はどう受け入れていいかわからない話らしい。本の感想としても、日ユ同祖論は素直に受け取っていいものか……。繰り返すが、話に矛盾はないが、「穴」はある。しかし、その「穴」が一つ一つ埋まっていけば、「信頼に足りうる」と考えを変えてもいいだろう。しかし現時点ではそこまではいっていない。

ユダヤ人の陰謀論  ユダヤ人は本当に世界を裏で操っているのか?


 最後に、「ユダヤ人の陰謀」の話も書いておこう。
 世界中のどこの地域でも言われている話として「ユダヤの陰謀」というものがある。要するに「ユダヤ人が裏にいて、世界を操っているに違いない」という理論だ。
 本書でも「それはない」と一蹴している。
 まず「ユダヤ陰謀論」がどこから出てきたのか掘り下げていこう。
 歴史的に最初といえる事件は19世紀後半のロシア。ウクライナは長くポーランド王国の支配下にあり、ユダヤ人はポーランド貴族の手先となってウクライナから徴税をやっていた。そこでウクライナ人たちから恨まれる存在になっていた。最初の「反ユダヤ主義」はウクライナから生まれた。
 その後、ウクライナはロシア帝国に吸収されていくわけだが、ウクライナの反ロシア感情の矛先をかわすために、ロシアが「反ユダヤ主義」を煽る。その結果、1905年「ポグロムでの大虐殺」が起きてしまう。
 すこし遡って1868年、ドイツのヘルマン・ゲドシェが『ビアリッツ』という小説を発表する。この小説の中で、世界のユダヤの長老が集まり、秘密会議を開いた……というエピソードが出てくる。これが「世界征服を企むユダヤの陰謀」を最初に物語にした場面だとされる。
 1890年『シオン賢者の議定書』なるものがロシアで出版される。これが現在に至るまでの「ユダヤ陰謀論」の定本となった本である。作者不明の怪しい本である。この『シオン賢者の議定書』は世界各国で翻訳され、ベストセラーとなる。アメリカでは自動車王で知られるヘンリー・フォードがこの本にはまり込み、『国際ユダヤ人』という本を出版する。
 この『シオン賢者の議定書』に大きく影響を受けたのがドイツのアドルフ・ヒトラーだ。『わが闘争』のなかで、『シオン賢者の議定書』に感銘を受け、ユダヤ人を危険視するようになった経緯が書かれている。

 と、こんなふうに、その時代の社会情勢があって、じわじわと形成されていったものが「ユダヤ人陰謀論」だ。しかしその根底にあるのが偽書であるし、単なる「願望」に基づくものでしかない。
 私もちょっと調べてみたのだが、すぐにユダヤ人陰謀論はないだろう……と思い至った。

 その後の話についても、事実確認をしよう。
 共産主義革命をしたのは、カール・マルクスである。マルクスはユダヤ人でロスチャイルド家のメンバーである。
 という話だけを聞くと「共産主義はユダヤ人が作り、ユダヤ人が操っている!」……と思う人もいるだろう。落ち着け。
 日本人なら杉浦千畝という人物を知っているだろう。太平洋戦争の最中、多くのユダヤ人を救った人物だ。ユダヤ人を救済したことについて、同盟国のドイツからはかなり反感を買い、「奴らを船に乗せて沈めろ!」という指示を受けたらしいが、日本側は「それは人道主義に反する」と撥ね付けている。
 この時、杉浦千畝が救ったユダヤ人というのは、ナチス・ドイツの迫害から逃げてきた人たちだけではなく、共産主義の暴力から逃げてきた人たちも大勢いた。
 もしも共産主義がユダヤ人が作った「ユダヤ人の陰謀の産物」だとしたら、どうしてユダヤ人が共産主義に迫害を受けるんだ? この点からも、そこにユダヤ人の陰謀なるものがないことがわかる。
 第2次世界大戦後、ユダヤ人はイスラエル国を建国するわけだが、それはもともとパレスチナという国があったところに無理矢理作ってしまった。その結果、今も領土問題や文化の衝突で対立している。もしもユダヤ人が世界を裏で操っているなら、あんな戦争が起きるわけがない。世界を操ることができないから、戦争が起きているのではないか。
 1930年頃、ミルトン・フリードマンとフリードリヒ・ハイエクによって『新自由主義』(ネオリベラリズム)の思想が生まれる。
 現代でも世界中のエリート層を魅了してやまない新自由主義である。ミルトン・フリードマンは「小さな政府」を提唱し、あらゆるものに巨大企業が介入できるようにした。公的インフラなどもそうで、民間企業に任せた方が競争が発生し、よりサービスの質がよくなるはずだ! という理論を発表した。規制をどこまでも緩めて、海外企業がいくらでも買収していい環境を作った。他にも均衡財政を提唱し、国はなるべく借金を背負うべきではない、とした。
 このミルトン・フリードマンとフリードリヒ・ハイエクの思想通りに社会を作り替えた結果――世界中が大混乱に陥った。今もその最中だ。国内企業だったものが海外企業にどんどん買収され、貧富の拡大はより大きくなり、公的サービスの品質はどこまでも落ちていく。「競争原理が働き品質が良くなる」なんてことは起きなかった。
 日本では大学で経済を学ぼうとしたら入り口も出口も新自由主義で、卒業する頃には新自由主義のエリートとなっている。さらに財務省になると上から下まで全員が新自由主義の信者で、この教えをいかにして守るか……で組織運営がなされているほどだ。
 この忌まわしき新自由主義の提唱者、ミルトン・フリードマンとフリードリヒ・ハイエクはどちらもユダヤ人である。すると現代の世界中で起きている混乱はあたかも「ユダヤ人の陰謀」のように感じられるが……いや、関係ないだろう。日本の経済界や財務省のなかにユダヤ人のロビィストが介入してきた……なんて話は一度も聞いたことがない。勝手に信じて勝手に壊れていった……というだけの話。単に物事を深く考えず、「新しい思想だ!」と喜んで手に取ったらこうなった、というだけの話だ。

 共産主義と新自由主義の提唱者を見てわかるように、近代以降世界を混乱に陥れ、今もその火種を作っている思想を作ったのは実はユダヤ人……ということになる。共産主義は思想という面で国家や土地から人間を切り離そうとしたし、新自由主義は経済という面で人間を国家から切り離そうとした。人間が国家から切り離されていることが良い……という思想だ(戦後以来、日本も左翼思想が広まり、「国境なんてものは捨ててしまおう」という考えが広まった)。よくよく考えれば、どちらも「国家を喪った」ユダヤ人らしいメンタリティから生まれたともいえる。
 しかし国家と故郷を持つ我々がこれらをホイホイと受け入れるわけにはいかない。国家と故郷を喪うと「今だけ自分だけ金だけ」の精神が身についていく。まさに悪しきユダヤ人のイメージになっていく。ネオリベラリズムの信者達に尋ねたいのは、「そこまでしてユダヤ人になりたいのか?」だ。
 でも世界のインテリ・エリート層のなかからいまだに新自由主義を否定する話が出てこないというのは、こればっかりはユダヤ人の陰謀かも知れない。それを信じたくなってしまう。
 でもユダヤの陰謀なんてものはない。ユダヤ人も自分が立ち上げた思想によって多くの被害を被っているからだ。ユダヤの陰謀は所詮は現代人が考えた願望に過ぎない……。


この記事が参加している募集

読書感想文

とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。