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2月13日 映画感想文でネタバレまで書く理由

 いつも映画を視聴し終えると、一般のレビューをちらっと見るのだけど、
「よくわからなかった。☆1」「何をやりたいのかわからない映画だった。☆1」
 みたいな雑なレビューが一杯見かける。
 そういうのを見るたびに、
「ちょっと待った! これ面白いよ! ちゃんと見ると面白い作品だよ!」
 とか思ってしまう。
 すると、「ああ、私がちゃんとした《解説》を書かなくちゃいけないんだな」……いや、どう考えても素人である私がそんなものを引き受ける理由はないんだけど。でも性分なんだろうな。「わからない」という意見があると、しゃしゃり出て「これはこういうことですよ!」と説明したくなってしまう。
なにしろ私は、自分の作品でも「解説」を始めてしまうくらいだから……
 それでこのシーンの描写にはこういう意味があって、ここの台詞はここに対応して……という説明をしていくと、ラストシーンまで話さなくてはならなくなる。ラストシーンまで説明しないと、説明が成立しないからだ。解説をきちんと書けば書くほど「ネタバレ」になっていく。私も「ネタバレありますよ」と注意書きはするのだけど……わりと書いてないこともあるよね。これは良くない。

 私の考え方だけど、作品を見て、「自分がどう思った」かなんて、二の次、三の次でいい。まずはそれがどういう作品か。どういう意図があってそれぞれの描写がそうなっているのか。それをきちんと読み取ること。
 映画にしてもアニメにしても、あらゆる描写には「意味」がある。それぞれの描写や台詞には意味があって、それぞれの要素が組み合わさってクライマックスが作られている。「わからない」と言われがちな映画でも、一つ一つきちんと拾い上げて考えていけば、どんな作品にも意味があるし、そういうところがわかるとどんな映画も面白く見ることができる。
(映画が面白くなるから「教養」は身につけたうえで見たほうが良い……というのが私の考え方)
 そもそもそういうものを理解しない時点で「面白かった」「面白くなかった」という判定を下せる……というのがおかしい。
 私も今は引きニートの暮らしをしているけど、昔は友人がいて、ある友人は映画を観て「あれは俺のハートには来なかった」……みたいな言い方をするんだよ。お前、何様だよ。どこの大御所だよ。お前さん、ただの素人だろ。お前のハートに来るかどうかなんて、作り手は知らんがな。なんで作り手より上の視点に立って語ってるんだよ……。そういう強い言葉を使って、自分がバカってことをごまかすんじゃあねーよ。
 みたいに思っていたわけさ。思うだけで言わねーんだけどさ。

 だいたい「個人の感性」や「好み」だけの話をすると、その人に本当に合ったものしか評価できない……ということになる。身近な知り合いにそういう人はいて、この人は映画に関してはものすごい偏食家。本当に自分の好みに対して、ぴっっったり合わなければ、全ての映画は駄作だ……と言い切ってしまう。だから「好きな映画」の巡り会う可能性というのが100本見て1本だけ……みたいな感じ。でも本人は批評だけは一人前のつもりでやる。その批評も教養とかなんにもなくて、ただの「好みの問題」だけ。作り手からすると、こういう人とは付き合いきれないんだよ。「なんでお前専用の作品を作らにゃいかんのだ」ってなるから。そこまで文句言うんだったら、自分で作れよって。自分の好みが自分しかわからなくて、市場にその作品がないんだったら、自分で作るほうが一番手っ取り早いよ。自分で自分専用の娯楽を作りなさい。
 だから作品について語る時は「好みの問題」は一回排除すべきなんだよ。まず読み取ること、理解すること。それが作品に対する作法。個人の感想なんてものはその後の話だ。だいたい作品を理解できてないところで、個人の情緒としてどう思ったか感じたかなんて話はどーでもよい。だってそれは作品の品質そのものを一切語ってないから。まず作品を知って語ること。それをやらない以前にどう感じたか思ったか……なんて話には意味がない。
 ……というのが私の考え方。
 そういう見方が作り手に対しての仁義だと考えている。

なぜあの作品は大ヒットするのか……それは出来が良いからだ!

 作品の意図がすべて理解し了解できた後で、その作品が面白かったかどうか……という判定が下せる。どんな映画でもすべてのシーンと台詞には意味がある……と書いたけれども、それがクライマックスに向けてうまく噛み合っているか……というと、全ての映画がそういうわけではない。うまくいってない映画のほうが多いくらいだ。そうそう簡単なことじゃない。
 物語にはまずテーマ提示があって、そのテーマに合わせてどのように世界観構築しているか、キャラクター構築しているか……そういう諸々が気持ちいいほど噛み合ってクライマックスを作っている作品が良い作品である。これは間違いない。
 そういう作りのエンタメ作品はだいたいみんな大ヒットを飛ばしている。どうしてあの作品が大ヒットし、高評価を得るのか……というと「良くできているから」。それを判定するのは個人的にハートが動いたか動かなかったか……そういう曖昧基準な話をしていると読み取ることができなくなる。だから論理的に読み解け……というのを前提にしている。
 もちろん、そういう理屈を理解していない人でも感覚として「良くできている」というのは直感でわかる。だから良い作品は大ヒットする。

難解な作品でも「語る価値」のある作品は一杯ある。「わかりにくいからダメ」で切り捨てはいけない。画像は市川崑監督『炎上』。

 ただ全ての映画がわかりやすいというわけではない。わかりにくい良作映画……なんて一杯ある。
 そこで今の時代、アニメ・映画視聴者の裾野があまりにも広がりすぎたから、「わかりやすい作品が良い」という価値基準で語られすぎている。わかりにくい映画でも良い作品はそりゃ一杯ある。この世にはあらゆるテーマを「わかりやすく語れる」わけではない。通俗的なテーマはその辺に転がっているものだから、その辺に転がっている描写や言葉で説明できるが、そういうものでは語りきれないテーマもこの世には一杯ある。そういう曖昧模糊としたものを一つのテーマとしてぶち上げ、いかにまとめてみせるか……そういうのも芸術家の仕事。「表現されていないもの」を「表現すること」こそ芸術家の仕事。そういう映画こそ、「社会に対して何を提唱するのか」という芸術家としての命題をこなしているといえる。「わかりやすい映画」なんてものは会社運営で作られるプログラムピクチャーでしかない。「わかりやすい作品」を作る人は芸術家ではなく会社員だ……という言い方もできる。
 いや、わかりやすい映画でもいい映画は一杯あるけどね。
 でも「わかりやすい映画が良い」という時代だから、わかりにくい映画は「よくわからん。☆1」みたいな雑なレビューをされやすくなってしまう。
 それはよくない。
 わかりやすい、感情的な言葉(「エモい」とかね)しか出てこない作品はもはや動物的というしかない。そんなのばかり見ていたら「バカ」になる。いくら作品を一杯見たところで「教養」は身につかない。いくら文化に触れたところで、文化の語り手には決してなれない。

 でもかといって難しい作品を見るための「手引き書」なんてものもない。アニメ、映画、ゲームといったエンタメの世界はどうしてもそこが手薄になっている。
 どういうわけかアニメ、映画、ゲームといってものは「教養」は不要、情緒だけですべて語れる……ということになっている。そんなわけないでしょ。映画はともかくとして、アニメやゲームも教養の塊。ノウハウの塊。だったらそういうものを読み解くには教養は必要。教養があったほうがより楽しめるしね。
 でもそういうときの教養は否定され続けたし、今でも「アニメやゲームに教養は不要」と考える勢力の方が多い。

 アニメや映画は昔は「わかっている人」が見るものであって、そもそも理解力の低い一般のお客さんの目には触れないものだったのになぁ……。
(一般大衆は「恋をした」と「頑張れ」しか言わない流行歌だけを聞いていればいい……という時代が長らくあった。ああいうものが主流だった時代、私たちは「オタク」と見下される存在だった。教養のない人が、単に「流行」に乗っているというだけで優越感にひたれる時代が長くあった。でも一般大衆がそういうものに飽きちゃったんだよなぁ。そこでたくさんの人が本来ニッチなものだったアニメの界隈へ土足でやってきた。そう、今の人たちは「ニッチなもの」を見ている。本当に大衆的な「恋をした」「頑張れ」しか言わない流行歌を聞かなくなった。今じゃちょっとアニメを見ただけの人がキャラ付けとして気軽に「オタク」を自称する時代になった。言葉の意味が完全に逆になってしまった。それくらいに、一般大衆は言葉を雑に扱うんだな……というのがわかった)
 裾野が無闇に広がってしまったから、無闇に「大衆化」してしまった。新海誠とか『君の名は。』以前はあんなじゃなかったのになぁ……。でも大衆作品として割り切らないと、国民的作家になれなかった……というのも事実だし。

新海誠は以前はこんなじゃなかったのになぁ……。でも映像センスが抜群に良いから、国民的作家になって、100億円の映画を引き受けるだけのビジュアルを作れる才能があるというのも本当。

 そうそう、昔から「芸術は高尚」……みたいな言われ方をする。
 なんでそんな言われ方をするのだろうか……これは大人になって気付いたけど、「高尚な語り方」をしちゃうからだ。芸術評論ってやたらと言い回しが難しいんだ。いや、それ、もっと簡単に言えるだろう……というものでも難しく語ってしまう。
(実は私も「そういうものだ」と思って、無駄に難しく語っていた時代がありました。恥ずかしー!)
 私はあるとき、西洋芸術について個人的に勉強したのだけど、それでいわゆる「芸術評論」が無意味に難しい……ということを理解した。芸術評論が「ポエム化」していたんだよね。そこが評論家としての自意識を発動する場になっていた。
 それが原因で「高尚な芸術」は作られているんじゃないか……と今は考えている。
 でもそれも「芸術の価値」を落とさないための先人の考えた知恵かも知れない。

 でも本音を語ると、別に私があんな長ーい映画の解説なんて書かなくてもいいじゃない……という気がしている。だって、誰からもお金もらってないんだよ。感想文によっては、プロの映画評論家よりも密度の濃いものを書いているけど、でもそういうのを誰からも1円ももらわずにやっている。酔狂も酔狂。なにやってんだ、私……ってなる。
(世の中には、「よくこの程度の記事でお金もらえてるな……」というプロの記事は一杯ある)
 書いているときはそれなりに熱心になるけど、後で「なにやってんだ、私」ってなる。今なってる。
 しかもそういう長ーい解説を、せいぜい200人程度しか見ていない。多めに見積もって200人くらい。少なめに見積もって3人くらい。
(つまり、記事タイトルをクリックしているのが200人くらい。最後まで読んでいるであろう人が3人くらい。noteで♥を付けている人を根拠にしている)
 その程度しか見ていないものを、1万字のボリュームで感想文を書くなんて、かなりどうかしている。

 もう一つ、気になることはいま映像コンテンツは数千、数万本とあること。
 昔は1年にやっているアニメをすべて見ることは簡単だった。過去に遡ってアニメの名作を全て見ることもさほど難しくなかった(難しいのはそのビデオを置いているビデオ屋を探すことだった)。
 でも今、「配信」という悪魔のツールが出現してしまった。これで、一度に見られるコンテンツ――アニメ、映画その他が数千本という状態になってしまった。しかも日々数百本単位で増え続けている!
 昔はビデオ屋を何軒も回って探さなくちゃいけない作品も、自宅で簡単に探せる。それは良いことだ。
 でもあまりにも多すぎる。
 こんなに多いと、人は1本1本をどれだけの熱を込めて見るだろうか。パッと見て「面白かった!」「つまらなかった!」みたいにパッと切り捨てるように見る……そういう見方になっていくんじゃないだろうか。
 そういう見方をしてしまっているのに、そこで「このアニメ・映画に描かれていることはどういう意味だったのだろうか」と立ち止まって、私のブログを探して読んでみる……というところまで進む人はどれだけいるだろうか。
 そんなことをやっている間に、新しい作品は日々数百本配信されている。ああ、アレも見なくちゃ、また話題作が出たぞ見なくちゃ……。1万字の文字情報なんて見ている暇もない。そんなふうに一杯一杯コンテンツは見るけど、ただ消費するだけになっていく。「わかりやすい」だけが価値基準になっていく。
 そういう状況を考えると、いったいどんな人間が私のブログを読みに来ているのか……そのイメージができなくなる。

 私がこうやってブログに書いていることって……無意味だな。
 ……じゃあやめようか。

 とか思うんだけど、映画を観ると無駄に書きたくなってしまう。そういう性分なんだ。
 せめて書いたものでお金が入れば言うことなしなんだけどな……。どっかでライターの仕事やらしてくれねーかな……。


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