12月14日 人造人間の夢がAIに変わっていく……
電ファミニコゲーマー:実際のAIって、なんだか思っていたのと違う気がする……その違和感や不安はなぜ起こる?AI開発者・三宅陽一郎が解説
〈引用〉
一方、東洋的な発想から人工知能を考えてみましょう。前提として、東洋から人工知能は生まれませんでした。これは、とても重要なことです。人工知能が西洋で盛り上がった1950年代の第一次ブームの頃、日本はそこにまったく関与していませんでした。まだ敗戦復興期にあたり時代的な難しさもありましたが、1980年代の第二次ブームになっても、人工知能に対する強い拒否感が、日本のアカデミズムにはありました。ダートマス会議から30年を経た1986年に日本の人工知能学会は立ち上がりました。その時でさえ、人工知能に強く反発する学者が多かったのです。
「人工知能を構築する」というビジョンは、西洋発祥のものです。ここで歴史のifを想像してみるならば、西洋に人工知能が生まれず、あるいは生まれても東洋に伝えられることがなかったとすれば、東洋ではどのように人工知能が生まれえたのでしょうか。
1986年に日本の人工知能学会が立ち上がった……へー。その4年後にはAIが搭載された『ドラクゴンクエスト4』が発売。あの年代にAI……しかもディープラーニングができるAIが載っていたってことは画期的だったんだな……。
人工知能が東洋生まれではなく、西洋生まれ……という指摘が面白い。ああ、そうか……言われてみれば人工知能って、西洋的な思想なのかも知れない。
ルネ・デカルト(1596~1650)が5歳で死亡した娘とそっくりな人形を作り、それをどこへいくにも連れて行き、溺愛したことはよく知られている。このことから澁澤龍彦は「デカルト・コンプレックス」という言葉を生んでいる。
自動人形の制作と、その人形に向けた(性を含む)愛を注ぐ物語はもっと古くからあり、それこそ神話の時代から、例えばギリシア神話にはダイダロスがひとりでに動く木製人形を制作し、この人形は夜な夜な動き出し、神々と性交すると噂されていた。
同じくギリシア神話の一篇、現実の女性に失望していたピュグマリオンは、自ら理想の女性ガラテアを彫刻で生み出し、やがてその像に恋し、愛情を注ぐうちについにある日彫刻のガラテアが動き出し、ピュグマリオンはそれを妻にしたという。
ジャン=レオン・ジェローム ピグマリオンとガラテア 1890
自動人形への執着は歴史が深く、10世紀の法王シルヴェステル2世、13世紀のスコラ哲学者アルベルトゥス・マグヌス、同じくロジャー・ベーコン、15世紀のレオナルド・ダ・ビンチ……と多くの知識人が自動人形制作の夢を歴史書の中に記していった。
澁澤龍彦はこのように記す。
「錬金術から人間機械論にいたる西洋思想の流れはつねに人造人間の造成を、ひそかな究極の夢としていたかのごとくである。」
(少女コレクション P28)
パラケルススの肖像 ヒルシュフォーゲル画
人造人間に関する中世の記録について見てみよう。やはり澁澤龍彦の本『黒魔術の手帳』にはパラケルスス(1493~1541)という人物について取り上げている。本名は非常に長いのだが、ドイツ語のホーエンハイムをラテン語化してパラケルススと名乗るようになった。たぶん『鋼の錬金術師』のヴァン・ホーエンハイムはパラケルススが元ネタだと私は思っている。
パラケルススは複雑な人物で、医者なのだが、占星術師でもあり、魔法導師、神秘哲学者、神学者、そして錬金術師であった。だが後世に伝わる記録を読むとどこまで実際かわかからないようなところだらけだし、パラケルスス当人も大法螺やイカサマのようなことを結構やったりしたそうで、彼の長い名前の一つであるボンバスッスといえばそのまま英語で「誇大妄想狂」を意味する言葉になっている。
そんな錬金術師のパラケルススの嘘か本当かわからない記述の中に、ホムンクルスの製造法についても見ることができる。
内容をかいつまんで説明すると、精液を蒸留液の中で密閉し、育てるとやがて小さな人間のようなものに変化する。この生物を胎内と同じ温度で40日間育てると、やがて子供と同じものになる……という。
現代的な目線で見ると、このホムンクルスとやらはどうやら「人工授精」のことを示しているようであるが、ただしその記述の中に初歩的なミス――卵子と結びついた精子は確かに生命体として機能するのだが、その最初の段階は人間とは似ても似つかない魚類やは虫類の形をしている。この知識が知られるのはごく近代に入ってから、妊娠初期の女性の体を解剖するようになって初めて発覚することなので、パラケルススの記述は想像で書かれたものであるということがわかる。
ホムンクルス製造法に関する話が嘘か本当か、という以前に重要なのは、錬金術師達も人造人間の製造を夢見て活動していた……という事実である。中世の化学者たちも究極の目標である人造人間製造を目指して日々の研究にいそしんでいた。
19世紀に入り、解剖学の技術と知識が人々に伝わると、人間は精密な自動人形のように動いているのではないか、という疑念が人々の間に生まれるようになった。蛙の解剖で内臓器官に電流を流せば四肢がピクピク動くのを見て、人々は自分たちこそが自動人形ではないのか……とデカルトの「機械人間論」が再び盛んに語られるようになった。
そうした時代に生まれた小説がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』である。『フランケンシュタイン』は怪奇小説として語られることが多いが、実際にはフィクションの世界に初めて登場した人造人間の物語であり、ということはアイザック・アシモフ作品のようなSFに分類されるべき物語である。
押井守は『身体のリアル』という本の中でこのように語る。
「とくに東洋のほうでは頭って重視してなかったから。腹のほうがむしろ身体の芯」P97
西洋文明というのは「言語」の文明だ。森羅万象あらゆることを言語にして、頭で理解する。人間とは何か、生命とは何か、そういうある種哲学であり、科学でもある思想はみんな言語で考え、把握し、理解した。頭で理解するから、それを再現できるはずだ……という。頭で考えれば人間は精密な自動人形と同じになるから、条件さえ整えてやれば、人形も人間のように魂を持って振る舞うのではないか……。頭で考えるから西洋は自動人形や人造人間を作る夢を持ったのではないか。
西洋は森羅万象を言語にかえ、頭で理解する。だからこそ、身体感覚が希薄になりやすい。
とはいえ、だからこそのアドバンテージもあり、西洋はあらゆる複雑な事象も言語化するから、周知しやすい。学びやすく、広めやすい。
柔道なんかもかつては弟子と師匠の間で一子相伝的に伝えられていたのに、西洋はその仕組みを研究し、誰もが再現できるものに変えてしまった。ゲーム制作の技術もある年代までは日本固有の“感性”の産物だった物だが、西洋が徹底的に研究し、模倣し、とうとうそれ以上の物を作るようになってしまった。西洋文明にはそういう強味はある。
しかしだからこそ喪われるものもある。
押井守は日本の芸能や武道は言葉ではほとんど残していないと語る。
最上「日本の芸能なり身体観なりが持っている一番要の部分というのはたぶん西洋には伝わってないと思うんですよね。書物というか学術としては伝わっているんですよ。日本研究とかね。それだけでは伝わっているけど、実際に身体の問題としてはなにも伝わっていない」
(中略)
押井「それはやっぱり武道も一緒。ようするに言葉がない。誰も語れないんだよ。とくに沖縄の空手ってそうなんだけど全部口伝なんだよね。」P157~158
この部分を、三宅陽一郎さん的にはこうなる
このような知能の内面に対する記述は、西洋の人工知能ではなされないことです。このような角度、このような知的性質について記述することがないからです。東洋はこのように知能の「本性」を探求します。それゆえに「知性」という言葉を当てるのが良いでしょう。
ロボットや人工知能というテーマを物語で見ると、どうしても西洋はまさに人間そっくりなものとして作り、やがてロボット達が新たな人種として対立する、「彼岸の他者」となってしまう。『ブレードランナー』や『Detroit: Become Human』のような世界観になる。
一方、日本人がロボットや人工知能の物語を描くと真っ先に出てくるのは『ドラえもん』。ソニーが制作した犬型ロボットAIBOも忘れられてはならない。『鉄腕アトム』でも『ロックマン』でもいい。とにかくも日本人は、ロボットを昔から身近な友人として描いてきた。
これは日本特有の社会観があるから。「主従」の関係性にあってもそれは「支配者と奴隷」という関係ではなく、濃密な感情によって結ばれる。つまり「家族」になってしまう。「殿様と家来」の関係は「主従」だが「支配者と奴隷」ではない。『ドラえもん』だって未来からやってきたのび太のお世話をするための召使い、あるいは奴隷なのに、一緒に食卓を囲んで食事をしてしまう。あの映像に階級差があるようには見えない。ドラえもんとのび太は、どんなときも常に平等に扱われる。寝床の差で唯一階級差を感じさせるが、それ以外のところで階級を感じさせる描写がない。
こういう考え方が日本型。最近はロボット掃除機ルンバを導入している人は多いが、そのルンバに名前をつけて溺愛している人もわりといるとか……。そういう愛を注ぐ対象にしてしまう。
(現在の私たちは二次元のキャラクター達に目一杯の愛情を注いでいる。だが私たちはあのキャラクター達を愛すべき他者であり、奴隷だとは思っていない。……フェミニズム達は勘違いしているが。日本人には虚構の人物に愛を注ぐ習性が古くからあるが、しかしそれは人造人間を生み出す、という発想には至らなかった)
一方の西洋はどうしても自分たちより低い立場の人たちを見ると、これみよがしなマウントをかけ、奴隷にしてしまう。「支配者と奴隷」という関係性を作るから、西洋が作るロボット物語は最終的にはロボットの反乱と独立の戦いになる。
西洋人は不思議なことに、社会の中でも物語の中でも「神と人間」というモチーフを再現しよう……という習性を持っている。それはひょっとすると、「神と人間」という思想があるからこそ……なのかも知れない。
こういう物語の発想は、それぞれが持っている社会観そのものを示している……というしかない。
と、こんなふうに西洋文明を掘り下げてみると、まず自動人形や人造人間を制作する夢があり、それがいつの間にかAIに取って変わっていた。そう考えてみると、ああ、だからAIって西洋生まれなんだ……みたいに思うところがある。
シンギュラリティに関する考え方や、恐れもやはり西洋的な発想から生まれたんだな……って。日本人がAIを考えていたらロボットやAIの反乱なんて起きそうにないもの。
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