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映画感想 LAMB/ラム

 その子供は悪魔か奇跡か?

 かなり奇妙な映画だ。
 『LAMB/ラム』は2021年のアイスランド映画だ。オッパイが出てくるのでR15指定映画となっている。原題は『Dýrið』。直訳すると「獣」つまり「ビースト」という意味になる。
 監督はVFXアーティストとして『ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー』などの特殊効果を担当したヴァルディマル・ヨハンソン。その彼が古里であるアイスランドに戻って初めての長編映画に挑戦したというのが本作となる。
 主演はノオミ・ラパス。ハリウッドで活躍し、いろんな出演作があるのだが、出身はスウェーデン。来歴がだいぶ複雑で、父親がスペイン人で母親が女優。幼少期はアイスランドで過ごしていたということもって、アイスランド語を話すことができる。本作で初めてアイスランド語の映画に出演することになる。
 映画『LAMB/ラム』は公開後、反響が大きく、第94回アカデミー賞国際長編部門アイスランド代表に選出。第74回カンヌ国際映画祭ある視点でオリジナリティ賞を受賞。2021年のシッチェス・カタロニア国際映画祭では最優秀賞、主演女優賞を受賞。
 評価もすこぶる高く、映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば高評価86%、平均点は10点満点中7.2。海外評価は高い一方、日本国内ではあまり評価が高くない。Ciatrでは5点満点中3.5。Yahoo!映画では5点満点中3.1。要するにだいぶ癖が強く、万人受けはしない映画ですよ。批評家はちょっと頭を使って解釈しなくちゃいけない映画が好きだから、批評家評は高くなりがちになるけど、誰でも楽しめる映画じゃないですよ……ってこと。

 それでは本編のあらすじを見ていこう。


 アイスランドのとある羊牧場。春が間近にやってきている。マリアとイングヴァルは羊たちの出産を手助けしていた。
 そろそろ今年の羊たちの出産も終わり……。しかし牧羊犬が吠える。マリアとイングヴァルが駆けつけると、産気づいている1匹の羊がいた。2人は羊の出産を手助けするのだけど――生まれてきた子供は……。


 前半あらすじを書き出すとこんな感じ。ここまでが前半20分くらい。全体を通してエピソードボリュームが小さい映画なので、書き出ししても数行くらいにしかならない(すべてのあらすじを書き出したところでも数行増えるくらいにしかならない)。ちなみに家と家畜小屋の周囲は本当になにもない環境で、出てくるのは夫婦二人きり。なので台詞もほとんどない。

 では内容について深掘りしていくとしましょう。
 最初に「羊から羊の頭をした人間が生まれてくる」……というあらすじを聞いて、私が真っ先に連想したのがこちら。

 ヤン・ファン・エイク作、1432年の『ヘントの祭壇画』。ベルギーの名作中の名作である。ヘントの祭壇画は本当はもっと大きいのだけど、今回はその一部分をピックアップ。

 中央部分を拡大しましょう。天使に囲まれた羊が祭壇に上げられていて、胸から血を出し、その血を杯で受け取っている。

 さらに拡大していきましょう。実はこの作品、2012年に改修を受けていて、羊の顔に修正が入った。その以前はちゃんと羊らしい顔だったのだけど、修正後はまるで人間みたいな顔になった。
 そもそもなんで羊が天使に囲まれ、祭壇に上げられているのか……不思議な絵だけど、実はこの羊は「イエス・キリスト」の象徴。イエス・キリストは「神なる羊」とも呼ばれていて、原罪を背負う信徒のために自ら捧げ物になった……というところから羊がイエス・キリストのモチーフとなった。この羊がやたら人間っぽい顔をしているのも、特別な理性を持った存在だから……ということになる。

 次に本作のポスターイメージを見てみましょう。主人公マリアと羊が描かれているけど……どう見ても聖母マリアですよね。しかも名前も「マリア」。そのマリアが子羊を抱いている……というところでキリスト教圏の人ならピンと来る。

 と、見る前から「たぶん、こういうことでしょう」……と予想を立ててから見たのだけど、だいたい当たり。上に書いたようなお話でした。

 では本編プロローグを見てみましょう。
 冒頭、冬の雪の中、何者が雪を踏みしめながら歩いている。その何者かは羊小屋の中に入ってくる。

 扉がバン! と開くのだけど、その者の姿が見えない。つまり「不可知」な存在であるとわかる。

 しばらくして、一匹の羊がぱたりと倒れる。

 ラジオではカンカンカンと鐘の音が鳴り響き、それに続いて「クリスマスです」というメッセージが流れる。さらに続いて賛美歌が流れ……タイトルという流れになっている。

 この辺りで「キリスト教的なお話し」だということがわかる。でも実は生まれてきた子供は「キリスト」というわけではなく……。

 では主人公夫婦はどうしてこんな奇妙な子供を受け入れようとしたのか。かなりわかりにくい話だが、前半の方でタイムマシンの話が出てくる。何気ない夫婦の世間話なので見落としやすいが、タイムマシンの話が出てくるということは、この夫婦は過去になにかしらの「後悔」を抱えていること。さらにその後、夫のイングヴァルは「今の生活で幸せだ」と言うのに対し、妻のマリアは微妙な顔をする。
 その後悔はなんなのか……だいぶ後になってわかる話だが、夫婦には「娘」がいた。しかし娘は幼いうちに死んでしまった。「娘の死」という過去を、夫婦はまだ受け止めきれていない。
 それである日、羊が人間を生んでしまった。夫婦は「天から与えられた子」だと思って、引き取ることにする。
 「羊の子」ということで「キリスト教的な奇跡」でもあるのだけど、かつて子を亡くしたから、夫婦はこの奇妙な子を引き取ろうとする。

 ではこの謎めいた「羊の子」の正体は何者なのか?
 映画の中にこんな場面が出てくる。

 夜の羊たちの姿を捕らえた場面。照明が正面から入っているので、羊たちの反射で目が光っている。悪魔をイメージしている場面だ。

 ここから羊の子を産ませたのはバフォメットではないか……という説が有力だが……。私は違うんじゃないか、と考えている。だってバフォメットは「山羊」だから。
 そうはいってもどっちもウシ科ヤギ亜科の生き物なんで、似たようなものなんだけど。

 羊の神……といえばどちらかといえば牧神サテュロスのほうが近い。
 しかしたぶん本作に登場する「謎の存在」はサテュロスではないでしょう。だってこのお話はキリスト教圏のお話しだし、しかも舞台はアイスランド。ギリシアの神がいきなり出てくるわけがない。
 じゃあなんなのかというと、本作のオリジナルな部分。これは監督ヴァルディマル・ヨハンソンも言及しているところだけど、何かを参考にしたのではなく、オリジナルで生み出したクリーチャー。元ネタになっているものはいくつもあるけど、具体的に“何か”というわけではない。あくまでもオリジナルキャラクターということ。

 本作のストーリーだけど、とにかくもエピソードボリュームが少ない。あらすじを書き出しても数行くらいにしかならない。ただひたすらに、牧羊での暮らしが掘り下げられていく。
 本作の紹介に「ジャンル:ホラー」とあるから、いかにもホラー的な惨劇を期待する人も多いかと思われるけど、そういうシーンはほとんどない。ただひたすらに日常。そこに、「羊の頭をした子供」という「異常」が紛れ込んでくるけど、ほとんどが日常。「ドキュメンタリーか?」というくらいに牧羊の生活を掘り下げている。これを「ジャンル:ホラー」と呼ぶのはいかがなものか……というくらい。
 ここまで日常に徹したのは、「羊の頭をした子供」という異常を、いかにして「本当」だと思えるようになるか……この作劇に徹したから。異常なものが紛れ込むから、そのぶん徹底的に現実的な描写を掘り下げていく。主人公夫婦が本当に牧羊を仕事にしている人のように感じられるように描く。その生活の中に、「羊の頭をした子供」という異常を紛れ込ませる。日常描写を徹底すれば徹底するほど、「異常」が「本当」のことのように見えてくる。

 映像の描き方もユニークで「羊頭の子供」が生まれてくるけど、前半40分くらいは「頭部」しか見せない。この頭部はCGでもアニマトロニクスでもなく、本物の羊。「羊頭の子供に見せかけた本物の羊」をたっぷり見せた後、じわじわと全体像を見せていく。
 羊頭の子供の全身が出てくるシーンは、実際の子役に羊の頭を合成している。撮影法は、まず人形を使って撮影し、次に子役で撮影、3番目に本物の羊を使って撮影……と手間がかかる方法で撮影している。それを最終的にVFXで合成したり足したりして画面が完成している。
 「羊頭の子供」を本当だと思わせるために、映像そのもののもそうだけど、そこにいたるまでかなり慎重にお話しを作り込んでいる。こういうところはVFXアーティスト出身監督らしい。

 さらにこの作品には「異常な現象」をほとんど描いていない。「羊頭の子供」は間違いなく異常だけど、それ以外は徹底して日常に徹している。
 本作には「惨劇」の場面が少し描かれているのだけど……その惨劇の瞬間がほぼ描かれない。日常を踏み越える場面は可能な限り描かないようにしている。惨劇があってもその瞬間を描かないから、すべてリアルに感じられる。「異常な瞬間」を描くことは実はリアルではない。無理して何か凄いものを描こう……としていないもの、この作品の良いところ。

 そんな夫婦の元に、イングヴァルの弟であるペートゥルがやってくる。ペートゥルは羊頭の子供・アダを見て衝撃を受ける。
 ペートゥルの役割はなんなのかというと「ツッコミ役」。主人公夫婦は羊頭の子供・アダが出産されたときに、無言でその事実を受け入れてしまっている。ペートゥルは「いや、コイツおかしいだろ」と突っ込む存在。アダを受け入れている夫婦が「異常な状態」であることをあらためて提示している。
 そんなペートゥルも次第にアダを愛情を持って接するようになる。
 実はアダにはちょっと「魔性」の性質がある。一見すると不気味な存在だけど、しばらくすると愛情を感じてしまう。それも「神の子」ゆえの性質かも知れない。

《ネタバレ部分!》

 だがアダとの日常という幸福も長く続かない。最後には「父親」がやってきてしまう……。
 この父親の存在は何者なのか? 映画冒頭には姿が描かれず「不可知な存在」として描かれていた。しかし彼はおそらくバフォメットでもサテュロスでもない。最終的に実体を持って現れた彼は何者なのか?
 答えを言うと「自然」そのもの。自然の化身。自然の化身であるから「神」であるし、最終的にアダを自然である神の御許に連れ去ってしまう。
 神の元に連れ去られてしまうから、マリアは最後には自然を前にして、ただ茫然とするしかない。自然=神相手だったらどうしようもないからだ。

 この作品はキリスト教的な暗喩を込めて作られていて、アダは「神の子」であるのだけど、それは人間に奇跡をもたらすために生まれてきた子供ではない。
 という奇妙な構図が、西洋文明では「衝撃的」に感じられる。どう見てもキリスト教的なモチーフで作られているのに、生まれてくるのはイエス・キリスト教ではなく異形。かといって邪悪な存在でもない。じゃあこれはなんなんだ! ……となる。西洋人の知識にないものが描かれているから、「斬新」に感じられる。
 でも正直なところ……日本人の目から見るとそこまで衝撃ではない。というのも日本の民話の世界では非人間的な存在と結婚したり、子供を産んだり、さらにそういう子を引き取るような話が一杯溢れている。現代の漫画でもそういう作品はたくさんある。東洋的なモチーフを、西洋的な世界で描いたら……という発想が本作だともいえる。
(日本人はアダというキャラクターを見て、「可愛い」という感想を持つ人が多い。これ自体が西洋から見ると不思議な話。西洋では「異形」→「怪物」→「恐れるもの」という図式が頭の中にある。でもアダみたいなキャラクターを見て「可愛い!」って言ってしまうのが日本人の寛容性)

 ところで本作に出てくる羊は「食肉」用。人間達にとって羊は「食べる」存在。人間より1歩地位の低い、人間に隷属する存在だ。
 舞台はアイスランドの荒涼とした大地である。険しい山脈が視界を遮るような風景の中、小屋がぽつんと1つ。人間よりも人間以外の動物の方が圧倒的に多い環境だ。そんな環境の中で、人間はいかにも「支配者」として振る舞うが、実は自然に隷属した存在。圧倒するような自然に対し、人間はあまりにも小さいし、羊たちの支配者に見えて、あたかも羊の奴隷のように働いている。所詮は「支配される存在」であるのに、それを忘れている人間の愚。
 そんな羊に対し、マリアは罪を犯す。羊の子を取り上げ、自分の子としたこと。さらに母羊を殺したこと。
 だから自然=神が天罰を下しにやってきた。
 アダは「神の子」かも知れないけど、それはイエス・キリストのように人間のために自らを捧げたりはしてくれない。やがて本物の神が現れて、彼の古里である神の世界に連れ去ってしまう。神は神であって、人間にとって正義でも悪でもない。ただ人間の上に「君臨する者」として存在するだけ。
 そんな子を、自分の子として取り上げよう……としたこと自体が罪だった。

 しかしこのお話は別に宗教的なお説教話でもない。ただそういうお話しがありました……という不思議話が魅力のポイント。別のなにかで例えることができないお話しだから、ここまで高い評価を獲得することができた。
 ただこの映画にも難点があって……というのも冗長。日常描写があまりにも長いんだ。“何も起きない”場面があまりにも長い。それも持ち味といえばそうだけど……でももうちょっと編集で刈り込めるんじゃない……と思えるくらい。何か起きそうな余韻を感じさせながら、結局なにも起きない……そういう場面があまりにも多い。そこだけが引っ掛かりどころだったかな。


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