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映画感想 THE BATMAN-ザ・バットマン-

 ゴッサムに夜明けはやってこない。

 『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は2022年公開映画。クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』シリーズとは違うシリーズとなっている。この頃のDC映画の新シリーズは頭に『THE』を付けることが約束事になっていた。『ザ・スーサイド・スクワッド』がその一例。
 『ザ・バットマン』は元々はDCエクステンデッド・ユニバースの1作として企画され、『バットマンVSスーパーマン』(2016)、『ジャスティス・リーグ』(2017)と世界観を共有する作品となるはずだった。主演は『ジャスティス・リーグ』でもバットマンを務めたベン・アフレックで彼が監督も脚本も務める予定だった。
 ところがその後、ベン・アフレックは創作への意欲を失ってしまう。詳しい事情はわかっていないが、『ジャスティス・リーグ』のときに監督のジョス・ウェドンと激しく対立してしまったことにより監督業への意欲を完全に喪ったとも語られているし、この頃のベン・アフレックは妻との離婚やアルコール中毒のリハビリなど、プライベートで問題を抱えていた。とにかくも複合的な理由でベン・アフレックは監督と主演から退き、その後をマット・リーブスが引き継いだ。
 当初はまだDCユニバースと連結する作品として計画されていたが、マット・リーブスは「それは自分が作りたい作品ではない」と感じ、バットマンの本質に迫るストーリーに書き換えることにした。結果的に、現在ジェームズ・ガンが主導になって新たなDCユニバースの再構築されている最中だが、このユニバースからも孤立する作品となった。マット・リーブスはここから始まる新たな「バットマン3部作」を構想しているが、この3部作は過去のシリーズ、トッド・フィリップスの『ジョーカー』とも接点を持たないシリーズとなる。
 2022年に公開された本作は制作費2億ドルに対し、世界興行収入7億7000万ドル。批評家集積サイトRotten Tomatoesによれば高評価85%、平均点7.6点。興行的にも大成功を収め、批評家からも高く評価される1本となった。『バットマン』映画の新たな名作として語られる作品である。

前半あらすじを見てみる

 それでは前半のストーリーを見ていこう。


 10月31日。木曜日。ハロウィンだ。
 その男は自宅でテレビを見ていた。現職市長とチャレンジャーとして出馬したとある女性との討論番組だった。
「再開発計画は破綻しています。開始から20年掛けて犯罪率は高くなる一方。特に殺人とドラッグ。あげく、マスクをした闇のヒーローまで現れる始末……」
「私の指示でゴッサム市警は犯罪組織に大打撃を与えました。マフィアのボス、サルバトーレ・マローニ逮捕は歴史的な快挙だ。これでも何もしていないと?」
「現状を言うと、街は麻薬だらけです」
「すべて解決したとは言ってない……」
 現職市長と女性候補者の舌戦。客観的に見ても、現職市長のほうが劣勢に感じられた。それは“本人”の目にも。
 その市長のところに電話がかかってくる。
「いま見てる。どうして接戦になっているんだ。世論調査だと圧勝だと……」
 市長はしばらく対話して電話を切る。と、そこに気配。部屋の中に、緑のマスクをした男が立っていた。男が市長に襲いかかる。手に持った鈍器で激しく叩きつけた。

 それからしばらくして、バットマンはゴードン刑事に招かれて、市長の殺害現場へと入っていく。まだ検視官による調査がなされている最中。現場を見守っている警官達は、怪しいマスクの男が入ってくる様子に騒然とする。
 バットマンが招かれた理由は「To the BATMAN」という犯人からと思われる手紙が残されていたから。手紙にはなぞなぞが――「秘密の友人より。死んだ嘘つきが付くのは?」。
 しかし間もなく現場に本部長がやってきて、激高してバットマンを追い出すのだった。

 バットマンは秘密の地下アジトへ戻る。
 テレビでは市長殺害のニュースが報道されていた。
「大変ショッキングな事件です。4期目の現職市長ドン・ミッチェル氏が昨夜クレストヒルズの自宅で殺害されました。詳細は未公表ながら、市警は全域操作を実施。FBIとともに犯人を捜索中です。悪夢の再現です……」
 ブルース・ウェインはしばらくテレビには関心を持たず、持ち帰った資料で考え事をしていたが――。
「またもや政治家が狙われました。奇しくも20年前の10月、同じ州に市長候補の実業家ウェイン氏と夫人が市長選挙の最中に殺害されました。衝撃の事件は今日まで未解決です。ミッチェル市長は麻薬撲滅に尽力。市警を指揮し、囮作戦を敢行し、マフィアの大ボス、サルバトーレ・マローニを逮捕。警察史史上最大量の麻薬を押収しました……」
 20年前、ブルース・ウェインの父、トーマスが殺された。犯人は捕まっていない。あの事件と関連があるのか……。


 ここまで24分の前半パート。バットマンが活動を始めて2年ほどであること。市長殺害事件が起きて、バットマンに向けた私信が送られてきたことが語られている。ここから事件に深入りしていく物語が描かれていく。
 今作は3時間の長尺なので、まだまだほんの始まり。

 プロローグシーンで印象深いシーンがこちら。バットマンが街の不良達を相手に戦うシーン。不良達はハロウィンなので白塗りメイクをしている。そのなか、“半分”だけしかメイクをやっていない若者が1人。“半分だけ”なのはまだ不良グループに片足しか突っ込んでいない……という意味。さらにその若者が黒人として描かれている。底辺層の中でもさらに立場が低い人……ということで黒人が描かれている。

 黒人というのが本作の一つのポイントで、この作品において立場の低い人たち……というのはみんな黒人。キャットウーマンは今回はアフリカ系女優であるゾーイ・クラヴィッツだし、現職市長であるミッチェルの対抗馬として注目されているのはベラ・リアルという黒人女性。白人が上流階級を独占する社会にあって、黒人の、それも女性が白人社会に抗う……という構図が描かれている。

 だいぶ後半の方に出てくるシーンだが、こんな印象深い台詞がある。
「みんなが気にするのは白人のクソ権力者だけ。市長、警察本部長、検事。ウェイン一族だってそう。イカレた殺人鬼に狙われて当然よ」
 『ザ・バットマン』が描き出そうとしているのは「底辺層」のお話し。アメリカの社会は白人が中心。その社会の中にあって、今まで気にもされなかった、あたかも「透明人間」のような扱いをされてきた弱者達。透明人間だから、声を上げても無視。上流階級達は、自分たちが踏みつけてきた……という自覚すら持っていない。
 しかし無視し続ければいなくなるわけではない。いつか自分たちが踏みつけた人たちによる「復讐」が来るかも知れない……。その怖さを描いている。

 ブルース・ウェイン役のロバート・パティンソン。ビックリするほどやつれている。『バットマン』を演じるために顔つきまで作ってきている。
 設定ではバットマンとして活動を始めてから2年。それまでのシリーズとは違ってまだ「新米」という姿が描かれている(まだ新米なので、簡単に昏倒させられたりする)。両親が殺されたトラウマからまだ抜け出し切れていない。トラウマから抜け出せず、あがいている最中、あの殺人事件の謎を解き明かすかも知れない事件が起きて、それにのめり込んでいく。

 今回の『バットマン』の特徴として、今までのシリーズで出てきた「怪人」が登場してこない。ペンギンが登場するのだけど、いわゆるな「怪人・ペンギン」ではない。マフィアをやっている普通のおじさん。あまりにも普通の容貌なので、私は予告編を見たとき、どれがペンギンなのかまったくわからなかった。
 キャットウーマンも出てくるのだけど、いわゆるな「キャットウーマン」という扮装はしない。全身黒のライダースーツを着ていて、目出し帽の頭のところにちょっと切れ目が入っていて、それがシルエットで見ると猫耳っぽく見えなくもない……という描き方。
 今回は扮装をしているのはバットマンだけ。しかもかなりリアルな背景が描かれるので、バットマンの姿がかなりいびつに見えてしまう。
 「バットマンの姿がいびつ」……というのは恐らく作り手が狙った画。バットマンって「ヒーロー漫画」の主人公だから「そういうもの」という前提で見てしまっているけど、実は「変なやつ」。だって黒ずくめのコスプレをして、勝手に自警活動をやっているようなやつだから(だいたいコスプレして勝手にヒーロー活動しているような奴なんて頭のおかしい奴に決まっているわけで……「変態仮面」とどう違うのかと)。警察も素直にバットマンを受け入れているのではなく、理解者はゴードン刑事だけで、それ以外は「何だアイツ」という目で見ている。映像の面でも、「こいつヤバい奴だよ」とわかるような描き方になっている。

ネタバレ ストーリー紹介

 今回の『バットマン』だけど、いわゆるな「スーパーヒーロー映画」を求めてはいけない。「痛快なアクション」は一切ない。2時間55分もあるような映画だけど、その中でスカッとするようなシーンはほぼない。最初から最後までしっかりミステリーものとなっている。事件が起きて、探偵であるバットマンが謎解きをする……純然たる「ノワール映画」として造られている(どうやらそれこそ元来の『バットマン』のイメージに近いものだったらしい)。
 そういうお話しだから、世界観構築は徹底して現実的に、リアルに。『バットマン』シリーズおなじみの怪人も登場しない。1人だけコスプレ姿の変な奴が紛れ込んでいて、その姿が奇妙に見える……という描かれかたになっている。『バットマン』の映画というより、リアルな背景のノワール映画のなかにバットマンが紛れ込んだら……みたいな感覚の映画になっている。

 そういう純然たる謎解きものミステリーとして作られているので、ちょっとお話しが難しい。
 お話しが難しく感じるのは「サルバトーレ・マローニ」の存在。マローニは物語が始まる前にすでに逮捕されている元・麻薬王。ゴッサムシティに君臨していたマフィアのボスで、現職市長ドン・ミッチェルの指揮によって逮捕されている。これがミッチェル市長最大の成果としてすでに伝説となっている。
 まずこの物語に一度も登場していないマローニの存在を頭に入れて見ていかなければならない。そこでお話しがややこしくなっている。

 現在、ゴッサムシティのボスはこの男。カーマイン・ファルコーネ。風貌が「マフィア」というか日本の「ヤクザの親分」。たぶん原作にも出てこないし、怪人ですらない。「スーパーヒーロー映画」という思い込みで見ると、怪人ですらないこのキャラクターを見逃してしまいそうだけど、非常に重要なキャラクター。
 ちなみに日本語吹き替えは千葉繁が演じている。日本人には馴染み深い声なので、むしろ日本語吹き替えで見ていたほうが印象に残るかも知れない。

 ここからネタバレの話。

 ファルコーネとは何者なのか?
 ブルースの父であるトーマス・ウェインと友人であったが、その切っ掛けはたぶん次のエピソードだ。
 ファルコーネは昔、胸を銃で撃たれて死地を彷徨っていた。病院にも行けず、飛び込んだのがトーマス・ウェインのお屋敷。そこのダイニングテーブルで手術を受けた……という。
 このお話しは作中でも語られている。このエピソードを出した……ということは、そこで出会った……ということだろう。

 ここからトーマス・ウェインとファルコーネの“呪われた関係”が生まれる。
 トーマス・ウェインは実業家にして慈善活動家で世間的には聖人君子として知られるが、人生で一度だけ大きな過ちを犯している。
 妻のマーサ・ウェイン、旧姓マーサ・アーカム令嬢はその母が夫を殺し、そのうえで自分も自殺していた。マーサはそれ以降、精神的にかなり不安定になり“特別な施設”を何度も入退院を繰り返していた。アーカム家はその過去を金と権力で隠蔽し、“なかったこと”にしていた。
 その後、マーサはトーマス・ウェインと結婚。トーマスもマーサもゴッサムシティ創設の財閥同士なので、“理想的な結婚”と世間ではもてはやされていた。
 それから間もなく、トーマス・ウェインは市長選に出馬。もしも落選しても10億ドルを寄付し、公共事業の支援をする……という公約だった。
 ところが選挙戦の最中、1人の記者がマーサの過去を暴露する記事を作った。ウェインは記者を買収して、この記事を隠蔽しようとしたが、記者は買収に応じなかった。困ったウェインはマフィアの友人であるファルコーネを頼った……。

 ファルコーネはこの一件について、どう語っているだろうか?

「お前の親父さんは困ってた。例の暴露記事のせいだ。しかも、お前の母親とその家族の黒歴史。いわゆる内輪の恥だ。市長選の直前のスキャンダルは不味い。トーマスは金で黙らせようとしたが、記者は金を受け取らなかった。そこで俺の出番だ。トーマスのあんな顔は初めて見た。こう言った――「カーマイン。この男に恐怖とは何か思い知らせてくれ」。だが恐怖では不充分だった。お前の親父に始末してくれと頼まれた。だから始末した。お前には……清廉潔白な父親だ。だがな、どんな善人であろうが、追い詰められれば変わる。そんな顔するな。気に病んでも仕方ない。あの記者はマローニに飼われていたクズだ」
「マローニは我々の繋がりが、目障りだった。記者の一件でマローニは焦った。ウェインが俺の操り人形になる。だからウェインを市長にはさせられない。そういうことだ」

 記者はトーマスから金を提示されても心を動かさなかった。ジャーナリスト魂すごい……という話ではなく、裏にいたのは当時のマフィア界のボス:サルバトーレ・マローニ。もしもトーマスがファルコーネに「殺し」の依頼をしていたとしたら、トーマスは弱みを握られたことになり、ファルコーネに逆らえなくなる。これでトーマスとファルコーネの関係性が決定的なものになる。
 マフィアのボスであったマローニはそこで焦った。ファルコーネがウェイン家の後ろ盾を得たら、自分以上の権力を持つことになる。焦ったマローニは子分を動員してトーマス&マーサを路上で殺害した……。

 この一件について、トーマスの一番側にいたアルフレッドはどう見ていたのか?

「家柄は関係ない。人も殺してない。母上を守った。あの方が守ったのは家柄でも選挙でもない。奥様と……あなたです。魔が差してファルコーネを頼ったが、奴が人を殺すとは思ってなかった。父上には隙があった。ファルコーネは利用できるとわかれば何でもやる。そういう男なんだ。父上の過ちです。あの男のしたことを知り、父上は取り乱した。そして奴に言った。警察に出頭し、全てを話すと。ところがあの夜……あのお方と奥様は殺された」

 証言が微妙に違うのは、それぞれの視点で話をしているから。本当のことは「闇」。トーマス・ウェイン殺害の本当の理由はわからないまま。
 とにかくアルフレッドの証言によれば、トーマスはファルコーネに殺しの依頼はしていない。でもファルコーネはずる賢く考えた。もしもあの記者を殺してしまえば、トーマスは「殺人を依頼してしまった」負い目を背負う。負い目を背負わせたら、そこでいくらでも脅迫できる。
 しかし潔癖なトーマス・ウェインは記者が殺されてしまったことを知ると、警察に出頭してすべて話すと言った。それはファルコーネとしても困る。そこでファルコーネは自分の子分を動員して、トーマス&マーサを路上で殺した……。

 トーマス殺害の犯人はマローニなのかファルコーネなのか……。真相は闇の中。アルフレッドの語るとおりかも知れないし、気まぐれな通り魔と運悪く遭遇してしまったせいかもしれないし……。

 ところで病院でのアルフレッドとのやりとりは心情的に素晴らしいシーンだった。
 映画のはじめの方で、ブルース・ウェインはアルフレッドに対し、「お前は僕の父親ではない」と冷酷に言い放つ。その時、アルフレッドはなんともいえない微妙な顔をして「わかっています」と答える。
 アルフレッドにとってブルースは、生まれたときから知っていて、本当の父親より長く見守ってきたのだから、そこには強い「情」がある。ところがブルース・ウェインはそんな気持ちなど知らずに、冷酷に突き放してしまう。
 しかしブルースはこの段階に来て、ようやく少し心を開く。「大切な人を喪いたくない」……とアルフレッドを家族として認める。これが今回の事件を経て、ようやく辿り着いたブルースの成長だった。

ゴッサムの夜は明けない リドラーの正体

 お話しは20年前、トーマス&マーサが殺害されたあの事件へと遡っていく。その当時からゴッサムは腐敗や汚職に苦しんでいたのだが、トーマス・ウェインが出馬し、街の洗浄化に乗り出した。もしも市長選に敗北しても、財団に10億ドルを寄付する。そこで公共事業を興し、街の失業者問題を解消する。失業者問題が解消され、人々の生活に余裕が生まれたら、自然と犯罪は減るはず。
 しかし志半ばでトーマスは倒れ、ゴッサムには鉄骨だけ組み立てられた建物があちこちに放置されたままとなる。雇用問題は解消されなかったし、そういう廃墟が悪さをする連中の溜まり場やアジトになっていく。ゴッサムの置かれた状況は20年かけて悪化する一方だった。

 それどころかトーマス・ウェインが残した慈善事業の資金はマフィア達の格好の資金&資金洗浄の場にされてしまう。むしろ逆にマフィアを活発にさせてしまう。トーマスの犯したあやまちが、ゴッサムをここまで荒廃させてしまった。
 これがゴッサムシティの置かれている状況。

 予告編でも出てくるリドラー逮捕シーン。

 このシーンの元ネタはエドワード・ホッパーの『ナイトホークス』。この絵、好きな人多いわね……。

 リドラーは何者なのか……というとあの時、救われるはずだったけれど救われなかった人。本当の底辺。声を上げても無視される。成功した人々から踏みつけにされる。成功した人々は自分たちが踏みつけたという自覚すらない。「透明人間」のような人々。誰も彼らの実態は知らないし、興味を持たない。「いない人達」の扱いをされる。

 また冒頭のシーンを持ってくるけど、底辺に追い込まれて、まっとうな生活が送れない人々が悪さをする。実はそういう底辺グループの中にもさらに底辺はいて、そういう人がひたすらに踏みつけにされる。そうやって踏みつけられた人の声は、みんな無視する。

 ブルース・ウェインは目の前で両親が殺される……という悲劇を目の当たりにして、心の傷を負った。間違いなく被害者なのだけど、そうはいってもブルース・ウェインは特権階級。事件は大きなニュースになって世界中から「かわいそう、かわいそう」と同情してもらえるし、そのトラウマを乗り越えるためにウェイン財団のお金を湯水のごとく使えてしまう。上等なバットマンスーツ、ハイテク満載のバットモービル……なんであんなものを作れるか、というとブルース・ウェインが超金持ちだったからだ。

 本当に心の傷を負った者が、どんな気持ちになるかわかるだろうか。貧困の立場に追い込まれた人たちがどういう暮らしをしているか。希望もない、チャンスもない……。トラウマを克服するために、修行の旅をしてバットマンになることすらできない。ただひたすらに時代と人々を呪うしかない……そういう人たちがどんな気持ちでいるかわかるだろうか。
 それがリドラーの正体だ。

 というお話しを見てみると、2019年のトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』とテーマがよく似ている。お話しに繋がりはないのだけど、テーマ的に繋がっている。時代に取り残された弱者達のお話し。格差で分断された人々がひそかに抱く“呪い”のお話し。中間層が分厚かった頃は大きな問題ではなかったが、今や時代がその分断にくっきりとした輪郭線を与えている。
 『ジョーカー』だけではなく、「埼京線ジョーカー事件」や「秋葉原通り魔事件」とも連なっていく。みんな事件が起きた切っ掛けは同じだ。時代から取り残された人たちのお話。

 今回のお話しは、そういった底辺に置かれた人たちがみんな黒人として描かれる。不良グループの中でもさらに底辺は黒人。キャットウーマンも黒人。白人社会に挑戦しようとしている市長候補が黒人……。ここまで人種で描かれるのは、アメリカがいまだにそういう社会だから。ポリコレとかそういう話ではなく、「アメリカはそういう国だろ」ということで、そう描いている。

 リドラーは逮捕された後、姿が明らかになるが……。
 ここでは画像は見せないが、ビックリするほど、“平凡なアメリカ人”という顔だった。どこにでもいそう。どこかで見たことがある。そしてまったく印象に残らない。……よくあそこまで印象の残らない風貌の人を見付けてきたな……というくらい平凡な顔だった。
 つまり、「誰にでもあり得る」ということ。いつでも誰にでも起こりうる。「自分は関係ない」ではない。
 「自分は仕事もあるし、関係ない」……ではない。いつか関係してしまうときが来るかも知れない。そういう危うさを描いている。

 しかしリドラーはどうして20年間も潜伏して、今になって急に活動を始めたのだろうか? 答えはバットマンの存在だ。

 2008年に公開されたクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』にこんな台詞がある。

「マフィアはお前を殺せば以前に戻ると思っている。だが戻りゃしない。お前が変えたからだ。永遠に」
「俺はお前を殺したくない。お前がいなきゃケチな泥棒に逆戻り。嫌だ。お前が欠けてたら生きていけない」
「真っ当な口を利くな。似合わんぜ。お前は化け物さ。俺と同じさ。今は必要でも、不要になったらたちまち世間のつまはじき者。世間のモラルや倫理なんてものは善人の戯言だ。足元が脅かされりゃポイ。たちまちエゴ剥き出しになる。見せてやるよ。いざって時、いかに文明人とかいう連中が争い合うか」

 バットマンは自分のトラウマを乗り越えるために、自己実現のために奇妙なスーツを着て、勝手に自警団をやりはじめた。
 そうか、やっていいんだ! ……そう思った人々もいた。そしてそう思った人たちは自分たちのやり方で「正義」をやろうとした。
 バットマンはゴッサムの底辺を叩いた。それこそ、トーマス&マーサを殺した人たちだからだ。しかしリドラーが叩こうとしたのは――自分たちをこんな立場に追い込もうとしたのは――権力者達だ!
 『ザ・バットマン』を見ていてわかるように、リドラーは最初からバットマンの正体を知っている。しかしバットマンの正体を世間にバラそうとは思わない。それは「ヒーロー映画のお約束だから」……ではなく、リドラーにとってバットマンは「仲間」だから。バットマンが動いてくれれば、リドラーの望みであるゴッサム上流階級の闇が暴かれていく。リドラーにとってバットマンは手駒。
 おそらくリドラーはバットマンを尊敬しているし、愛している。「僕のことをわかってくれている」と思っているはず。同じ心の傷を共有している仲間だ……そういう感覚だろう。
 だが同じようでバットマンとリドラーは別モノ。なんだかんだでバットマンことブルース・ウェインは特権階級。そこで埋めようもない溝が生まれる。バットマンが叩いているのはリドラーのような連中だし、リドラーが憎んでいる上流階級とはまさにバットマンのこと。愛して、尊敬して、憎む……リドラーはバットマンに対し、そういう感情を抱いている。

 バットマンが切っ掛けになって、もっと危ない奴らがポコポコと現れるようになってしまった。バットマンもジョーカーもリドラーも一緒。ゴッサムの闇が生んだ化け物だ。バットマンがいなくなったら元通り……というわけではない。一度始めたら最後、バットマンは永久に戦い続けねばならない。
 でもそれは、私たちが本当に目を向けるべき問題を見逃し続けてきたから。『ザ・バットマン』のお話しはフィクションだけどある意味でフィクションではない。さて、リドラーと利権を貪る上流階級……どっちが本当に責められるべき悪なのかな……?

映画の感想

 映画でミステリーを描くのは難しい。ミステリー映画の王と呼ばれるヒッチコックは「私はサスペンスしか作っていない」と語る。ヒッチコックが言うには、一般的に「ミステリー」と呼ばれるものは、ミステリー、サスペンス、サプライズに分けて語ることができる。
 例えばなんでもない日常のシーンがあったとして、それが突如爆弾でなにもかもが吹き飛ばれる。これがサプライズ。

 この映画の場合だと、葬式会場にいきなり車が突っ込んでくる場面がサプライズ。

 次にサスペンスとは、犯人も状況も背景もすべてオープンにした上で、緊張感あるシチュエーションを作ること。

 さっきのシーンの後、爆弾解除のシーンに入るが、こちらがサスペンス。

 ヒッチコックはこう語る。

「隠された事実というのはサスペンスを引き起こさない。観客が全ての事実を知った上で、はじめてサスペンスの形式が可能になる」
 ミステリーと映画は実は相性が悪い。小説ならば謎解きミステリーはエンタメとして成立する。しかし映画は「映像で語るメディア」だ。そこでミステリー的に構造を延々語る……というようなお話しにすると、退屈でつまらない映画になってしまう。しかしミステリーは構造を複雑にすればするほど面白く、簡潔にしてしまうと「なーんだ、その程度」と思われてしまう。ミステリーを主題に置いてしまうと、観客は犯人捜しにしか興味を持たなくなってしまう。この矛盾を映画の中では解消できない。

 映画は様々な方法で、いかにエンタメとしての面白さと、ミステリーをうまく組み合わせられるか……という模索をし続けた。そこで出てきた「解」がミステリー、サスペンス、サプライズの複合とすること。

 『ザ・バットマン』の映画を観ていても、実はミステリーである部分ってごく一部でしかない。あるときにパッと台詞で説明されるだけ。明らかにいって、そこはメインテーマとなっていない。
 しかも大命題であるはずの、20年前の事件の真相は最後まで闇の中。ともかくもトーマス・ウェインの遺産を利用してゴッサムの悪が肥大化していった……という実体だけが描かれている。
 『ザ・バットマン』が主題としているのは明らかに次の2つ。
 ブルース・ウェインの内面。父を喪った孤独な男。精神的な病を抱えた男。その男がほんの少し成長して、アルフレッドを家族として認めていく……というお話し。
 もう一つがリドラーの内面。そのリドラーの内面を語るために、ゴッサム上層部・上流階級の腐敗が描き込まれていく。リドラーのなぞなぞはゴッサムの闇を解説するためのツール。上流階級の腐敗があって、底辺への軋轢が起きて、リドラーが出現した。この映画におけるミステリーは、その説明をするためだけにある。むしろゴッサムの闇を描くことが、本作の命題。なぜならそれこそ今のアメリカ社会の状況でもあるからだ。
 本作の主軸はこの2本。ブルース・ウェインとリドラーの内面を掘り起こすこと。そこにどんなドラマを描けるか。それがこの作品の見せたいところ。

 『ダークナイト』に印象深い台詞が出てくる。
「夜明け前の闇はもっとも深い」
 『ザ・バットマン』はえんえん夜のシーンが続く。夜明けのシーンはほんの数回。昼のシーンは市長の葬儀のシーンともう一つあるだけ。あとはえんえん夜のシーン。
 私はあらかじめ「ザ・バットマンは画面が暗い」という話を聞いていたから、いつもより上等なテレビモニターで見ることにした。確かに暗い。その後、いつものPCモニターを見たら、本当に画面が真っ暗で何が映っているかよくわからない。いつもはしないくらい輝度を上げて、ようやく画面が見えてきたが、闇の部分はブロックノイズ出まくりだった。
 どうしてそこまで暗くしたのか……本当ならここまで画面が暗いのは「エンタメ映画」としていかがなものか……という話にもなる。それもゴッサムが抱えている闇を表現したかったから。夜明けがずっと来ない。夜が明けても空をガスが覆っていて、光が射さない。ずっと夜明け前の漆黒が続く。そういうテーマを表現するために、とことん暗くなっている。

 日本人がバットマンを見るとき、「バットマンかっけー」で終わってしまうのだが、アメリカ人にとってアメコミはいかにして自分たちの文化を語るか……というツールでもある。例えばウーマンリブ運動が盛んになってくると『ワンダーウーマン』が生まれるし、同性愛問題が盛んになってくると、スーパーマンの息子、ジョン・ケントが同性愛者という設定になる。黒人のスパイダーマンだっている。
 自分たちの抱えている社会的テーマをいかに表現するか。そういう問題に対し、エンタメがどんな力を持つか。アメコミとはそういうものを表現するツールにもなっている。
 『バットマン』もいつものように、奇妙な怪人が出てきて、その怪人と戦うだけの映画ではない。アメリカがいまどんな問題を抱えているのか、ヒーローとして何を提唱すべきなのか……「問題」と「理想」を同時に語ることができる。ヒーロー映画もアメリカの文化そのものを語る……それくらいの成熟した姿を見せている。
 そこで今回の『バットマン』、エンタメとしてどうなのか……というとそこまで楽しい作品ではない。テーマ性とエンタメ性をうまく融合させたクリストファー・ノーラン監督のほうが楽しい作品である。だが映画の世界、楽しければ格が上……というわけではない。今の時代を考えると、『ザ・バットマン』のほうが作品の在り方として相応しい。
(そもそも3時間という尺はエンタメ映画の尺ではない)

今回のバットマンは「ヒーロー」として描かれていない。ゴッサムに出現した悪霊のような存在……。ヒーロー的な格好良さもない。むしろ“不気味”な存在。でも本来、不気味なのがバットマンに相応しいイメージかも知れない。

 そういう意味で『ザ・バットマン』は『ダークナイト』『ジョーカー』とテーマ的に全て連なっている。お話しは繋がってないけど、同じテーマで連なっている。もともとは脳天気だったはずのアメコミ映画がこうも暗くなっていく……ということはアメリカがそこまで追い込まれている……ということなのだろう。


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