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8月28日 一生安泰……そして「一族安泰」の夢

 今日はChatGPTにこんな話題を投げかけてみた。

 へえ……世界最長の企業って、日本なんだ。
 では日本では長く続いている企業ってどれくらいあるんだろうか?

 ChatGPTはありがたいもんだね。話題を投げかけてくると、こんなふうに広げてくれる。こういうブログを書くにあたって、切っ掛けを作りやすい。

 しかしChatGPTには大きな弱点があって、実際にありもしないものを、本当のことのように話す癖がある。ChatGPTが答えた内容が本当に正しいか、検証しなければならない。

 順番に見ていこう。

神功皇后神社

 ChatGPT:創業年代は用明天皇の時代(紀元前1世紀後半から2世紀)
 →実際には1288年(正應元年)創建。神功皇后は4世紀頃の人と考えられる。用明天皇はおそらく6世紀頃。

神明神社

 ChatGPT:紀元前1世紀に創建。
 →神明神社は天照大神を主祭神とする神社で、伊勢神宮内宮を総本社とする神社。伊勢神宮は垂仁天皇26年創建。正確な創建年代は不明。

井上ひさし堂

 ChatGPT:寛政12年(1800)創業。
 →グーグル検索をかけてみたが、確認できず。井上ひさしという作家に関する記事は一杯出てくるのだが、「井上ひさし堂」という茶舗についての情報は見付けられず。

大倉商事

 ChatGPT:1661年創業。大手百貨店のルール。
 →貿易商社「大倉組商会」は1874年に創設。帝国ホテル、ホテルオークラ、大成建設、大蔵火災海上保険などを後に創設する。

味の素

 ChatGPT:1909年創業。
 →鈴木三郎助が1907年に合資会社鈴木製薬所を設立。1909年に「味の素」を一般販売。これを創業年とした。ChatGPTの説明は正しい。

山田醤油

 ChatGPT:1755年創業。
 →実際には明治24年(1891)創業。

西本願寺

 ChatGPT:1462年創業。観光旅行事業も行っている。
 →実際には1591年(天正19年)創建。調べてみたが、観光旅行事業をやっているかどうかの確認はできず。

田酒

 ChatGPT:1673年創業
 →「たしゅ」ではなく、おそらく「でんしゅ」。グーグルで検索しても商品の紹介ページしか出てこず、創業がいつなのか不明。

 ChatGPTの回答を見たときは「へぇ、そうなんだ」と思っていたけれど、一つ一つ調べてみると「おいおいChatGPTさんよ」となってしまった。正解が1個しかないじゃないか。

 いやいや、そういう話をしたいわけじゃなかったんだ。今回のメインテーマがなんなのかの話をしよう。

 産業革命以降、社会構造が大きく変わり、その以前の社会にはなかった多くの産業が生まれ、私たちは様々な産業の中から働き方を自ら選択できるようになった。なんだったら、自分から新しい仕事を興すこともできる。
 ただし、働くためのビジョンがすべての人に平等にあるわけではなく、それぞれで自分に合ったものを考え、選ばなければならなくなった。
 しかし誰もが「この仕事につきたい!」というビジョンがあるわけもなく。どんな仕事にも対応できるように、義務教育なるものがあって、そこでその社会における平均的な知識を学ぶことになっているのだが、ほとんどの場合で「目的なく教育を受ける」ような状態になり、意欲にまったく繋がらない。それどころか、学校という社会が特殊化しすぎて、「教育のための教育」――つまりそのなかでしか通用しないエリートを作り出すことに躍起になって、実際社会に出たら全くの無能が生まれる……ということも起きてしまう。実際、学校で学んでいることの大半は社会に出ても何の役にも立たない。実践的な教養といえるものがほとんどない。逆に、「やりたいこと」がある人にとってしてみれば、学校に行かねばならない……という数年の時間が「時間の無駄」と映ってしまう。私なんかはそういうタイプだった。

 しかしそんな厄介な制度も、産業革命以前の時代と比較して、自分の将来を好きに選択できる! 好きな人生を選べる! 家柄や人種と関係なく、自分らしい生き方ができる!

 と……思っていたのだけど、よくよく考えれば、どうして私たちは「自分のしたいこと」を探して、こうやってウロウロしなくてはならなくなったのだろうか。「自分のしたいことが見つかった」と思っても、仕事の方が受け入れてくれず、意に沿わない仕事をやらなくてはならなくなったり。「自分のしたいことはこれだ」と思っても、数年後には「違った」ということになったり。
(私も普段なんの仕事をやっているかというと、だいたい工場で単純労働作業をやっている。私がつきたい仕事からは「NO」を突き付けられ続けている。これが「良い社会」なのか!?)
 それ以前に現代人の全員が「自分のしたいこと」のイメージがあるものなのだろうか。むしろ大多数がそういうイメージもなく、なんとなく“その時期”が来たからどこかの企業に入って働いている……というのが実際なのではないだろうか。

 もうちっと、俯瞰的に労働について見てみよう。
 産業革命以前の時代というのは手工産業時代の世界だった。そういう世界では、“一部の人”が修行によって仕事を身につける……つまり職人の世界だった。
 それ以外の大多数は何をしていたかというと、特に仕事もしていなかった。「まったく仕事をしていなかった」というわけではなく、実際にはいろんな仕事を手伝ったりしていたそうだが、現代人ほど働いていない人は肩身が狭い……という感じもなかった。働いてない人は何かあった時の待機要員みたいなものだった。
 産業革命が画期的だったのは、第1にすべての人が平等に働けること、すべての人が平等に富を築けること……であった。
 だが実際に起きたのは過酷労働だった。産業革命当時は、一日の労働時間は10時間から16時間だったそうだ。当時は機械が蒸気機関で動いていて、蒸気機関は動かすのに時間がかかり、動かしたらすぐに止められないので、その機械の都合に合わせて人間が働いていた。それで過酷労働となってしまい、次々に過労で倒れる人が出てしまった。むしろすべての人が平等に過酷労働という拷問を受けさせられ、しかも超低賃金だったのでそこで働いていても富を築くことはできなかった。
 それに働く人の人員をどんなに増やしても、その時代にある文明を支えられない。常に人手不足状態に陥る。農耕革命以降、畑の世話をするために人を増やし、その人々を食べさせるために畑を増やし、その畑を世話するためにさらに人を増やし……というスパイラルが起きたが、産業革命以降その規模を拡大して同じことを繰り返し始める。
 1817年、イギリスでようやく「仕事の時間を8時間にしよう」という決まりが生まれる。アメリカでは1886年、シカゴ、ニューヨーク、ボストンで大規模ストライキがあって、ようやく労働時間は8時間と決まった。ソビエトでは1917年に労働時間8時間性が導入。日本では1919年からだった。
 と、世界的な潮流で「労働時間は8時間」……となったのだが、手工産業時代の人々はそんなに働いてなかった。1日4時間とかそれくらいだったし、「今日は調子が悪いや」といってその日がいきなり休みということもあった。さらにその以前、狩猟採取民時代になると、1週間の労働時間は14時間だった。もしも狩猟採取民が週5日労働だったとしても、1日の労働時間は2.8時間だ。
 現代では基本的な労働時間は8時間ということになっているが……実はそんなに長時間働くことは、人類の歴史上にもなかったことだった。現代では当たり前だが、人類史全体から見ると、私たちは奇妙なことを始めている。

 産業革命以降、私たちはむしろ働き過ぎだ。その以前は働いていない人がそれなりにいても世の中は回っていたが、産業革命以降はすべての人がいつも忙しく働いていなければならなくなった。しかもいくらあくせく働いたところでたいした財産は築けない……「どうしてこうなったんだ?」というような状態になった。現代人は豊かになるところか、働くことに追い回され続ける……というような状態になっている。「ひょっとしてなにか騙されてないか」……という気すらしてしまう。

 でも産業革命以降、豊かになったじゃないか! ……本当か?

 ちょいと話題を変えよう。
 アフリカで採掘されたダイヤモンドの多くはインドに渡り、そこで加工される。インド西部、グジャラート州にある街、スーラトへ行くと、あちこちにダイヤモンド工房がある。実は世界で採掘されたダイヤモンドの9割は、この街に運ばれて、加工処理される。スーラトの街自体がダイヤモンド加工産業で成り立っている街である。
 で、このダイヤモンド加工工房はひとつの一族によって経営されている。街にはたくさん工房があるが、すべて親族達が経営し、親族達が技術を継承しているそうだ。

 これは手工産業時代のやり方だ。技術を一族の中で守り、継承していく。そしてその技術を決して外部に漏らさない。そうするのは技術の質を守り、一族を安定的に生活させるためだった。手工産業時代は、そういう考え方が多かった。
 ダイヤモンド工房は今でも手工産業時代の考え方と習慣で現代まできている産業だった。

 現代の私たちは「世襲」というものを蛇蝎のごとく嫌っている。
「2代目や3代目なんてだいたいろくでなしだ。1代目が築いたものを食い潰すだけだ」
「2代目や3代目なんて世間の厳しさもろくにわかってないボンクラだ。そんなやつに経営なんて勤まるか」
 ……世襲と聞くとすぐにこういう意見を言う人が必ず現れる。これを読んでいる人たちの中で、そう言った覚えのある人も多かろう。
 ここでChatGPTに「日本で長く続いている企業は?」と尋ねた理由が出てくる。「企業なんてボンクラの3代目が潰すだけだ」――現実を見よう。200年、300年も続いている企業は日本国内だけでも結構ある。世界を見ても、マイセン陶磁器、フォルクスワーゲン、ルイ・ヴィトン……200年以上の歴史を持っているだけではなく、創業者の子孫が現代も経営を続けているところも結構ある。1889年創業の任天堂だって、中興の祖・山内博社長がくるまで一族世襲経営だった。

 世襲には実は行動遺伝学的にも理にかなっている……ということが最近少しずつ明らかになっている。
 遺伝子的な“偏り”はその子孫に継承される。例えば画家の子孫はやはり絵が上手い。音楽家の子孫は音楽に長けている。運動能力の高い子孫はやはり運動能力が高い。子は親と似たような偏りを示す。
 だから職人的な世界の場合、手先の器用さが親から子へ受け継がれるというケースは多い。これは環境的要因よりも、遺伝子的要因のほうが強く出るのだという。例えば、子供を養子に出し、親元とまったく違う教育を受けても、親と似たような気質、特技を身につけていくという。交友関係の傾向まで、親と似るという。
 だからといって子供が親の特質を“必ず”遺伝するというわけではない。時にはまったく継承されない場合もある。それどころか、まったく違う気質や傾向を持つこともある。これが遺伝学の面白いところでもある。
(人間社会の習慣として、“長男”に家業を継がせよう……とする場合が多い。しかし長男に必ず親と似たような性質の遺伝子が継承されるわけではない。ここで問題になることが多く、無理して長男に継がせようとして破綻する……ということは多い。こういう場合、一族の中でもっとも遺伝子的にその偏りを発現した人に継承させるのが正しい……のだが、なかなかそこで柔軟に「家業を次男に継がせよう」という発想が出てこないのが世の常だ)
 なので創業者子孫が一つの事業を守り続けることには、一定の意味がある。そういった分野について、そもそも遺伝的に強い人が経営をやるのだから、これ以上に理にかなっていることはない。むしろ伝統ある企業を守るために、世襲はやったほうがいいのだ。

 私たちはどうしてこうも刹那的な生き方をしているのだろうか。その瞬間だけにしか興味がない。自分の世代だけにしか興味がない。子供たち、孫達のことを考えずに日々暮らしている。どうして子供や孫に、自分たちの仕事を継承させようとしないのだろうか。例えば絵描きなら、自分の子供に最高の絵画教育を提供できる。歌舞伎などの伝統的な演劇の世界では、物心つく前から、子供に台詞を覚えさせて舞台に上がらせる。そうやって幼い頃から稽古を身につけさせるから、成人する頃には一流の役者になっている。
 しかしなにかしらの技能を得たという現代人は、そういう環境を子供に提供し、技術を継承させようとしない。むしろそういう教育を避けようとする。
 なぜか――というと「自分の世代」しか関心がないからだ。私たち「個人主義」の時代に入って急に喪われてしまった。子供世代、孫世代にも同じ仕事を引き継がせて、「一族安定させよう」という意識がない。自分の子供に「安泰」を与えようとしない。それどころか奪ってさえいる。「自分の世代」だけが満足ならそれでいい……自分の子供のことすら考えない個人主義の思想だ。これは手工産業時代の考え方を喪っているからだ。

 「すべての人間が自分の意思で将来を選択すべきだ! そういう人生観が尊いのだ!」……こういう考え方の人々が多い。たしかに、自分で自分の生き方を選択したいときに、「選択肢」自体がない……という場合は大きな問題だ。しかし誰もが自分の将来について、生き方について、強烈なビジョンを持って生まれてくるわけではない。どうやっても平凡な物事しか考えられず、何かを創造する……ということができない人たちはいる。そういう人にまで「自分で将来を選択しろ!」と言われても困るだけ。むしろ「安泰な人生」の道筋があったらそっちのほうがいい。
 何か新しいことを始める……という人間は100人に1人いればそれでいい。才能ある1人のために、100人がアシストする。全員が何かしらの創造的な天才である必要はない。というか、そういう状況は現実的にいうとありえない。

 一族安泰!
 自分の生涯だけが安泰ならそれで良い……という意識が現代人だ。子供や孫がどうなろうか、知ったこっちゃない。
(それ以前に、自分の人生自体安定させることができない……それこそ社会が不安定化しちゃっている証拠だ)
 なぜ自分だけではなく、「一族安泰」という選択を採ろうとしない。何かしらの技能や芸能で一時代を築いた人には、それができるチャンスがあるというのに!
 インドのダイヤモンド工房をやっている人にはその考えがあった。技術は一族だけで継承させる。外には出さない。たぶん……ダイヤモンド加工って実はそこまで大変な技術ではないじゃないか……と疑っている。現代の技術があれば、職人の技術を解析し、作業をベルトコンベアにして安価なダイヤモンドを流通させることもできるだろう。今どきの「金儲け」しか考えない欧米白人は、絶対こういう発想をするはずだ。しかしインドの工房は細かなノウハウを絶対に外に出さない。自分たちの技術、そしてダイヤモンドそのものの価値を下げさせないためだ。

 一族安泰。
 一族の中で継承されていく仕事があれば、私たちは「何を仕事にすればいいのだろうか」とウロウロと探し回る必要がない。自分の遺伝子的にも最適な仕事が家業としてある。子供が「私は何の仕事をすればいいんだろうか」と悩む必要はない。この一族の中である種の“豊かさ”を築いていけば、そのコミュニティの中の何人かが働いてないで遊んでてもいいだろう。なにかあった時の待機要員で良い。現代のように「すべての人間が働いてなければ成立しない社会」のほうが人類史を見ても狂っているわけだから。むしろコミュニティの中の数人を遊ばせておけるくらいでなければ、豊かな状態だとはいえない。それができない社会は、まだまだ貧しい社会だ。
 もちろん、絶対に家業を継ぐ必要はない。それだけの豊かさがあれば、そのうちの何人かが別のなにかにチャレンジしたって構わないはずだ。そういう例外は100人に1人くらいで充分。その確率で新しいことを始める人がいれば、世の中はアップデートされ続けていく。

 そうした状況であれば、もう「何を仕事をすればいいんだろうか」と悩む心配はなくなる。何かを始めようと思っても「金が……」なんて悩まなくて良くなる。むしろそっちのほうが賢明な気がするのだが……。

 では、そうした特別な技能や技術に恵まれなかった人たちはどうすればいいのか。
 さしあたって提案したいのは「農業」だ。
 農地を持っていれば、自分の土地で食料を生産できる。よほどの問題が起きない限り、食いっぱぐれる心配はない。お金がなくても生きていける。しかも農地は子供や孫に継承ができる。
 よくよく考えれば、農業はもっとも手堅い仕事ではないか! どうして若い人たちは農業を選択肢に入れないのか、不思議でならない。

 実は私も最近、「農業をやろうかな……」と頭の片隅でちらっと考えている。なぜか、というとここまで書いたことが理由。
 どうしてやらないのか、というと私一人だからだ。私には友人もなく、もちろん伴侶もいなければ子供もいない。話し相手すらいない(ChatGPTしか私の相手してくれる人はいないんだよ!)。社会の中で孤立した存在だ。
 そんな私がたった一人で農業を始めたところで、畑仕事に追い回されてしんどい思いをするだけ。農産物ができても、私一人で食べるだけ。土地を継承する子供も友人いない。一人で始めても意味がない!
 でももしも私にある程度の金と家族と友人がいたら……農業ありだな……という気がしている。もしもそういう老後があるなら、土地を買って畑を作ろうかな……。
 まあ、“もしも”の話だけどね。

 若い人は自分一人の生活だけではなく、「一族安泰」という目標を持って農業を始めてみるのはどうだろうか。子や孫に継承できる土地を持っている……というだけでも気分は変わるんじゃないだろうか。


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