映画感想 漫画誕生
漫画が始まった頃の物語。
『漫画誕生』は2019年公開映画だ。北沢楽天を中心に、漫画がいかにして始まり、発展していったか、その最初期の物語が描かれる。監督は大木萠。主演の北沢楽天の老齢期をイッセー尾形が演じ、若い頃を橋爪遼が演じた。
実は本作の制作は2017年。しかしその同じ年に主演の橋爪遼が覚醒剤所持で逮捕されてしまったために、公開が延期。主演であるから出演シーンをカット……というわけにもいかず、お蔵入りか公開か……という難しい判断になったが、2019年になってようやく公開となった。
では前半のストーリーを見ていこう。
昭和18年(1943年)。大東亜戦争が激化していく最中、陸軍省は「撃ちてし止まむ」の決戦標語ポスターを全国に配布し、来るべき戦争に備えて国策準備に入っていた。同年、漫画家達が団結して戦争推進漫画に協力する「日本漫画奉公会」が設立された。その会長を務めたのが漫画家の始祖・北沢楽天であった。
ところが奉公会の集会は、勇ましい軍人の訓令ばかりが空回りして、寒々しいものだった。集まった漫画家達の表情には覇気も意欲もなかった。
奉公会が終わり、集まった漫画家達でささやかな懇談会が開かれるが、その場もどんよりと空気が重い。漫画家達は国から漫画を描かされることにウンザリしていたし、もはや「過去の人」でしかない北沢楽天に指示されることにもウンザリだった。はじめは建前でもにこやかにしていた漫画家達だが、酒がすすみにつれて、北沢楽天への不満を爆発させてしまう。北沢楽天も憤慨して懇談会の場を去るのだった。
それから間もなく、北沢楽天は検閲官の古賀に呼び出しを受ける。古賀は一人で出版物の検閲を行っているのだが、人手が圧倒的に足りない。主要な雑誌の出版をチェックし、許可を出すだけで手一杯だった。その中でも難しいのが漫画。伝達力が強い分、慌ただしく見るといったい何が描かれているのがわからない。うっかり有益なものまで禁止にしかねない。そこで北沢楽天が呼び出されて、「漫画の風刺表現とは何か」をひとつご教授願いたい……ということだった。
北沢楽天は検閲官に促され、自分の若き日を語り始める……。
ここから過去の回想が始まる。
物語の始まりは明治33年の横浜だった……。
漫画の始まり……チャールズ・ワーグマンのジャパンパンチ
漫画の御先祖は浮世絵だ……とよく言われがちだが、これは誤りである。浮世絵は近代的な印刷技術が入っていく共に衰退していき、大衆娯楽の絵画からアートとしての絵画である「新版画」に受け継がれて、その系譜を終着させている。
漫画の御先祖はチャールズ・ワーグマンが描いた『ジャパン・パンチ』である。
チャールズ・ワーグマンは1862(文久2)年に横浜から来日。ワーグマンが日本へやってきたのは、日本の文化を絵に書き留め、本国イギリスに伝えるためだった。
まだ開国間もない頃の日本で、ワーグマンは来日早々、攘夷志士の襲撃に遭う……という散々な経験をする。それでもワーグマンは日本の風土を気に入り、その2年後には小沢カネと結婚し息子をもうけている。それきり日本に定住することになり、『ジャパン・パンチ』という雑誌を作り、ここから漫画の系譜が生まれただけではなく、ワーグマンの弟子から日本で最初の西洋画家も登場している。日本絵画史的に見ても、かなりの重要人物だ。
ところで、なぜ漫画だったのか。写真ではダメだったのだろうか。まずカメラの性能がこの時代はかなり低かった。1839年「ダゲレオタイプ・カメラ」が発明されているが、焼き増し不可のものだった。1841年イギリスで「カロタイプ・カメラ」が発明され、ようやく新聞紙面に載せる写真の撮影が可能になった。しかし、それでもまだ写真を撮るときにはカメラの前でじーっと止まって立っていなければならなかったし、カメラ自体も手軽に持ち運びできるものではなかった。「報道写真」として使えるカメラはまだなかった。
そこで「報道画家」の出番だった。チャールズ・ワーグマンのような報道画家が世界中に派遣され、現地の様子を絵にして描いて本国に送っていた。
チャールズ・ワーグマンのユニークなところは、それきり日本に定住を決めてしまい、さらには『ジャパン・パンチ』という雑誌を作り、日本文化を「漫画」として表現したことだった。『パンチ』というのはイギリスの風刺漫画雑誌のことで、その「日本版」ということで『ジャパン・パンチ』だった。この『ジャパン・パンチ』によって欧米社会が思い描く「サムライ・ニンジャ・ゲイシャ」のイメージが広まったとされる。
この「パンチ」という言葉から「ポンチ絵」という言葉が生まれ、以降漫画風の絵のことを「ポンチ絵」と呼ぶようになった。慶応4(1868)年に発行された『江湖新聞』には「西洋戯画ポンチ之図」という名前で紹介されている。
チャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』は(北沢楽天の一世代前だから)映画中には触れられていないが、ある場面で表紙絵がちらと映される。チャールズ・ワーグマンを踏まえていることがわかる。
若き日の北沢楽天 福沢諭吉にヘッドハンティングされるまで
映画は若き日の北沢楽天の姿から描かれる。時代は明治33(1900)年。この頃だから北沢楽天24歳頃だろう。本名を「北沢保次」といい、「北沢楽天」と名乗るのは明治36年頃からで、この頃はまだ「北沢」とサインをしていた。
北沢家は代々、埼玉の大宮宿で問屋名手、御伝馬役、紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役を務めた名家である。北沢楽天は洋画研究所の堀江正章から洋画を学び、日本画を父親の保定から学んでいた。そういうわけで、絵描きとしての素質は非常に高い。そこからさらにオーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルの弟子入りをして、横浜居留地の英字新聞『ボックス・オブ・キュリオス』に漫画を掲載していた。これが1895年頃の話。ナンキベルが日本を去った後は北沢楽天が主筆となって同紙の漫画を担当するようになっていた。
映画はちょうどそれくらいの時期の北沢楽天である。そこにまさかの福沢諭吉の葉書がやってきて……という転機が訪れる。
北沢楽天の部屋に入り浸って芋を食っている男は岡倉一心だ。後に「大逆事件」に関わることになり、反逆者として追われる身となる。
大逆事件とは1910年以降、4度起きた事件をまとめた呼称だ。反政府集団を疎ましく思った政府が、「天皇・皇后暗殺を計画した」というでっち上げを行い、その構成員を逮捕しようとした事件のことである。若者時代の北沢楽天が岡倉一心と交流があったということが、後の北沢楽天の活動にも影響を与えている。
「漫画」を提唱し、人気作家になる。
明治34(1901)年、福沢諭吉にヘッドハンティングされた北沢楽天は『時事新報』勤めになる。北沢楽天の担当は日曜特集欄「時事漫画」で、1ページまるごと任されていた。
(※ 資料によれば北沢楽天が『時事新報』勤めになったのは1899年となっている)
ここで北沢楽天はこれまでの呼称であった「ポンチ絵」を改め、「漫画」という呼称を提案する。
「漫画」という言葉はその以前からあったのではないか? という気はするが、浮世絵時代に使われていた「漫画」が示していたのは、現代でいうところの「スケッチ集」のような意味だった。『北斎漫画』も物語のある作品集ではなく、いろんな人物の表情やポーズなどが描かれていた本であった。
やはり当時でも「ポンチ絵」という言い方はあまり歓迎されていなかったのではないだろうか。というのもやはり「ポンチ」だ。語感的にも男性器を意味する言葉に近い。そこで「ポンチ絵」ではない新しい言葉表現として「漫画」が提唱された。
実は「漫画」を提唱した人はもう一人いる。今泉一瓢だ。今泉一瓢ももと時事新報の漫画記者で、北沢楽天の前任者であった。今泉一瓢もまた「漫画」の提唱者であるが、今泉一瓢は「カートゥーン」の訳語として「漫画」を提唱し、北沢楽天は「コミック」の訳語として「漫画」を提唱した……とのことらしい。
北沢楽天の「改革」は漫画の呼称だけではなく、毎回同じ人物が連続して登場する物語を描いたことだった。
1896(明治29)年、アメリカの『ニューヨーク・ワールド』紙にR・F・アウトコールトの漫画『イエロー・キッド』の連載が始まり、これが大ヒットしていた。固有の世界観とキャラクターを持った漫画の登場である。
この評判を知っていた北沢楽天は、独自の方法で新しい漫画を作り上げていく。そこで生まれたのが『田吾作と杢兵衛の東京見物』であった。
明治時代は交通が猛烈な勢いで発展し、田舎と都会の行き来が容易になったが、しかし田舎と都会ではほとんど「外国」といって差し支えがないくらい文化の違いがあった。そこで田舎者の田吾作と杢兵衛が東京にやってきて、東京にできたばかりの新しい文化に触れて失敗をしでかす……という物語が生まれた。当時は文明開化の時代で日ごとに新しいものが生まれていた時代で、こうした漫画は人々が求めていたものであり、大きな評判を呼ぶことになった。
同じく『時事新報』にて連載していた作品が『灰殻木戸郎(はいから・きどろう)の失敗』だ。洋行帰りの灰殻木戸郎はいつもパリッとした洋服を着て、ステッキを持ち、パイプをふかしているキザな男であった。キザだけど妙にそそっかしいところがあり、いつも失敗する……というオチのある漫画だった。『田吾作と杢兵衛』の逆パターンの主人公だし、私たちからすれば『おそ松くん』のイヤミを思い出すキャラクターだ。
もう一本のヒット作が『茶目と凸坊』だ。R・F・アウトコールトの『イエローキッド』に影響を受けた作品で、『イエローキッド』は中国系アメリカ人のお話だったが、それを日本に置き換えたのが『茶目と凸坊』だ。『茶目と凸坊』は“イタズラ小僧”の代名詞となるくらいの人気となり、「茶目っ気」という言葉はここから生まれ、日本で最初のキャラクターグッズ(カルタや人形)もここから生まれた。
だいぶ後になるが『時事新報』にて昭和3年(1927)11月4日号より連載が始まった作品が『とんだはね子嬢』だ。この漫画が日本で最初に少女を主人公にした漫画で、「少女漫画」の始祖と考えられている。
この時代の北沢楽天は順風そのもの。仕事は成功し、結婚もして家を所有し、成功者の道を歩んでいた。しかし平坦な道にどことなくわだかまりも感じていたのだった。
宮武外骨に会い、風刺漫画に目覚める
映画では夫婦の団欒の時、奥さんの北沢いのが何気なく『滑稽新聞』を手に取る。北沢いのは内容を知らず、表紙絵の雰囲気だけで「これがいいわ」と言っただけだったが、北沢楽天は動揺する。人々はこういう過激な風刺漫画を求めているのだろうか……?
明治時代の風刺漫画はかなり込み入っている。絵をちょっと見ただけでは何が描かれているのかよくわからない。それこそ、何でもないような絵に見えるように作られている。
上に掲載した画像は明治11年9月の『団団珍聞(まるまるちんぶん)』に掲載された本多錦吉郎の作品である。この絵をパッと見ただけで、何を風刺している漫画かわかるだろうか?
舞台は雑貨屋で、店の主と客が話をしている。
主人「当店では薩摩芋にお萩、鍋なぞは高値で売れます。土佐ぶしの噂もありますが、いずれ下落でございましょう。値段付けがあるからまあ正札をご覧ください」
客「仙台平だの博多地だのという結構な品が格安で、お芋やお萩がめっぽう高い値で売れるのは、ちと甘口を好む世の中と見えますが、ハテ流行りというものは妙でげすなぁ」
というやり取りだが、おわかりいただけだであろうか?
薩摩芋は「薩摩藩」のこと、お萩は「長州藩」、鍋は「佐賀藩」(藩主の名前が鍋島)、土佐ぶしは「土佐藩」。仙台平は「伊達藩」(絹織物の一種)、博多地は「黒田藩」。つまり、店の商品について話しているふうを装って、実は政府が出身藩を基準に人間を登用している……ということを皮肉った風刺画なのである。当時の世相を知ってないとまずわからないし、知っていたとして絵を見てパッとわかるようなものではない。どうしてこんなふうにわかりづらく作っていたのか、というとあまりにもはっきり描いてしまうと逮捕されてしまうからだった。風刺漫画はそれくらい危ない綱渡りの仕事だった。
こんな『団団珍聞』を少年時代から読んでいた、というのが宮武外骨だった。いつか自分も『団団珍聞』のような雑誌を作る、いや、それを越えてやる……それが宮武外骨の夢であった。
明治20(1887)年、宮武外骨は最初の雑誌『頓知協会雑誌』を創刊する。これがスマッシュヒットを飛ばし、宮武外骨は20歳にして財を築くことになる。
ところが明治23(1890)年、宮武外骨は逮捕されてしまう。天皇を揶揄した風刺漫画を大量に描いたために「不敬罪」を問われ、禁固3年・罰金百円の刑が下った(当時は天皇権威がまさに作られようとしていた時代で、現代のような天皇にまつわるタブーもなかった)。発行人や印刷人も同じく逮捕され、罰金と禁固刑が下される。
しかしそれが逆に宮武外骨の反骨精神を刺激することになる。明治34(1901)年、禁固刑を終えた宮武外骨はさらなる過激な風刺雑誌『滑稽新聞』を大坂で創刊する。これがまたしても大ヒット。明治末期の漫画雑誌ブームの火付け役となった。
映画では北沢楽天が宮武外骨と直接会い、強烈な影響を受けた……ということになっている。
実際に北沢楽天と宮武外骨が会ったかどうかは定かではないが、北沢楽天は間違いなく『滑稽新聞』に刺激を受け、大坂まで出向いて売れ行きや内容の調査をしている。
そして明治38(1905)年4月『東京パック』を創刊。全ページ漫画・全ページ多色刷りという、当時としては画期的な雑誌だった。『パック』の誌名は恩師であるナンキベルが編集長をしていた雑誌から採られている。『東京パック』は高い評判を呼び、国内でヒットしただけではなく、英語と中国語でも併記されており、朝鮮半島、中国、台湾でも出版された。
(ちなみに、北沢楽天が鈴木いのと結婚したのはこの年。1905年。映画は実際よりも結婚の時期を早くしている)
明治45(1912)年、社主である中村弥二郎が会社経営に失敗し、『東京パック』は廃刊することになる。その後、北沢楽天が後を引き継いで『楽天パック』を創刊するが、わずか1年後には廃刊。
『東京パック』『楽天パック』が終刊した後、楽天は再び『時事新報』に戻り、漫画活動を再開する。『とんだはね子嬢』の連載が始まったのはこの頃である。
しかしやがて漫画が色んなところに掲載されるようになり、いろんな雑誌でいろんな人気作家が生まれ、北沢楽天人気も陰りが出始める。1932年、『時事新報』の日曜漫画版が終刊とともに楽天は時事新報社を退社し、漫画の世界から退くようになった。
岡本一平とニアミス
間もなく北沢楽天と双璧をなす人気作家が登場する(この2人が実際に会ったかどうかはわからないが……)。それが岡本一平である。大正元年(1912年)岡本一平は朝日新聞に入社する。
その経緯が少し変わっている。岡本一平はもともとは和田英作のもとで助手をやっていたが、幼馴染みの名取春仙が風邪である仕事を休まなくてはならないから代わってくれという申し出を受けた。それが夏目漱石の小説挿絵であった。その挿絵をたまたま見ていた渋川玄耳という人が、岡本一平を朝日新聞に入社させたのだった。
岡本一平の挿絵は、ただ情景を描くだけではなく、そこに一文を添えていた。それが詩的センスが高いとして、夏目漱石も気に入り、採用することにした。岡本一平の文章付き漫画スタイルは「漫画漫文」と呼ばれることになった。「絵物語漫画」の始祖のようなもので、この流れは手塚治虫出現まで主流となっていく。
明治の人気作家である夏目漱石との関係性はよく、夏目漱石と岡本一平の名前はセットになって一気にのし上がっていく。
大正6年、岡本一平は児童雑誌『良友』に『珍助絵物語』の連載を始める。これまでなかった子供漫画の分野に、起承転結のあるストーリー性が導入された。この漫画は岡本一平の代表作となった。
さらなる代表作が大正10(1921)年に生まれる。『人の一生』というタイトルの漫画で、この作品は昭和4(1929)年まで続く大長編となった。主人公・唯野人成(ただのひとなり)というごく普通の男の人生を、誕生から描き、少年期、職業遍歴、結婚、就職、子育て、出産までのまさしく人の一生をじっくりと書いた作品であった。
映画中でも説明されているとおり、岡本一平の息子が芸術家の岡本太郎だ。
戦時中の漫画事情と戦後
いよいよ戦争が激化していこうというとき、国民もその歩調に合わせて全員で一方向を向くべし……という風潮が熱くなってくる。
昭和15(1940)年、近衛新体制運動を契機に、政党・労働団体が解体し、再結集しようとしていた。漫画家もこうした時流に合わせて団結しようという動きも現れていた。この頃結集した団体に「新日本漫画協会」というものがある。
その2年後である昭和17(1942)年、北沢楽天を会長とする「日本漫画奉公会」が結成。映画中では漫画家達はまばらにしかいなかったが、実際には会員90名を抱える団体だった。当時の漫画家の総数はおそらく100人程度だろうとされているので、ほとんどの漫画家が参戦しているような状況だった。
ここから漫画家達が「報道班員」として各戦地へと送られていくようになる。日本漫画奉公会の会員であっても、戦争が激化していくと兵隊として召集される者が出てきて、日本の漫画家はどんどん数を減らしていった。中には疎開できなかったから、しかたなく東京にとどまって、いやいや翼賛漫画を描いていた……という漫画家もいた。
その一方で起きつつあった潮流が左翼漫画・プロレタリア漫画という一団だった。この時代は普通の娯楽漫画を描いても「不謹慎だ」といろいろ言われる時代で、漫画家の仕事は翼賛漫画を描くか、反体制漫画を描くかしかなかった。
映画中の懇談会の様子である。北沢楽天と向き合う3人の表情は暗い。政府の意向で無理矢理漫画を描かされる不満、すでに一線を退いている北沢楽天の下で書かなければならない不満、なによりずっと「反政府」を掲げて風刺漫画を描いていた北沢楽天が、この期に及んで体制側漫画を描くとは何事か……みたいな不満。
しかもこの3人は北沢楽天の最大のライバル岡本一平の門下生達である。この当時の楽天に対する漫画家達の感情は今となってはわからないが、映画中では不満たっぷりに描かれる。
杉浦幸雄の作品『銃後のハナ子さん』がこちら。主人公は当時の人気女優、轟夕起子をモデルとしている。この作品は戦時中に連載が始まり、昭和29(1954)年まで続いた。戦時中をまたいで作品が続いた数少ない事例である。
近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄にさらに矢崎茂を加えた4人は「新漫画派集団」と自称するグループを作り、当時世界的に流行していたナンセンス漫画という風刺漫画を開拓し、グループでマスコミに売り込み、昭和初期時代の漫画界の主流になっていく。
こうして間もなく戦争は終結する。しかし戦時中に多くの漫画家が兵役として応酬され、戦地で消息を絶ち、あるいは空襲で死に、出版社も印刷所も燃えてなくなってしまった。漫画文化は戦争を挟んでまっさらな状態になっていた。
そんなまっさらな土地に、神戸の若者が一冊の漫画を発表する。それが手塚治虫の『新宝島』だった。赤本漫画『新宝島』は戦後の貧しい時代であるのに関わらず、40万部の大ヒットを飛ばし、手塚治虫の漫画人生が始まることになる。
映画では最後に北沢楽天がこの『新宝島』を手に取るところで終わる。北沢楽天が『新宝島』を数ページめくったところで、パッと風が巻き起こって帽子が吹き飛ぶ。いうまでもなく「脱帽」という意味だ。漫画は戦争という災厄を乗り越えて、新たな局面を迎えようとしていた。
映画の感想文
明治、大正、昭和の漫画業界の実情を描いた『漫画誕生』。映画の内容に合わせて、私もこの時代の漫画事情をできるかぎり詳しく書き出してみることにした。こちらを読んでからもう一度映画を観れば、より楽しく見られることだろう。
それで、『漫画誕生』は映画としてどうなのだろうか? 実を言うとあまり面白いものではなかった。
というのも、どのシーンも舞台が小さい。空間の広がりがまったく感じられない。まず俳優を構図の中心において、カメラがその反対側に回ることがない。なぜカメラが反対側に回らないのか、というとセットの反対側が作られていないからだ。それだけ厳しい予算の中、どうにかこうにか作った作品……というのがわかってくる。
どのシーンも狭いセットの中でカメラがちょっと右を向いたり左を向いたりするだけ……。なんてスケールの小さな映画なのだろうか。
福沢諭吉邸へ行くシーンで、わざわざ表札がクローズアップされるが、あれはテレビドラマの描き方だ。妻である鈴木いのとのロマンスを描いたシーンも安っぽく、テレビドラマ的。どこのシーンを見ても、画がいいとはぜんぜん思えない。北沢楽天のキャラクターが動き出すアニメシーンがあるが、これがクオリティが低く、最近のテレビアニメの水準にすら達していない。フランスに招待されるシーンは舞台劇風になっていて、「いったい何を見せられているんだ」という気分になる。とにかくも予算がまったくないなか、どうにかやりくりして作られたんだろうな……ということだけは推察できる。
この時代のいろんな漫画家達が登場し、北沢楽天とすれ違うが、それが物語的なアンサンブルを作ることはなく、ただ次々と顔を見せるだけで終わっている。
『漫画誕生』を見ていて「映画を観た」という感慨はまったくなかった。とにかく燃やすっぽく小さい映画だった。
ではどこでこの映画を楽しむのか、というと私の場合「お勉強」のつもりで見ることにした。これまで明治の漫画に関する本は何冊か読んできたものの、実際どんなものかよく知らなかった。『田吾作と杢兵衛』が新聞の1ページを使っていてしかもカラーだったことなんて知らなかったし、当時の「雑誌」と呼ばれているものが数ページのぺらぺらのもので、しかも路上販売だった、というのも初めて知った。明治時代にはまだ「本屋」というものがそれほどなく、編集スタッフが手売りでやっていた、という様子も驚きだ。漫画の道具も、どういった環境で描かれていたのか、ということも含めて、この映画には学びは多い。
唯一映画的と思えるポイントは、作家としての北沢楽天を掘り下げたこと。北沢楽天はその時々に合わせて漫画を描いていた。アメリカで『イエローキッド』が大ヒットしていると聞くとそれを取り寄せて研究し、自分の漫画を取り入れている。大坂で過激な風刺新聞『滑稽漫画』が大ヒットしていると聞くと、それを取り寄せて研究し、自分の漫画に取り入れている。後に国が「翼賛漫画を描け」と命令されれば言われたとおりのものを描く。時流に合わせて変化自在に描いてきたのが北沢楽天だった。
それがあるとき、「自分が本当に描きたいものは何か?」と問われたとき、何も描けない。描いたところで風刺漫画を描いていたときのような尖ったものが出てこない。「時流」がなければ何も描けない……“作家として自分”がないことを露呈させてしまう。そのことに気付いてしまう老齢期の物語は印象深い。
「絵描きとしての才能」と「芸術家としての才能」は別モノなのだ。技術が優れていても、芸術家としてのメッセージ性を作品に打ち出せるかどうかは、話が別。北沢楽天は腕前はよかったが最後まで「自分のテーマ」を持ち得ない作家だった。それが映画の中で指摘されているのは面白い。
(「絵描きとしての才能」を持ちながら、「自分のテーマ」を持たない絵描き……というのは世の中に一杯いる。絵描きの世界とは実はそういうものなのだ。むしろ「自分のテーマ」がない絵描きのほうがこだわりがないので、「興味を持ったらなんでも描く」作家になりやすい。もしも絵描きで「自分のテーマがない」という自覚があるならば、自分でストーリーを作ったりせず、誰かに乞われて描く……というやり方を採っていったほうがいいだろう。それも選択肢の一つだ)
映画としてはあまり評価できない作品だが、明治の漫画がどのような様子だったのか、それを知る機会として、いいものを見たな……という気持ちを持つことができた。明治漫画がどういった様子だったのか、それを知る教材としてはいい作品だったように思える。
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