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映画感想 ゴジラ-1.0

 『ゴジラ-1.0』は2023年11月公開の映画。監督はVFXクリエイター出身の山崎貴。初代『ゴジラ』よりもさらに前の時代である、「終戦直後」を舞台にした初めてのゴジラ映画だ。戦争が終わり、いよいよ復興……という時代にゴジラが出現し、徹底的にどん底へ叩き落とす、という物語になっている。
 本作は第96回米国アカデミー賞で視覚効果賞を受賞。米国アカデミー賞で視覚効果賞を受賞するのは日本映画として初。アジア映画としても初。監督が同時に視覚効果賞を受賞したのは『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリック以来。映画史上に残る快挙となった。
 視覚効果で話題にもなったが、本作の優れたポイントはやはりシナリオ。映画批評集積サイトRotten tomatoでは180件の批評家レビューがあり、98%が肯定評価。オーディエンスコア98%とかなり高い評価。物語も高く評価されたのだ。
 興行収入は12月の時点で世界興行収入100億円を突破。日本のみならず、アメリカ、中国その他の国でも大ヒット。現在でも興行は続いているので、記録はまだまだ伸び続けるはずだ。

 それでは前半のストーリーを見てみよう。


 1945年。終戦間際の大戸島飛行場。そこに一機の零戦が爆弾を抱えたまま着陸してきた。パイロットである敷島浩一少尉は「故障だ」と言い張るが、整備員達がどんなに再点検をしても異常は見つからない。逃げてきたのでは……そう囁かれていた。
 その夜。大戸島に“何か”が襲来してきた。まさか米国の新兵器が……。見張り当直の整備員が“何か”に照明を向ける。そこにいたのは――見たこともない巨大な怪物だった。大戸島に伝わる伝説の怪物・ゴジラだった。
 整備員達は大慌てで塹壕の中へと飛び込む。
 整備員の橘は敷島に、「零戦の機銃であの怪物を撃つんだ!」と進言する。あの機銃であれば、怪物は倒せるかも知れない。敷島は夜の闇に紛れて零戦のもとまで進み、機銃のトリガーに指をかけるが――目の前に現れたゴジラに恐怖して、手が震えてしまう。
 そうしているうちに、ゴジラは整備員たちに次々と襲いかかり、あっという間にその場にいた全員を殺してしまうのだった。
 間もなく戦争が終わる。敷島は死なせてしまった大戸島の整備員達のことを心残りに思いながら帰国するのだった。
 帰国し、自宅へ戻るが、そこは焼け野原だった。父も母も空襲でこの世を去っていた。隣家の太田澄子からは、「あんた特攻に行ったんじゃ……この恥知らず! あんたたち軍人が腑抜けのせいで、この有様だよ!」と罵るのだった。
 生きて戻ってきても、何も残されてなかった……。敷島は愕然としながら、焼け野原で無気力な日々を過ごす。するとある日、闇市で「このこそ泥が!」と声が。赤ちゃんを抱いた女が人々をかき分けて走ってくる。敷島はとっさにその女の前に立ちはだかるが「お願い!」と赤ちゃんを託されてしまう。
 しばらくして戻ってきた女・大石典子はそのまま敷島の家に住み着いてしまい、一緒の生活が始まってしまった。
 その後も生活のためのささやかな仕事を続けてきた敷島だったが、ある時復員省お墨付きの仕事を得る。支度金だけで3000円。破格の仕事あった。ただその仕事というのは、海にまかれた機雷を処理する……という仕事。給料が高額なのは、「命の保証のない仕事」だったからだ。
 行ってみると船は木製のボロ船。乗組員は元海軍兵だった秋津淸治、その弟子の水島四郎、元海軍技術士官の野田建治。心許ない装備と人員で機雷掃除の仕事は始まったのだが、この仕事は思いのほかうまく行き、敷島はそれなりにまとまった収入を得るのだった。


 敷島が機雷掃除の仕事でそこそこの小金を得て、家を建てるまでが25分。だいたいここまでが前半パート。
 細かいところを見ていこう。

 大戸島の海軍分遣隊のもとに、一機の零戦が爆弾を抱えたまま戻ってきてしまう……という場面から映画は始まる。
 なぜ大戸島なのか、はもはや説明不要かと思われるが、初代『ゴジラ』で最初にゴジラが発見された場所であり、そもそも「ゴジラ」という名前も大戸島伝承の怪物……という設定で始まっていた。大戸島はゴジラにとっての「始まりの場」だった。

 その最初のゴジラ登場シーンがこちら。小さい!
 この時点では、いわゆる「怪獣王ゴジラ」ではなく、まだ大戸島という一地方に伝わる「民話上の怪物」でしかなかった。この時点であれば、もしかしたら、ひょっとしたら20ミリ機銃で倒せたかも知れない(知らんけど)。
 やっぱりイグアナが原型じゃなかったんだ~🤭
 日本のみならず、世界にはこういう「民話上の怪物」伝承は山ほど残っている。猩々や土蜘蛛や巨大ムカデの伝説……。アイルランドの民話をつぶさに調べると、ドラゴンの大きさはせいぜい3~4メートル。火を吐くこともなければ、空を飛ぶこともなかった。3メートル前後なら、コモドオオトカゲの少しでかいやつでもあり得る。現代の映像メディアの世界では怪物はやたらと巨大に描かれ、生物としてあり得ない性質を持つものだが、実際の民話を掘り下げると怪物のサイズは2~3メートルといったところだし、特徴ももっと地味で平凡なもの。これくらいのサイズならまったくの非現実的な話というほどのものではなく、遙かな昔、そういう巨大生物と人類は遭遇していたのではないか……と私は考えている。
 ゴジラも、もともとはそういう「民話上の怪物だったのではないか」という視点で描かれている。体格も小さく、放射能熱線を吐いたりもしない。怪獣王として尾ひれが付く前の存在だ。こういう民話上の怪物であれば、もしかしたら20ミリ機銃で倒せていたかも知れない……。
 しかし敷島は恐怖に捕らわれて、機銃を撃つことができず、大戸島にいた整備員達を全滅させてしまう。これが大きなトラウマとして残ってしまう。

 結局なにもしないまま、戦争が終わってしまい、帰国。実家に戻るとそこは焼け野原。両親は空襲でこの世を去っていた。
 なにもできないまま戦争が終わってしまった……。「僕にとっての戦争はまだ終わってない」――そんな引っかかりを日々感じながら、戦後の生活を始めるのだった。

 そんな停滞していた敷島のもとに、女と赤ちゃんが転がり込んでくる。大石典子と秋子だった。この二人との生活を続けていくうちに、敷島は精神的に回復していく。


 しかし1946年。ビキニ環礁で水爆実験が始まる。この放射能を浴びて、ゴジラは「民話上の怪物」から「怪獣王」へと強制的に格上げされてしまう。ゴジラとしても怪獣王への格上げは理不尽なものでしかなく、その怒りは人類へと向けられる。

 敷島は典子と生活するようになって、精神的に立ち直り、「大戸島の事件ももう忘れてもいいか」と思い始めるのだが――そんなわけにはいかない。ゴジラが銀座を襲撃する。まるで「俺たちを忘れるな!」と叱咤でもしているようだった。
 ゴジラのサイズは50メートル。初代ゴジラと同じサイズ。怪獣の大きさは、その時代の高層建築から少し頭が出るくらい、が最適。この時代観を考えるとちょうどいいサイズ。『シン・ゴジラ』は現代で超高層ビルが建っている時代なので、100メートルという設定だった。

 お気に入りのシーン。ゴジラが地面を踏み込んだ時、アスファルトがバンッとめくれ上がり、それに巻き込まれた人々が吹っ飛んでいる。こういう表現は初めて見た。

 ゴジラが日劇を破壊し、その様子を見ながらアナウンサーが実況する……という場面。
 なんだか妙な場面だな……という気がした。本当かどうか、確度の低い情報だけど、初代『ゴジラ』の時も日劇は登場していたのだが、しかし日劇は映画のオーナーであるから「破壊してはならん!」というお達しが出たので、出てくるけれど破壊できなかった建築物だったという。ゴジラはその時代のものをなんでも破壊できる存在ではなく、ちゃんと「大人の事情」を考慮して破壊するものを選んでるいのだ。
 そんな事情もあり、70年越しに「日劇破壊できました!」ということで、わざわざ強調されたんだとか……。これ本当?


 ゴジラの破壊によって銀座が崩壊……。その場面を前にして、愕然とする敷島。

 ここから以降、敷島の顔がずっとこれ。顔にまったく照明が当たらなくなる。敷島は戦争の時、ずっと逃げてきて、その結果「トラウマ」を抱えてしまう。ここにきて、ようやく覚悟が決まった顔になる。

 ゴジラ銀座襲撃を受けて、元海軍兵たちが終結する。GHQはソ連を刺激したくないという理由で軍隊を動かさない。当時の日本は軍隊を所有していないから、元軍人達が集まって、民間の力だけでゴジラ討伐計画が始まる。
 という場面だが、元軍人達の表情が妙に暗い。銀座崩壊を目の当たりにしたから……というのもあるが、ここに集まった元軍人達もみんな戦争に心残りを抱えている。国のために何かしたかった。しかし結局なにもしないまま、なにもできないまま、戦争の方が先に終わってしまった。みんな敷島と同じ心残りを抱えていた。ゴジラという最大の脅威と戦わねばならない、というプレッシャーはあるが、同時に心残りを解消できるチャンスだ! という思いもあった。

 最後に出てくるのは「震電」。
 震電の開発が始まったのは戦時中の1943年。零戦の機動力の高さは圧倒的だったが、戦時中の最中でも各国も新兵器開発を進め、さらに零戦も研究されまくっていたので、零戦はあっという間に時代遅れ。帝国軍は次なる戦闘機の開発を必要としていた。
 そういう流れを受けて、エンジンとプロペラを戦闘機後方へ移し、主翼をよりコンパクトにして機動力を高めた震電が開発された。
 その震電1号機が完成したのは1945年6月。テスト飛行では最大速度400ノット。スピードだけではなく機動力も随一の最強のマシンが完成した。
 が、1号機完成が1945年6月、という日付を見て「あっ」となったと思うが、実戦配備されることはなかった。その2ヶ月後に終戦である。量産されたかどうかも、よくわからない。
 どうして最後に唐突に震電が出てきたのか。ミリタリーマニアへ向けたアピールなのか。そうではなく、震電もまた戦争に心残りを抱えていたから。震電は「最強の戦闘機」として生み出されたはずなのに、戦争の方が先に終わってしまった。「俺の戦争はまだ終わってない……」震電は人ではないので喋ることはないが、もしも喋ったらこう言ったかも知れない。
 戦争に心残りを抱えた元特攻隊員が、戦争に出ることもなかった震電に乗って、自分たちの戦争を終わらせるために飛び立つ。これが映画のクライマックスとなっている。

 ゴジラは「怪獣」というより、「怨霊」である……と初代の頃から言われていた。復興に湧き上がる銀座を破壊し、国会議事堂を破壊し、皇居の前までやってくると急に方向を変えて海へと戻っていく……。こういう姿を見て「ゴジラは死んでいった日本兵の怨霊ではないか」……みたいな説は昔から言われていた。夜に現れる……という特徴も幽霊を思わせるものだった(大戸島の出現シーンでは昼間だったけど)
 今作におけるゴジラは、その通りに描かれている。ゴジラは死んでいった人たちの無念が集積した存在。あるいは死ぬはずなのに生き残ってしまった人たちによる、「心残り」の集積が作り上げた。
 そんな存在であるからこそ、生き残った軍人達がそれぞれで「自分たちの戦争」を終わらせるために、ゴジラ討伐に邁進していく。ゴジラ討伐は人々のためなのはもちろんだが、自分たちの心残りを解消させるため、そして死んでいった仲間達の怨霊を鎮めるため。
 ゴジラを討伐したとき、軍人達がゴジラに敬礼を送るのは、やはりゴジラの向こうに仲間達の霊魂を見たからだろう。安らかに眠れよ……台詞があったら、そんなふうに言ったかも知れない。


 ここからは映画の感想文。

 まず言うべきは、見事な作品だった……ということ。
 良かった第1のポイントは終戦直後、という今まで描かれなかった年代を舞台にしたこと。この年代を舞台にしたことで第1作目の精神を深化させた。第1作目の公開は1945年で、終戦から9年目……まだ戦争の残滓があちこちに残り、そんななかどうにかこうにか復興しかけた……というところでゴジラが出現し、“終戦直後”に逆戻りさせてしまう。そんなどうしようもなく理不尽で不条理な存在こそがゴジラだった。
 今作は終戦1年目でゴジラが来てしまったら……というシミュレーションをやっている。まだ復興も始まってない状態で、“ゼロ”ではなく“マイナス”のどん底に落とす。この絶望感こそがゴジラそのもの。ある意味で1作目のリメイクであり、1作目が持っていた絶望感をより深めてくれた。初めて1作目と真面目に向き合ったゴジラ……といえる作品となった。

 次に良かったポイントは、人間のドラマにしたこと。
 これまでのゴジラは、「ゴジラ対人間」という構図だった。ゴジラという脅威に対し、どうするか……だいたいのゴジラはこのお話しだったように思える。
 しかし今作では前半1時間はがっつり人間のドラマ。敷島浩一という人間が、どのように戦争のトラウマを抱え、そのトラウマをどう乗り越えようとしたのか。前半50分のストーリーでトラウマを抱えた状態から回復の切っ掛けを掴み――そしてゴジラ出現によって再びどん底に落とされる。
 そこから後半戦ゴジラ討伐の展開へ入っていくが、その切っ掛けが自身のトラウマとどのように向き合うか……というドラマとうまくリンクしている。トラウマを乗り越えるためには、ゴジラを倒さねばならない――その理由付けがバッチリうまくいっている。
 この物語設計が良かったのは、この人間の物語、感情の経緯や理屈付けが誰にでもわかりやすい作りになっていること。「誰にでもわかりやすい」というのは、日本人だけ、ではなく「世界中の誰が見てもすぐに共感できる物語」になっていること。つまり、世界中のどこで公開しても評価される作品になっている。
 庵野秀明『シン・ゴジラ』の弱点はここで、『シン・ゴジラ』も見事な作品なのだけど、それぞれの人物の背景がまったく見えてこない。情緒もまったく描いていない(そこが良い、というのはあるけど)。日本人なら察せられる部分はたくさんあるのだけど、海外に持っていても理解されるか……というと難しい。ついでにいうと、過去のゴジラ映画はどれも「誰が見てもわかる作品か」というと、そういうわけではない。
 『ゴジラ-0.1』が良かったのはまさにここ。世界中の誰が見ても共感できるドラマがあること。誰でも共感できる物語でありながら、安っぽくもなっていない。人間のドラマが、ゴジラが持っているテーマとしっかりリンクしている。それが最終局面できちんと収束するように作られていて、ゴジラ史上初、「感動できるゴジラ映画」になっている。

 第3のポイントは“見せ方”。今まで見たことのないシチュエーション作りに挑戦している。
 ゴジラはこれまで70作も作られてきたわけで、そうするとどうしても似たようなシーン・展開が多くなってくる。平成以降はどこか「過去作の焼き直し」のようになっていく。あまり詳しくない人からも「どうせ“ありきたりなゴジラ映画”でしょ」と言われるようになっていた。
 『シン・ゴジラ』の時点で「誰も見たことのないゴジラ」に成功していたのだけど、『ゴジラ-0.1』でも同じように「これは見たことがない」と言えるものを描いている。例えばボロ船でゴジラに追いかけられるシーン。あんな絶望感溢れる構図はそうそうない。
 銀座襲撃は第1作目のリメイクだけど、ゴジラが地面を踏み込んだ時に、アスファルトがめくれあがる瞬間とか、そういう細かいところでも「見たことがない」シーン作りだらけ。ゴジラの放射能熱線の後、黒い雨が降り始めるところは、そういえば今までのゴジラ映画で描かれなかったもの。
 そして重要なポイントは、そんなシーンの数々を、驚くほどの低予算で、信じられないくらいの少人数で制作したこと(予算全額でもたったの15億円)。エンドクレジットを見ても、VFXスタッフが少ない。「本当にこれだけ?」という人数。
 あんな少人数でこれだけのスケールを制作した……というのはハリウッドで大予算をかけて映画を作っている人々から見るとショックな話。本職が見ると「そんなバカな」となる。だからこそ米国アカデミー賞受賞に繋がっている。
 もう一つ、アカデミー賞も受賞できたのは、こういうVFXシーンが「物語」とうまく結びついていたこと。よくあるVFX使いまくりハリウッド大作って、物語と特撮シーンが分離している……というのはよくある。アクション映画でも、アクションを見せるために無理矢理シチュエーションを作っている……ということもよくある。しかし『ゴジラ-0.1』は物語必然性がある。人間のドラマとVFXシーンがうまく絡みついている。この物語があるからこそ、VFXシーンに情緒を感じられる。『ゴジラ-0.1』がアカデミー賞を獲得できたのは、この2点。小さな予算で大きな仕事を成し遂げたこと。ドラマとVFXが結びついていたこと。これが見事だったからの評価だった。

 しかし実は見せ方について、2箇所引っかかるポイントがあった。
 1つめは、「近景」「遠景」の間の「中景」がほとんどなかったこと。

近景
遠景

 この間を埋める、中間のカットがない。中景カットがないから、人間が演じているシーンは狭いセットの中でやっているんだな……という印象になってしまっている。近景と遠景が違う都合で撮影されている……というのが見えてしまう。
 遠景になると画角がやたらと広くなるし、カメラのスピードも速くなる。しかし近景になると、急にカメラの動きも悪くなる。撮影シーンとCGシーンがあまりにもわかりやすく分かれている。この近景と遠景がうまく繋がってくれれば……それができなかったのが惜しい。

 もう一つの引っかかりは絶妙に「ミニチュア」っぽく見えてしまっていたこと。
 モデリング自体に問題はなかったのだから、最終処理で何か踏ん張れないものがあったのかな。
 この2点さえ解消できていたら、作品評価はもっと上がったはず。惜しかったポイントだった。
 こういうところでクオリティ面の引っかかりはあるものの、しかしあの人数で、あの予算だけでここまで作り上げた。粗は見ようと思えば見える。しかし「小さな予算で大きな仕事」。これを達成できているからこそ、同業者からも称賛される内容になっている。


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