映画感想 たまこラブストーリー
2月4日視聴!
そういえば『たまこラブストーリー』って見てなかったな。Netflixにはないわけだけど、Amazon Prime Videoには……あった! しかも無料だ!
というわけで視聴。
制作年度は2014年だから、今から6年前。州崎綾がもっとも美少女キャラをやっていた頃だ。もうそんなに時間が経ってたか……。
まず、テレビシリーズ版である『たまこまーけっと』という作品について。『たまこまーけっと』は山田尚子監督の前作である『けいおん!』を延長した作品であり、その当時の批判に対するアンサーでもある。
『けいおん!』でよく言われたことだが、女の子達の出自がよくわからない。背景となる世界観を感じさせず、ぼんやり虚ろに浮かび上がっているように感じられる……。
美少女キャラクターとは得てしてそういうもの、それ自体で幻想を表現するものだが、しかし批評家は“リアリティ”を求める。『けいおん!』は風景自体は非常に精密で現実感が感じられるのに、出てくる女の子たちは外部にあるべきネガティブな世界から完全に遮断されている。特に「男性が存在しない世界観」……今だったらいわゆる「『まんがタイムきらら』系の作品には男性がいない」ことはデフォルトとして受け止められるのだが、『けいおん!』時代にはまだ見る側の意識がそこまで進んでおらず、男性という女の子達のコミュニティ外から接触してくる存在がいないことに違和感があると言われてきた。
「あの女の子達はなぜ恋愛しないのか? それはリアリティに欠けるのではないか」と。
女の子が恋愛をすればリアリティがあるといえるのか、どうして恋愛にそこまで価値を置こうとするのか。この考え方自体恋愛に価値を置きすぎている現代人の「捕らわれ」が見て取れるのだけど、それはさておきだ(この話を進めると現代社会について、という話になってしまう)。
『たまこまーけっと』は『けいおん!』の延長であるから、まず「商店街」という世界観を作り、その商店の人物を「キャラクター」として確立させ、主人公の周辺社会を充実させた。批評家達は常に「リアリティ=良い」という視点で語りがちだが、『たまこまーけっと』はそこから逸らして、あくまでも漫画的な世界観としての成立を目指した。「リアリティ=良い」という批評に対するカウンターだ(そこまで意識していたかは不明だが)。主人公の美少女を周辺世界から隔絶された、亡霊のような存在ではなく、周辺世界と出自を持った人間として描く。ただしリアリティを持って描くのではなく、あくまでも漫画のキャラクターとしての成立を目指していた。その結果として、あの商店街そのものが孤立した一つの小宇宙のようになり、主人公にとっての家族的空間を作ることになる。
面白く感じる風呂屋で、北白川たまこにしても大路もち蔵にしても家にどうやら風呂がないらしい。今時の家であるのにかかわらず。それで毎晩風呂屋に通う。現代は一つの家で居間も風呂も個室も全部あるからそこだけで一つの社会が作られ、外部と切り離されるのだが、「風呂がない」というだけで家の外から出なくてはならないし、それで外部世界との交流ができるし、かつその世界観も活きてくる。漫画の話とはいえ、社会とは本来こうあるべきじゃないか……と考えさせられてしまう。
それから主人公である美少女に「恋愛」をさせる。
北白川たまこは喋っている最中でも、自分が気になることがあるとすぐにそちらのほうへ気を取られて、本題がなんだったか忘れてしまう。この特徴は、『けいおん!』主人公平沢唯だ。北白川たまこは平沢唯のヴァリアントだ。
『まんがタイムきらら』系作品ではこういうのんびりした不思議キャラはどこの漫画にも偏在しているキャラクターではあるが(1作品に必ず1人いると言ってもいい)、この女の子にどうすれば恋愛させられるのか。
恋愛に対する意識はそれこそ平沢唯と変わらない。「恋愛」という意識が本人の内部にない。『まんがタイムきらら』系の恋愛の存在しない世界からやってきた異世界人のような“美少女”をいかにして恋愛をさせるのか。そもどうやって恋愛を意識させるのか――。その組み立てを丁寧に作ったのがこの劇場版『たまこラブストーリー』だ。
テレビシリーズ『たまこまーけっと』の難点はその途上から「物語」が抜け落ちてしまったこと。世界観とキャラクターの提示があり、そこからどんな物語・ドラマが生まれるか――というと特に物語が生まれなかった。あの舞台だからあり得る物語や、シリーズを通して生まれてくるドラマといったものが何もなかった。単にエピソードを消費し、そのうち終わってしまった。
引っ掛かりがあったのは喋る鳥ことデラ・モチマッヅィの存在。あのキャラクターの存在が作品をより漫画的に、抽象度を高める切っ掛けを作ったのだが……正直なところいらなかったな……と。
確かに漫画的に作られた世界観があったはあったが、背景は実在の風景を参照にして作られ、非常に精密なものだった。その上に喋る鳥の存在は抽象度を混乱させる原因になっていたように感じられた。さらにいうと、喋る鳥の存在が物語ないしドラマに強烈なインパクトを与えたかというとそうでもない。今回劇場版『たまこラブストーリー』を見て思うのは、やっぱりいらなかった存在だったな……と。まず喋る鳥はあの物語の何にも作用していない。あの喋る鳥がいないおかげで、劇場版『たまこラブストーリー』は一定の抽象度を保てたと感じられる。
そろそろ劇場版『たまこラブストーリー』の感想文に入っていくが、まず映像について。どのシーンを見ても彩度が高く、焦点距離も短い。中心となる人物に焦点が合い、その周辺や背景がふわりとピントがぼやけるような作り方になっている。ちょっとトイカメラ的な……というと言い過ぎだが、それくらいの柔らかさで風景が作られている。
その上に彩度が低いから、不思議とカット一つ一つが閉じた世界観のように感じられ、その世界観を覗き込んでいる感覚がなんとも居心地が良い。どの画面を見ていて気持ちいい気がしてしまう。
作中にはコミカルな場面も結構あり、そういった場面では全体に焦点が合わせるようになってる。他にも様々な効果が使用されている。手ぶれ撮影風の揺れを入れたり……とかそこまで踏み込んでいくと1カット1カット説明していくことになってしまうので、省略しよう。
印象的な画の多い『たまこラブストーリー』だが、まずはお気に入りの場面から。始まって15分ほどのところで、北白川たまこが友人達とともに今後の進路について話し合う場面がある。対話台詞が背景にあり、それとはあまり関係のない女の子達の交流の場面が流れる。
こういった場面は『けいおん!』の劇場版にあったのだが、こういう画作りは非常にうまい。それこそ本当に女の子を市販のカメラで撮ったような画が出てくる。画面は暗かったりピントがきわどかったり、画面が揺れていたり……。そういった画面の中で、なんでもないふうに女の子が喋ったり歩いたりしている。これが妙に生っぽい。一見すると素人撮影の画みたいなものを、アニメで表現している。こういう画を出せてしまうのが山田尚子監督。私ではこういう画は絶対に描けない。
もう一つのお気に入りシーンは、40分ほどのところにあるシーン。北白川たまこが体育館で一人でバトンの練習をしているところに、常磐みどりがやってくる。
体育館の中、たった一人でバトンの練習をしているたまこの後ろ姿……。この画だけでも美しい。色はついているのだが彩度が高く、制服の紺色もほとんどモノトーンにしか感じられない。そういった中で、常磐みどりの髪が差し色のように感じられる。窓からは少しくすんだ白い光が差し込んでいて、それがなんとも美しく、静謐な空気を作り出している。
だだっ広い空間に、女の子が二人だけいる……という画が生み出すなんともいえないフェティッシュな空気。美少女が神聖な静謐さを作り出している。こういう画を生み出せる映画監督は少ない。なくはないけど物語の中に浮いてしまうことなく、ひとつのピースとして表現されている。ここまで見事な画が出てくる作品となると、そうそうあるものではない。
あまりにも良いシーンだったので、次のシーンに移る前にもう一度繰り返し観たくらいだったもの。それくらいに気に入ったシーンだった。
次は作画について。キャラクター作画は、さすが京都アニメーション。最強アニメーター集団を抱える我が国を代表するアニメスタジオである。どの絵も見事というしかない。
キャラクターについて語られる時、多くの人は「キャラの顔」だけで語りがちだが、京都アニメーションの良さは身体を含めた全てを見なければならない。何でもない皺の動きなどどれを見ても存在感があるし、それが動いている絵を見て心地よく感じられる。線の一つ一つに呼吸感が感じられる。そこまで生理を突き詰めてくるのが京アニ流だ。
北白川たまこはバトン部に所属していて、その意味をテレビシリーズ版ではよくわからなかったが、劇場版では色んなところでハッとさせられるシーンがあった。振り付けをしながらバトンを投げたりするわけだから、体重移動が多くなり、アニメのキャラクターなんてものは所詮紙に書かれたものに過ぎず「体重」なるものは存在しないわけだが、絵でその体重がしっかり移動している感じがあり、しかもフォロスルーがどんなときもふわりと軽やかに描かれる。バトンを持って踊り出すとアニメ的な快楽が一気に振り切れるような感覚がある。とにかくも動きが気持ちよく感じられる。もはやそういう効果を作るための仕立てとして考えられたのではないかと思ってしまうくらいだ。
ちょっと変なお気に入りシーンを挙げるが、ある場面で北白川たまこが教室で「イリュージョンの練習だよ」と片足を上げる場面がある。スカートが少しまくれて、白いふくらはぎがちらと見える。あの瞬間に感じるエロス! 制服が深い色だから、肌の白さがより際立っている!
堀口悠紀子キャラクターはとことん可愛らしさを突き詰めた絵なのだけど、身体の描き方は独特の存在感を持っている。アニメの絵というのは線と色を突き詰めて最小表現でかっこよさや可愛さを表現していくものなのだが、そのせいで実在感に欠けやすい。あんな少ない線数で、イラストのような贅沢な色を使わずどうやって実在感を表現するのか? それこそ線1本1本をいかにして突き詰めるか、にかかっている。1つの線にどんな意味を持たせるのか。この意識が明確で、かつきちんとした技術の裏打ちがあれば、これを実現できる。
京都アニメはこれがやっぱりよくできていて、あんな可愛らしい絵だけど、それに収まらず、実在感とエロスを表現できてしまっている。あのちらと見せるふくらはぎで、私は少しまいってしまった。こんなに表現できるものなのか……と。
抽象度について少し追求していくが、『たまこラブストーリー』では背景が実在に基づいた緻密な絵が作られ、その上に乗せられているフィルターの効果のおかげである種リアルな画として作られている。その上に、堀口悠紀子のあの目の大きなキャラクターが乗っている。これだと抽象度の混乱が起きないか?
それが抽象度の混乱はほとんどのシーンで起きていなかった。それはテレビシリーズ版よりも身体の表現や実在感のほうに振ったからだろう。キャラの描き方として、目鼻口のバランスを変えて「大人っぽくした」というだけの話ではなく、身体の表現。キャラクターは顔だけで作るものではない。あんな顔だけど、身体の表現と背景レイアウトとのうまい噛み合わせがあるから、全部がひと連なりになって見える。
しかし『たまこラブストーリー』は常にリアルな身体表現に振った絵が出てくるわけではない。たまこはもち蔵に愛の告白を聞かされた後、露骨に変な絵になる。その前後と慣例性のないコミカルな絵が出ててくるし、動きもコミカルになっていく。でもこういった場面はごく少なく、抽象度の崩壊を起こすほどの極端なことはやっていない。
やり方も巧みで、たまこがもち蔵からコロッケをもらうシーン、まず一つ前のカットで振り向き、踏み出す動きの体重移動の巧さ。次のカットでコロッケともらう(奪う?)のだが、もらった瞬間まではリアルな絵で表現され、カメラに対し正面を振り向いたところでコミカルな絵に変わる。これは実写でいうところの、一つのカット内で芝居の空気を変えていくようなシーン作りに相当する。その程度の抽象度の変化しか表現していない。だから破綻も少なく、むしろ「愉快なシーン」で止まっている。
引っ掛かりがあるとしたら件の川のシーンで、逃げ出すたまこの足がコミカルに表現される。キャラクターの描き方に問題があるのではなく、背景。背景の方がキャラクターのコミカルな動きの方に合わせられている。背景の方に演出が先走って入ってしまっているから、キャラクターの動きの面白さを奪ってしまっている。あの場面では背景も途中から入れ替えたほうがいい。
抽象度の揺れはあるのだが、全体から見るとごく浅く。抽象度の全体像が破綻するほど振っていない。一貫性が感じられる範囲内で愉快なシーンもシリアスなシーンも描いている。
そう考えると、抽象度を混乱させる喋る鳥はやっぱりいらなかったな……。
物語を見てみよう。
『たまこラブストーリー』の物語を要約すると、次のようになる。
①もち蔵「好きだ」
②たまこ、返事を保留する。
③たまこ「大好き」と返事をする。
以上。
まとめるとこれだけである。3行で終わる。4コマ漫画を作るまでもない。
1時間20分掛けてただこれだけのお話しかないのだが、これがあまりにも良く、見終わった後私はもう1回見返したくらい。もう参ってしまった。2回視聴して、2回ともラストで泣いてた。素晴らしい作品だった。
物語のポイントは、常磐みどりという女の子の存在。
北白川たまこは将来について漠然としかイメージしていない。卒業後の進路は「たまや」。それは決然とした意思を持って将来を決めているのではなく、今の自分や今の状況がその後も続くのだろう……という漠然とした意識でしかない。要するに「保留」であった。
常磐みどりも将来を決めかねている女の子だった。常磐みどりも今の状況や友人たちとの関係性がずっと続くと考えていて、ずっと続いていくよう立ち回ることすらあった。その関係性の大切な一部である北白川たまこを拘束したいと考えていた。
常磐みどりの北白川たまこへの気持ちというのはレズビアン的関係性とは違う。性的な感性ではない。友人としての関係性に固執し、離れたくないし変わりたくない……「友人同士」という状況そのものを求めている感じだ。
そんな常磐みどりにとって、大路もち蔵の存在は厄介者でしかない。もしももち蔵がたまこに告白してしまったら、常磐みどりと北白川たまこというべったりくっついた友人関係は崩壊してしまう。もち蔵は「美しい友情」を破壊する外部からの使者でしかなかった。
それはある意味、『まんがタイムきらら』系の愛好者たちが、外部からの使者である男性を拒否するのと似た感覚かも知れない。
それで常磐みどりは、やや挑発気味にもち蔵に対してこう言う。「いつ言うの?」と。
トイレ前でもち蔵と語り合うシーンだが、もち蔵が「東京の大学へ行く」と聞かされた時、常磐みどりは動揺しているし、鳥が飛び立つ画が挿入されている。たまことの関係を普遍ものとして続けたいと思っている一方、そういう関係にしがみついている自分に対する迷いみたいなものが常磐みどりにはあるわけだ。また周辺でうろうろしているもち蔵も、常磐みどりが今までたまこと接してきた人生の中で見続けた風景の一部のようなものだったのかも知れない。もち蔵も「たまこと自分」という風景を構成する一部だったのかも知れない。常磐みどりはもち蔵にもある程度の思い入れがあるが、しかしある種の「対立相手」でもあるから、挑発的な言い方で「いつ言うの」とけしかける。
それで自己嫌悪に常磐みどりは陥ってしまう。なんであんな言い方をしたんだろう……とか、きっと色々あるだろう。
その後常磐みどりはずっと浮かない顔を続ける。北白川たまこが「もちが苦手になった」みたいは話をする時、うつむいている。喋る時のトーンも落ちている。
『たまこラブストーリー』には北白川たまこと大路もち蔵の独白は一杯語られて内面が簡単にわかるように作られているのだが、常磐みどりだけが独白が一切ない。うつむいたり視線を逸らしたり声のトーンを落としたりしているのだが、他のキャラクターにフォローさせていない。気がつきにくいように演出されている。
あえて常磐みどりの独白を排除したおかげで、映画は北白川たまこと大路もち蔵という二人の物語に集中しやすい作品になっている。
でも実は常磐みどりが物語の進行役となっている。
常磐みどりが早朝の体育館でたまこと対話するシーン、話を聞きながらずっと視線を逸らし、うつむき、ゆるく眉を下げている。さらに常磐みどりのクローズアップが多くなる(たまこのクローズアップがぜんぜん出てこなくなる)。語っているのは北白川たまこだが、画が描写しているのは常磐みどりといった感じになっている。ここで常磐みどりの心象がわかるようになっている。
それで後に常磐みどりは他の友人達に打ち明けるように促すし、大路もち蔵に「見直した。それだけ」と譲歩を見せる。
そうした過程を経て、最後には休校で誰もいなくなった教室で北白川たまこと会うシーンで、「もち蔵が転校する」というウソを伝え、北白川たまこを焦らせ告白するように促している。
こう見ていくと、実は『たまこラブストーリー』の物語の牽引役が実は常磐みどりだった、ということがわかってくるだろう。
その常磐みどりは最後に牧野かんなの高所恐怖症の克服を手伝って終わる。関係がずっと続くことのみにこだわって、一歩踏み出そうとしている友人を妨害するのではなく、その背中を押す立場になる。友情のために友人を手放していく。結果として常磐みどりのもとから友人達は去って行くかも知れない。孤独になるかも知れない。その不安を乗り越えて、晴れやかな顔を見せたところで作品が終わる(ここも泣けるポイントだ)。
キャラクターを大切に描く、というのは京アニ作品の一つのポイントだ。基本的に「悪役」は作らない。
例えば『響けユーフォニアム』で10話で高坂麗奈と中瀬古香織のどちらがトランペットソロを演奏するかで揉めるシーン。吉川優子が感情的になって反対する。
この場面、吉川優子を悪役に描けば話はもっと簡単だったのだが、そのようには描かなかった。ずっと吉川優子にも同情の余地があるような描き方をしていた。こういう描き方をするのが京アニっぽいな……と思っていた。
『たまこラブストーリー』でも常磐みどりを悪役として描くことはできたはずだ。北白川たまこの恋愛を妨害する、厄介な友達ポジション……みたいにできたはずだ。エンターテインメント映画にするならば、そう描いた方が「わかりやすい」物語が作れたはずだ。よくある恋愛ものではそういうのをもっとわかりやすく描く。
でもそうはせず、常磐みどりの迷いと葛藤をずっと通低音のように描き続けた。結果的に大切な友人である北白川たまこを困惑させる原因を作ったが、しかし「悪意」を持ってそうしたんじゃないことがわかるように作っている。混乱をもたらしたが「悪役」ではない。そういう描き方が実にキャラクターを大切にする京アニ的。
映画の前面にはたまこともち蔵という恋愛劇を描く一方で、背景には常磐みどりの葛藤が乗り越える物語が描かれている。ずっと変わりたくない、成長したくない、終わりたくない……でも最後には“高校時代”そのものの終わりを受け入れていく。
こうやって描いているから、あらすじを書くと3行で終わるが実際にはテーマが重奏的になっている。背景となっている常磐みどりの独白が一切ないから、ノイズとして感じられない。『たまこラブストーリー』は全体を通して静謐感のある作品だから、語りすぎるのはよくない。語りすぎるとただの「解説」になる(実際、キャラクターが自分でキャラ解説をし始める作品は多い。物語を書くことに不得手な作家ほどこうしがちだ)。そこを作り手自身がわきまえて、抑えるところでしっかり抑えている。前面にあるのは漫画的なキャラクターのお話に見えるが、ドラマ作としての強さに繋がっている。ここが本当に良いと感じられたところだ。
「恋愛劇」の背景に「現状を変えたくない女の子のお話」がある。北白川たまこがそうだし、常磐みどりがそうだ。この二人は『まんがタイムきらら』的の関係性のようなものを表現している。「美少女キャラクター」が恋愛をするには、その関係性や世界観を破壊しなければならない。
「美少女キャラクター」に括弧付きで書いたのは、これは現実のお話ではなく、アニメのお話だから。現実ならさっさと恋愛して終わり。だが美少女キャラクターはいつのまにか「恋愛してはならず」というアイドルのような不文律が作られるようになった。「美少女キャラクター」という絶対の立場の破壊しなければならない。いかにすれば、破壊・変化の過程を物語として描くことができるのか。その変わっていく微妙な心理の過程を丁寧に丁寧に作り上げた作品だ……とも言える。
恋愛物語とすると、実はかなり不思議なことをしている。なぜなら最初から北白川たまこと大路もち蔵という1対1しかない。こんなに(例えば「身分違いの恋」のような)障害のない恋愛ドラマはそうそうない。常磐みどりというお邪魔キャラはいたが、常磐みどりは別に恋敵ではない。よくある恋愛ドラマは、一人の相手に対して複数の相手が取り合う展開が描かれ、最終的にはそれぞれ別の相手が登場し、それぞれで落ち着く……という結末になる。
ところが『たまこラブストーリー』は最初から最後まで1対1。恋のライバルは存在しない。障害もない(繰り返すが常磐みどり障害ではない)。ただ北白川たまこが恋心を受け入れられるか、それだけのお話。恋愛を受け入れることで、それまでの関係性や精神世界に変化がやってくる……それを受け入れられるか。
いわゆる「恋愛ドラマ」ではなく、内的世界の変化を受け入れられるか。恋愛はそれを描くためのある種の方便とも取れる。でもあえてここに恋愛を持ってきてくれたから、どこまでも美しく、清らかな少女の物語となった。
物語で言うと「もち蔵、大好き」と返事をするだけのお話。信じられないがそれだけのお話が1時間20分も続く。恋のライバルとか、そういうものなどいないのにも関わらず。最終的にこの二人がくっつくお話なんだろうな、というのがわかりきっていたのにも関わらず。
たかがそれだけの感情の揺れに感動できてしまう。それはそれだけの小さな感情の変化、少女を取り巻く社会観の変化を人間のドラマとしてしっかり描いたから。「心理の変化」という感情の揺れを、「恋愛」というエンタメ的なお題目にして表現しきった。「もち蔵、大好き」は変化を受け入れるという決意表明みたいなものだ。それを見ている側の心理を引っ張り込み、最後には泣かせてしまうのは、山田尚子監督の優れた力量によるもの……としかいいようがないだろう。「参りました」の大傑作だった。
『たまこラブストーリー』で『けいおん!』が描かなかったテーマだった「恋愛」を完結させ、『けいおん!』から続いていた「閉じた世界の美少女」を描く試みが一旦終わりになってしまう。京都アニメーション自体がその世界観から卒業してしまった……という感じだろうか。『たまこラブストーリー』で美少女の日常を終了させて、京都アニメーション自体がそういった世界観からの変化を受け入れてしまった。終わりようのない世界の終わり……である。
この作品を最後に、山田尚子監督・堀口悠紀子キャラクターデザインというコンビは解消されることとなる。山田尚子監督は西屋太志(2019年死去)をパートナーにより深みを持ったドラマ作りに邁進していくこととなる。山田尚子監督はアニメーションであるのに実写で撮ってきたかのような(といっても「リアリティ」ではなく)、生々しいカメラ感を表現することに長けた作家で、物語作りもそれに対応したストーリーとドラマを追い求めて、どんどんアップデートしていく。
山田尚子監督の評価はその過程でどんどん上がっていくのだが、しかし『けいおん!』『たまこラブストーリー』が好きだった一人のユーザーからするとまた二人のコンビ作を見てみたいな……という気持ちがある。堀口悠紀子という傑出したアニメーターもどこかで京都アニメに戻ってきてほしいものだ。
感想文は終わりだが、エンディングを見ていてふと気付いたことが1つ。
「たまこラブストーリー制作委員会」のメンバーがエンディングテロップに流れるのだが、そのメンバーがほとんど京都アニメーションのスタッフ。要するに京アニは『たまこラブストーリー』という作品を作るにあたり、外部の人間を入れなかった、ということだ。自分の所の利益を守るために、自前のメンバーだけで制作委員会を作ってしまう。そういう政治力を発揮できたのも、京アニの強味だ。作品の利益は作品のスタッフに渡されるべき。そのためには、会社の人間が自ら動かなくてはならない。それを実現できるのが京都アニメーションだ。
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