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ゲーム感想 デスストランディング

初めてのPCゲーム! 読み飛ばし推奨だ!

 ゲーム歴はそこそこ長いのだけど、基本的にはコンシューマーユーザーなので、PCゲームを買うのは今回が初めて。どうしてPCゲームを買ったのかというと、どうしてもやりたいゲームがあったのだけど、しかしPSを持っておらず、今からPSを買うのもどうかな……と思ったのでPCで買ってみようか……と。
 でも『デスストランディング』のような今時なグラフィックに力を入れたゲームが私のパソコンで動くのか……という懸念があった。購入それ自体はSteamにアカウント登録してクレジット番号を入れたら簡単に購入できるのだけど……。
 私のパソコンに入っているGPUはNVIDIA Quadro RTX400。詳しい人はピンと来るかと思うが、これはいわゆる「ゲーミングGPU」ではなく、「CG制作用」のGPU。私はパソコンといえば基本的に「仕事に使うもの」感覚だから、このパソコンでゲームを遊ぶという想定を全くしておらず、ゲーミングGPUではなく、CG制作用GPUを選んでいた(そのCG制作も執筆があまりにも忙しく、そちらのほうに手が回せず……)。果たしてゲーミングGPUではないGPUで最新のゲームが動くのか……?
 どこかで動作テストとかないのか……。ないようだ。購入してみるまでこのパソコンでゲームが動くのかどうかわからない。よくわからないから、とりあえず思い切って買ってみよう……!

 結論から言うと、問題なく動いた。グラフィックは風景の奥の奥まで詳細に、どのシーンを見ても鮮やかな4Kで表示されるし、そのうちの一部が欠けたり、テクスチャーが剥がれたり……ということはなかった。映像を見ていると、CGであることを忘れて風景写真のようにすら感じられてしまう。ひたすらに美しい。
(ただバイクで突っ走っていると、細かなテクスチャの表示が遅れる……という現象は観測された)
 映像を最高品質……4Kでフレームレート最大、品質も最高にしたのだけど、それでCPU使用率が20%以下。なーんだ、私のパソコンでも問題なくゲーム動くじゃないか!
 パソコンの動作音は静かだし、ローディング時間は滅茶苦茶に早い。ゲームの起動は一瞬で、ゲーム開始時にややローディング時間があるが、ゲーム中は画面右下に「ローディング中」の画面はほぼ出てこないか一瞬。非常に快適だった。PCゲームがこんなに快適なものだったのか……と今さらながらに感動した。
 ただ、光源は時々おかしくなった。ガラスやキャラの髪の毛に不自然な光が当たり、金色に輝き出す瞬間が時々あった(デッドマンの髪が金色に光り出す瞬間も)。そんなに気になる現象でもなかったが、一応取り上げておこう。

 ただ、初めてのPCゲームであったからゲーム中の画面はキャプションできず。私は後々こういった感想文を書くことを想定していて、いつも大量にキャプションを撮る。それで後になって作中の細かな専門用語や固有名詞のチェックを行ったり、気になった台詞が出てきた時もとりあえずキャプションしておく。それで毎回ゲームをやると1000枚近い画像が作られる。
 『デスストランディング』は膨大な量の専門用語がちりばめられた作品だ。それを後で確認したくても手がかりが全くない。あんなにたくさんの専門用語、完璧に頭に入っているわけがない! もちろん、ゲームクリアまで進行したけれど、作中の全ての用語を完璧に理解して、完璧に文章の中に組み込む……ということができない。実はよくわかっていない用語や、「なんだっけ?」とゲームを進めていくうちに忘れちゃった要素も多くある(勘違いして覚えているものもあるはず)。そういうわけで、今回はストーリー解説や感想はなし。ゲーム部分のざっくりした感想だけに留めることにする。
(「ざっくり」といいながら、そこそこ長いのだが)

さっくりザックリゲーム感想!

 では、ざっくりなゲーム感想。
 ゲームの内容だけど……滅茶苦茶に面白かった。『デスストランディング』のゲーム概要を雑にまとめると、要するに「お使いゲー」。それだけのゲームだけどこれがとにかく楽しく、『デスストランディング』を購入してからの数日間、私はほとんど寝なかったし、食べる時間もおしっこに行く時間も惜しいくらいにひたすらゲームを続けた。一日十数時間はゲームだけをやっていた。これだけ1本のゲームに入れ込んだのは、『ブレスオブザワイルド』以来。それくらいに『デスストランディング』のゲームと世界観に入れ込んだし惚れ込んだ。最高のゲーム体験だった。
 『デスストランディング』には「ミュール」と呼ばれる配達依存症という奇妙な人たち……要するに「追い剥ぎ」なのだが、この設定を初めて聞いた時、「何だそりゃ?」と思ったものだが、この数日間、私はほとんどミュールだった。配達があまりにも楽しく、「配達させろ!」と用事もないのにあちこちのコミュニティに突撃しまくっていた。そんなことをしている間に、ふとミュールの気持ちを理解できてしまった。人をミュールにさせてしまうくらいの面白さは間違いなくあった。

 ゲーム序盤の流れをざっくり見ていくとしよう。
 ゲーム序盤はキャピタル・ノットシティからスタートし、隔離病棟までの短い区間を荷物運搬する。ここは非常に簡単。簡単な配達業務を体験しつつ、物語を体験するパートである。バイトでいうところに「試用期間」みたいなパートである。
 一通りの物語……要するにこの世界観における背景を説明し終えた段階で、次にK2西中継ステーションまで配達するミッションが与えられる。ここでようやく外の世界を目撃することになる。閉鎖的なシェルターの外側がどんなふうになっているのか、映像で示し、その中をプレイヤーを歩かせることで“体験”させる。言葉で説明するより、その光景を見せた方がストレートに伝わる。
 あの繁栄し尽くしたアメリカが荒涼とした風景に変貌し、愕然とした気持ちになると同時に、その風景がどこまでも美しく、思わず立ち止まって見回してしまう。いっそ、繁栄していた時代よりもこっちのほうがいいんじゃないか……とすら感じてしまう。ディストピアの世界は美に満たされている。いや、ディストピアを描くのに必要なのは美意識である。
 この辺りの序盤の流れは、はっきりとチュートリアルとして機能している。要するにこうした荒野があり、その中を歩いて配達するゲームですよ……と解説するためのパートだ。その行く先に、危険なBTがいるため、迂回してハシゴやロープを使うことを学ぶようになっている。
 また「カイラル通信」を繋いだ後、他プレイヤーが設置したハシゴやロープがマップ上に現れるようになるということも、このあと学べる。私はこれを利用し、途中にある山脈をショートカットして帰路に着いた。「他プレイヤーが設置したものが出現する」ということもここでわかるし、キャピタル・ノットシティまでそう遠くないとはいえ、そこそこの距離感。ショートカットしたいという心理から、ハシゴやロープを使うことを学ぶ局面である。

 その次のパートがK2西遺体焼却所へ行く場面である。
 ここで何を示しているかというと、死んだ人が「BT」という怪物になり、その怪物に掴まると最後、「対消滅(ヴォイド・アウト)」を起こし、その周辺を含めて地形ごとが消失してしまうことになる。という、ここまでの流れを学ぶためのパートとなっている。死んだ人が「BT」になってしまうこと、そのBTに掴まれるとヴォイド・アウトを起こしてしまうこと……その過程が実際の体験として学べる場面となっている。その結果としてできたあまりにも巨大なクレーターを見て、愕然とする場面でもある。
 いわゆる「チュートリアル」だが、一方で世界観・物語の背景を示す場面としてもうまく機能している。物語を書くための作法として、序盤の段階でどのように物語やキャラクターの背景にあるものを示すのか? という問いに対し、私は「ゲームを参考にせよ」と答える。ゲームは、プレイヤーにそのゲームにおけるルールを説明するために、段階的に構造を示していかなければならない。もしもこの順序がおかしかったらプレイヤーは混乱するし、正しくゲームルールを学べなくなってしまう。当然ながら、難易度の曲線もはじめはやさしく、少しずつ難しくしていったほうがいい。ミッションに付随するルールを少しずつ、段階を追って複雑化させていくと、プレイヤー側にも対応力が身について挫折を減らすことができる。
 下手なゲームデザイナーはこうしたチュートリアルをだーっと文字情報だけで説明しようとする(どのスクエニのゲームかとは言わんが)。頭に入るわけがない。それは物語創作作法であっても同じだ。チュートリアルは“体験を通じて解説させる方法”が一番良い。またそのチュートリアルの過程で、単にゲーム解説ではなく、背景となる物語をきちんと説明できていればより良い。そうするとゲームの仕組みが物語と一体となったものと感じられるようになり、よりゲーム世界への没入せてくれる。ここでゲームと物語が乖離すると、「ゲーム」という無機質な骨組みをプレイヤーに見せることになる。それだとゲームを進める過程で「気持ち」がこもらない――例えゲームがどんなに面白くてもだ! ゲームを通じていかにして物語を体験させるか、ここをきちんと押さえねばならない。
 そういう理由で『デスストランディング』の冒頭の流れは非常に教科書的。基本的なセオリーにきっちり則った素直な作りになっている。「巨匠」や「名監督」ほど基本に忠実なのだ。

 遺体がネクローシス化しヴォイドアウトを起こす脅威を目撃した後、今度はK2西中継ステーションからK2西配送センターまで進むことになる。ここもチュートリアル的なシチュエーションである。
 というのも、この道程にミュールと呼ばれる追い剥ぎ集団のテリトリーがある。どうやってもこのテリトリーのどこかを突っ切らなくてはならない。ミュールに関する知識がなくても(設定を理解していなくても)、そのテリトリーに近付くと音楽に不穏な調子が入り始めるし、発見されると槍を投げつけられて追いかけられる。普通のプレイヤーは大慌てで逃げ出すはずだ。
 地図を見ると、K2西中継ステーションの川を渡った向こう側の平地を歩いた方が楽に進めるが、そここそまさにミュール達のテリトリーど真ん中。するとプレイヤーは、あえて川の反対側へ移り、悪路を開拓していくことになる。
 それでもやっぱりミュールのテリトリーに足を引っ掛けてしまって、追われてしまう。どうにか走って逃げだし、峠を越えた……そこに待ち受けているのはBTのテリトリーである。ミュール以上に音楽も風景も不穏な様子に変わっていき、立ち止まると頭上に「幽霊」としかいいようのない影が現れる……。
 普通にこの風景を体験すると恐いので指示されたとおりに息を止めて進むようになるし、掴まったら初めは対処の方法もなかなかわからないので、逃げ出す人がほとんどだろう。
 BTはいわゆる普通のゲームでいうところの「エンカウント・モンスター」なのだが、1体1体がボスキャラというほど巨大で強く、しかもプレイヤー側はタールで満たされた地面で歩きにくくなるというペナルティを喰らうので非常に戦いづらい。また表現がホラーゲームっぽく作られていて、この雰囲気だけでプレイヤーの精神もだいぶ追い詰められてしまう。
 慣れてくるとカイラル結晶を獲得したくてこちら側から積極的に挑戦するようになるのだけど、直前には必ずセーブする(BT出現エリアには希少なセラミックが大量にあるので、それを目当てに戦おうという動機が生まれてくる)。なにしろBTに掴まれたら一発死……それどころかその地形まるごと消失してしまう。私は一度やらかしてしまったのだが、消失した地形はその後もそのまま。移動が大変になるし、そこで得られるはずのものが得られなくなるなど、ペナルティが非常に大きい。それでBTとの戦いがいかに大変か……を理解できるようになる。

 その後も、メインミッションをこなすと自然にその世界観における対処法を身につけられるようになっている。
 さっきは追い回された追い剥ぎ集団ことミュールのテリトリー内にあえて踏み込み、所定のアイテムを奪還する方法を学ぶことができるし、風力発電所ではどうしようない悪路とその只中にいるBTに対処する方法を学ぶことができる。さっきは峠を越えた平地の中でBTと遭遇したわけだが、さっきより一つ難易度の高いミッションをここで要求してくる。ハシゴやロープを駆使することをここで絶対に学ばなくてはならないし、悪路の中をBTを避けながら進むということも学ぶようになる。どちらもその後のゲーム進行に必要なポイントばかりだ。
 東地区ははっきりいえば全体がチュートリアルマップとしてきちんと機能しているわけだが、そこを切り抜けるとドラマチックな体験が用意されている。ポート・ノットシティ前の長い峠を越えた後、急斜面とその下に見える港の風景が現れる。その風景の美しさと来たら!

 いわゆる「ドラマ」あるいは「ドラマ的瞬間」というのはキャラクターの台詞の中のみに現れるわけではないし、その中でしか表現できないとしたらそれは「そこそこのゲーム」というしかない。『デスストランディング』のゲーム体験の素晴らしいところは、プレイヤーがその瞬間を体験させることそれ自体に感動させる力があることだ。ポート・ノットシティ手前のBTがウヨウヨいる峠をどうにか通り抜けた後、さっと風景が開けて、眼下に霧のかかった港の風景が現れ、さらに穏やかなバラードが流れる。重い緊張感が抜けたところにあんな素晴らしい風景があり、美しい音楽流れると、特に物語が動いたわけでもないが、プレイヤーの気持ちが動く。あの風景を見ただけで泣く人がいる……というのも納得する。緊張からの解放だけで泣かされるんだ。
 この風景が出てきたところで、『デスストランディング』はもう名作というしかない。それだけの感動があったし、そうした感動を意図して設計する力が作り手側にある。「ゲーム」と「感動」がきちんと結びついている素晴らしい場面だ。それがチュートリアルマップの中に組み込まれている。小島秀夫監督がいかに「名監督」であるかがよくわかるワンシーンだ。

 チュートリアルマップのクライマックスでボス戦を経験し、舞台は中部地方へと移動する。ここからがゲームとしての本番である。マップは一気に広くなるし、人々のコミュニティも非常に多い。色んな要素を含んだ広大なマップになっている。
 最初の方は東エリアの延長で徒歩での運送になるのだが、しかし中部エリアのマップは広大。レイク・ノットシティからエンジニアのシェルターに移動するだけでもなかなか大変。K4南配送センター、サウス・ノットシティまで歩くと相当な距離感でさすがに疲れてくる。
 と、プレイヤーが感じるであろうタイミングで作り手側は「乗物」と「インフラ」を用意してきてくれる。やはりこの提示の仕方がうまいもので、K4南配送センターまで行ってヘトヘトになったところで、「国道建設」のミッションが出てくる。すると交通が非常に楽になるし、またここで「バイク」なる乗物を用意してくれる。バイクがあればたくさんの荷物を背負ったまま、すいすい移動できる。なんてありがたいんだ!

 しかしやはりきちとした道が整備されていないと大変……。そこで私はメインストーリーはさておきとしてしばらく「インフラ整備」に集中してしまった。各コミニュティに温存されている金属とセラミックをもらったり、時にミュールのテリトリーに踏み込んで強奪したり、それでも足りない時はBTを倒してその周辺に転がっている素材を獲得した(ミュールからの強奪は、最終的にはトラックで突っ込んで、金庫を開けてトラックに積み込み、逃走……という強盗のような手段を取るようになった)。
 それでレイク・ノットシティからサウス・ノットシティまで道路で結ばれたときの嬉しさといったら! あの灰色の道路は、現実世界では嫌いな色だったのだが、この世界における道路は見ていると誇らしい気持ちになる。実際にインフラ整備の仕事をしている人の心理なのだろうか。道路建設のおかげで移動が一気に楽になり、劣化率0%で運べるようになった。プレミア配送も後々少しずつ試すようになっていったが、ある程度道路で結ばれていると、インフラが厳しい配送でも楽々こなせるようになる。

 ただ一つ疑問もあって、このインフラ整備は他プレイヤーのゲームにはどのように映っているのだろうか? 私がインフラ整備をした段階で、他プレイヤーのゲームにも道路が出現したのだろうか? それとも道路だけは自前で作らないと出現しない仕組みになっているのだろうか? 素朴な疑問だが、この辺りがどうなっているのかわからない。私のプレイ中、私以外のプレイヤーによる道路建設が行われた例は1度だけ。知らないうちに一カ所、道路が延長されていた……ということが1度だけあった。ということは道路建設だけは他プレイヤーにほとんど反映されない仕組みなっていたのだろうか。

 プレイ中、気付いたことの一つに、私の手で道路を復活させたのに、建設拠点のユーザーネームが私ではない知らないプレイヤーの名前になっていたことだ。ああ、私の前任者だな……と理解した。ちなみに道路建設後はひっきりなしに「いいね」が入り続けて、ゲームをクリアするまでに22万いいねを獲得できた。一応、いいねはくれるようである。

 サウス・ノットシティからさらにマウンテン・ノットシティまでを道路で繋ぎ、道路建設のできない雪山にはジップラインで各シェルター間を結んだ。このおかげで、雪山なのにほとんど雪を踏むことなく手軽に気軽に運送をスイスイこなせるようになった。
 ジップライン建設は非常に大変で、各ポイントで岩山が突き出しているところを探して、登って建設素材を設置する。設置は非常に大変だったが、設置後は道路以上に移動が楽になる。これで雪山エリアのシェルターを全部繋げた(ついでに「エルダー」や「映画監督」といった往復が難しい場所もジップラインで繋げた。ほとんど歩かずこういった人たちのシェルターに飛んでいけるようにした)。雪山間の運送が一瞬で済むし、しかも劣化率0%。道路建設を含めて、独自でインフラ整備の開拓、それを利用しての運送がとにかくも楽しくなってしまう。あと、自分で作り上げたインフラ網を眺めては、得意げになれる。
 ただここでも気になったことで、どうも私が設置したジップライン、誰も使っていない。誰かが使用したらいいねが1つ付くはずだが、全く付いていない。ということは私の設置したジップラインは他プレイヤーのゲームには表示されていないか、一部しか表示されていないのだろう(確かに全プレイヤーのジップラインが表示されていたら邪魔でしょうがないだろう)。私以外にもジップラインを各所に建設する……ということを考えた人はいるはずなのに私が設置する以前はほとんど設置されていなかったことを見ると、そういうことなのだろう。

(ジップラインに関する素朴な疑問だが、サムは場合によっては100キロにもなる荷物を背負っているのだが、ジップラインを使っているあいだ片手で、しかも少し腕を曲げた状態で吊り下げられている。あんな重さのものを片手で支えるなんて無理に決まってるじゃないか……。でもSF設定にめちゃくちゃ詳しい小島秀夫監督がその疑問に回答を用意していないわけがない。おそらくあのジップラインという装置はゆるめに「反重力」が働いているのではないか。ジップラインは「上から下」に滑走するだけではなく、「下から上」へも滑走する。そんなことができるのは、なにかしらの反重力が働いているからじゃないかと想像する。それ以上に詳しい原理は私にはわからない)

 で、こうしたインフラ整備をしている過程で、「あ、バイクを使えば楽じゃん」と思わせて、その次に「おお、トラックなんてものがあったのか」で大量配送が一気にできるようにしてくれる。こうした按配も見事なもので、なにか自分で発見したような感覚で私は行動してしまっているが、ぜんぶ作り手の思うまま。一見自由なオープンワールドマップに見えて、作り手が設計した順路を丁寧にたどっている。おそらく作り手の意図した通りに進んでいるであろう……と気付いた時、私は「ああ、やられたな」と思う。プレイヤーがゲーム中のものをどのように体験するか、どのタイミングで発見するか、ほとんど作り手が意図した通りにゲームを進めてしまっている。
 なぜなら、実際の体験で「そろそろ徒歩での運送しんどいな……」と思わせたところで道路建設のミッションが出てきて、次にバイクという乗物が出てきて、バイクでも時雨で劣化し続けるわけでやっぱりしんどいな……と思わせたところにトラックを用意してきてくれる。提示してくるタイミングがいつも見事なのだ。しかもどれもプレイヤー側で自発的に発見したように感じさせてくれる。そう思わせるところで作り手側の掌の上なのだ。
 というこれは後々マップを見て気付くことだ。すべて順路通りに配置されている。それを私は自分自身で見付けたと思い込んで、それを実行していたに過ぎない。ただ単に正規ルートを進んでいただけだったのだ。

 『デスストランディング』のゲーム部分を引き抜くと、いわゆる「お使いゲー」である。ゲーム界隈では「お使いゲー」という言葉は揶揄として使われる。「お使いゲー」はそのゲームを批判する時に非常によく使われる言葉である。良い意味として使われる例は、ゲームの歴史の中でほぼ無いだろう。しかしその「お使いゲー」にあえて特化させてみせたのが『デスストランディング』だ。
 そこに描かれているのは、よくあるゲーム文法の組み替えと、削ぎ落としである。ゲーム文法の組み替えは、まずは「戦闘」の部分。『デスストランディング』における雑魚キャラといえばミュールにあたるが、ミュールが狙っているのは主人公の抹殺ではなく、荷物の強奪。ミュールのテリトリーに踏み込むと、結構散々な暴力を振るわれるし、後半は銃弾で撃ってくるのだが、しかしミュール達は主人公を殺してやろうとは思っておらず、荷物にしか興味がない。荷物を運ぶというコンセプトだから、それを妨害するキャラクターとしてミュールが設計されている。

 こちら側はまずミュールを殺してはならない。ミュールを殺すとBT化し、ヴォイドアウトを起こす危険があるので、絶対に殺してはならないという制約がある(後半、トラックで突っ込んで強奪するようになってからは、結構ミュールを轢き倒していたが……。トラックで轢いたくらいではミュールは死亡状態にならないんだ)。暴力での解決が正解ではない……がこのゲームが伝えようとしているメッセージにもなっている。
 一方、ボスキャラとして設定されているのはBT。こちらは一定エリアに入ったらエンカウントする方式なので、よくあるRPGの形式と少し似ている。BT討伐に成功すれば大量のカイラル結晶に、BT出現エリアには希少素材が一杯落ちているので、色んな獲得物が得られる。
 しかしボスキャラであるBTを倒して経験値を得てレベルアップするわけではない。獲得物があるのは確かだけど、それを絶対にこなさなくてはならないわけではない。しかも一回掴まれただけでヴォイドアウトを起こし、永久に修復されることのない巨大なクレーターを作ってしまう。すると後の交通が極めて不便になる……というペナルティを負ってしまうことになる。リスクがあまりも大きいので、積極的に挑んでやろうとは思わない。いつでも「挑んでやろう」とは思えない相手として設定されている。BTを避け続けたプレイヤーだっているだろう。

 敵キャラの役割が荷物運搬の妨害者……という「組み替え」があり、さらにゲームによくある基本的な「快楽」が『デスストランディング』では封じられている。ゲームによくある快楽というのは「破壊」と「暴力」だ。そうした快楽を封じた上でいかに別の快楽を生み出すか……が、このゲームを作る上での課題となっている。これが「削ぎ落とし」の部分だ。
 こうしたオープンワールドゲームにありがちなことだが、プレイヤーにはあらゆる裁量が与えられている。魅力的な世界観がそこにあり、プレイヤーは何をしても構わない……それがオープンワールドゲームにあるよくある提示だ。
 そこには何でもない通行人に暴力を加えたり、物を盗んでも良いという自由も与えられている。ただし、盗みと暴力を働いたらペナルティを喰らう……というのが洋ゲーにありがちな設定だが。

 話は脱線するが、この話をしておこう。洋ゲーのオープンワールドゲームには一般の通行人に対して盗みと暴力を与えられるゲームがわりとある。しかしそれはやってはいけないことになっている。私がこの設計に関して以前から疑問があった。「してはいけないことができるようになっている……というのは自由といえるのか?」と。しかもそれらの行為はボタンを一つ押し間違えただけで実行できるようになっている。
 『スカイリム』では雑貨屋へ行き、店主に話しかけようとするところで、カーソルの位置を一つ間違えるとそこに置かれているものを(ワンボタンで)盗めるようになっている。店主に話しかける時のボタンと、「盗む」ボタンが一緒なのだ。
 「それはプレイヤーの自己判断と自己責任だ」と洋ゲー開発者はみんな口を揃えて語るが、そもそもやっちゃいけないことを「自由と責任」という口実でできるようになっていることと、ボタンやカーソルを一つ押し間違えただけでプレイヤーの意思なく実行できてしまう危険性があることはどうなんだろう……という気はしていた。自動車だったら安全性問題で烙印を押される設計だ。

 でも考えてみると、それが西洋的な自由の在り方なのだ。物を盗む、人に暴力を加える……それも個人の権利なのだ――これが西洋的な考え方だから、洋ゲーでは通行人でも自由に暴力を加えられるようにしてある。社会の上に個人があるのが、西洋的発想だ。
 一方、和ゲーではこの考え方がない。だからJRPGの中でその辺を歩いている一般人に対し、いきなり盗み、暴力を加えられるゲームは多くはない(ないわけではない)。日本では個人の上に社会がある……と社会観だから、個人の行動や欲求が社会の規範を越えてはならないと考える。だから個人が社会規範を超えると、関係ない他人でもこれみよがしに非難する(例えば猛烈なイジメを受けていて、反撃した場合、反撃した方が加害者として非難される。だからイジメを受けている人の最大の抗議は自殺ということになる)。暴力も自由だ、なんて個人の権利などはない。だから和ゲーではオープンワールドでも洋ゲーと同じようにはならないし、同じよう作って面白さを発揮できるか、というと違ってくる。
 こうした和ゲー的な考え方を結集したのが『ブレスオブザワイルド』だ。「プレイヤーの自由」とは盗みや暴力ではなく、それ以外のものから得られるはずだ。暴力以外の解法でゲームを作る、というのが日本的な考え方で生まれた傑作だった。
(また一方で、暴力に対する考え方を徹底した『ラストオブアス』という作品もある。ああいった作品は、日本人では作れまい。私はまだ未プレイ)

 話は『デスストランディング』に戻ってくるが、『デスストランディング』にも「暴力」の要素は排除されている。まずミュールでも殺害するとヴォイドアウトという大きすぎるペナルティが用意されている(ちゃんと焼却炉へ持っていって処分すれば回避できる)。
 実は盗むこともできる。主人公以外に荷物運びをやっているポーターがNPCにもいて、その彼らから荷物を奪うことができる。でも『デスストランディング』にはうっかりボタン押し間違えでそれを実行してしまう危険性は少ないし、盗んだところで実入りは非常に少ない。と、このように暴力と盗みが作品の中から慎重に排除されている。
(もしもアメリカ人が『デスストランディング』を作っていたら、プレイヤーの行動次第でミュールになれます……という選択肢が間違いなく作られただろう。それが個人主義思想の考える自由だからだ。だが日本人の手によって作られたから、その選択肢のないゲームになっている)

 文法の組み替えと、ゲーム的な暴力を排除したところで、荷物運搬の面白さでいかに厚みを盛り上げるか、に『デスストランディング』は徹底している。その過程の道のりをこれみよがしに険しく複雑な地形を用意して、その過程でハシゴやロープを使わなくてはならず、そうする過程でトレッキングを体験しているかのような楽しさを生み出している。岩場にロープを突き刺して崖を下りていくという過程が楽しいと感じられるし、またその先にある風景が極上の美しさを持っている……というのもポイントだ。ミッションを達成した一番のご褒美が、素晴らしい風景との遭遇だ。歩くことをエンタメ化している。運び終えた後、人々に感謝されるのも嬉しい。
 次に用意されているのがインフラ整備だ。徒歩での運搬がしんどいな……と感じさせたところでインフラ整備というミッションがそこに出てきて、さらなる運搬がしたいがためにインフラ整備をしたい……という気持ちにのめりこませる。そして苦労の末、道路建設やジップラインの交通ができあがったところで嬉しい気持ちにさせてくれる。どれもこれも、お使いゲーをスムーズに実現させるために作り手が用意したプロセスだ。このプロセスを体験させることに、作品の面白さを見いだせさせている。

 いわゆるな洋ゲーにあるオープンワールドの弱点は、広大な世界観があり、ありとあらゆることができますよ……と提示されているが、しかし一つ一つの体験は薄い……ということはよくある。これなら一本道で作られたゲームのほうが体験としては濃いし、そうしたゲームの方がユニークであることは非常に多い。作り手が定めたとおりのコースがきっちり作られているゲームの方が、一つ一つの面白さは上だ。あらゆることができますよ、というのは色んなゲームにありがちなことを複合的に、小さくパッケージ化されて並べられていますよ……というだけの話で、突き詰めていけばどのオープンワールドゲームもだいたい似たり寄ったりな内容になるし、違いといえば「世界観だけ」ということになってしまう。オープンワールドゲームは世界観のみが売りになり、ゲームとしての個性が薄味になる……というのが「なんでもできますオープンワールドゲーム」の欠点でもある。(「一本道ゲーム」もまた批判の対象にされやすいが……でもよくよく考えると一本道ゲームの方が体験として豊か……ということはいくらでもある。一本道ゲームの方が、丁寧なおもてなしを受けられるし)
 『デスストランディング』はルックスだけならそうしたオープンワールドゲームのように見えるが、内実はまったく違って、よくあるオープンワールドゲームにできるほとんどのことはできない。「配送」という一つの要素のみに特化させ、その要素を補強するようにありとあらゆるものが設計されている。中心点がどこにあるか、が作り手自体がよく理解し、考え抜いた設計になっている。

 しかも広大なマップにプレイヤーを投げ出しているように思えて、実はしっかりした順路が示されていて、プレイヤーは知らず知らずのうちにその順路通りにゲームを進めていくことになる。
 こうした考え方はどちらかといえば「漫画」だと私は考える。私は「漫画」の特徴は「キャラクター」だとは考えていない。「省略」と「象徴化」が漫画の基本思想だと考えている(キャラクターはこの「省略」と「象徴化」によって生み出される)。『デスストランディング』ははっきりと日本的な漫画的発想で作られた作品で、まず省略によって配送以外のあらゆる要素が排除されているし、敵キャラクターも配送を妨害する要素として設計されている。そのうえで「象徴化」、各要素がわかりやすい言葉で省略できるようになっている。
 配送を中心において、お邪魔キャラのミュールがいて、配送をスムースに進行できるレベル1的なアイテムでハシゴとロープがあり、レベル2で高速道路、レベル3でジップラインと段階が示されている。リアルな世界に見えてすべての提示が記号的。
 『デスストランディング』は見た目的にはリアリズムに徹した洋ゲー的なルックスを持っている。登場する人物も洋画や海外ドラマで見かける俳優達で、さらに洋ゲーっぽい。しかし内面にあるのは和ゲーだ。日本人の感性だからこそ作り出せたゲーム……と感じている。
 こうした作りのゲームは日本人だからこその感性だ。なぜゲームの黎明期において日本が中心になって爆発的に発展したのか。それは日本人が「漫画」の感性を知っているからだ(西洋の人々は自分で生み出すより、日本から学ぶ方法を採っている)。漫画の特性を言語化する必要もなく、みんな当たり前のように色んな文法を「省略」し「象徴化」させることができる。そういう作り方が得意だったからこそ、日本人の作るゲームが個性的といわれる由縁だ。『デスストランディング』もそうした日本人的な漫画発想で作られたゲームだと感じた。

さっくりザックリストーリー感想!

 ざっくりなゲーム感想の次は、ざっくりなストーリー感想である。ストーリーについてはあまり深く突っ込むことができない。これは「ネタバレへの配慮」という理由ではなく、最初に書いたとおり、初めてのPCゲームで画面をキャプションする方法がわからず、作中の細かな用語や解説を再確認する手がかりが全くないからだ。メモも一切取っていない。全て「記憶」のみを頼りに書く。しかも『デスストランディング』の作中に示された専門用語や知識というのがあまりにも膨大すぎて、それを全部頭に入れて語れ……というのは無理。私はそんなに頭がよくない。
 そういうわけで、かなりざっくりなストーリー感想になる。

 まず感心したのが、「理屈」作りだ。「配送」がテーマのゲームなのはわかったが、なぜ「配送」なのか? その物語の中において「配送」がどういった地位にあるのか? 単に「配送がテーマです」というのではなく、その「ゲームの仕組み」に過ぎないものの中に、「物語」がきちんと一体となって組み込まれていることに巧さがある。

 とりあえず、何かしらの理由でアメリカは崩壊している。かつて都市を張り巡らしていた全ての道路が喪われて、アメリカは開拓される以前の(いやもっと酷い)荒涼とした大地に戻ってしまっている。その大地には時雨と呼ばれる雨が降っており、これを浴びると「時間が奪われる」……つまりあっという間に劣化してしまう。人体に時雨が触れると瞬く間に老化してしまう。
 時雨の設定がうまいのは、このおかげでマップ上に設置した様々なアイテムがあっという間に劣化してしまうことだ。私は高速道路を作り、ゲームクリアまで進めたのだが、その後もう一度ゲームに戻ってみると高速道路の多くが激しく劣化しており、風化の直前といった状態になっていた。
 アメリカが険しい荒野に戻った上に、ミュールとBTというごく普通の人々が通行するだけでも危険な障害物が一杯ある。こういう状況下だから食料や電気ガスといった現代では当たり前のモノすら不足している。娯楽も不足する。まともな生活が送れない状況下だ。そうした状況下だからこそ、サムのような運び屋が重宝される……という設定になっている。アメリカ崩壊後、人々の生活を支えたのが運び屋達だった……という設定に説得力と蓋然性が出てくるように作っている。

 インフラ整備についてだが、機材を起動させるとあっという間に作られてしまう。普通に考えると「オイオイ、どういうテクノロジーだよ」と考えてしまうところだが、この『デスストランディング』の素晴らしいところはこれにもきちんと理屈が付けられている。カイラルプリンターという、まあいってしまえば3Dプリンターの超未来版。作中に、カイラルプリンターという技術について詳しい解説が語られ、そういうものがあるなら、この一見すると魔法にしか見えない現象も受け入れられるようになる。
 すべての表現に“理屈”が付けられている。「なんだかわからないけど……」という中途半端なことは一切していない。「いや、ゲームですから」みたいなことも言わない。すべてにキチッと説明を付けられている。そこが凄いところだった。あまりにもギッチリな説明が付けられているのに「もう参りました」と言うしかなくなってしまう。

 『デスストランディング』が見事だと感じられるのは、全てのものにかなりきっちりとした「理由」が示されていること。ここまでに上げた「時雨」や「カイラルプリンター」は、どちらもゲーム的な仕組みに「物語」が与えられたものに過ぎないのだが、それは単に「魔法でございます」と手抜きはせず、その背景にかなりガッチリした「理由」「由来」が示され、さらにそれらはゲームと深く結びついている。私たちが画面の中で見ているのはそのほんの一片でしかない……という壮大さがこの作品にはある。そこに“無駄な設定”が何一つないのだ。
 “無駄”がないのはありとあらゆるモチーフについても言える。
 例えば各配送センターや都市は外見的には「船」の形をしている。実際に、「ブリッジ」と呼ばれている。ブリッジとは「操舵室」のことを意味する。さらに各都市は「レイク・“ノット”シティ」といった名前になっている。「ノット」といえば船舶用語で速度を表す言葉だ(「15ノットの速度で進んでいる」という時に使う)。この「ノット」は作中で示されているように、もともとはロープの結び目のことを指していた。主人公であるサム達ポーターの役割はまさに各地をつなぎ「結び目」を作ることである。
 ブリッジズのロゴを見ると、「ブリッジズ」の書かれた文字の下に、蜘蛛の巣のような形が示されている。蜘蛛の巣っぽく見えるのはインターネットの「WWW」すなわち「ワールドワイドウェブ」を示していて、現代はこの技術で世界中のありとあらゆる記録や画像が繋がっている状態になっている。また蜘蛛の巣っぽく見せて、ロープに「結び目」を作っていることで作中の意味を強化させている(ブリッジが船であるから、帆船にあった縄ばしごにも連想させるように描かれている。色んなふうに捉えられるように図案が作られているのだろう)。

 さらに作中には何度も「ドリーム・キャッチャー」が登場してくる。サムが普段から身につけているアイテムにドリーム・キャッチーがあるし、サムが体験する悪夢の中にもドリーム・キャッチーが登場してくる。ドリーム・キャッチーも各箇所に結び目が作られている……ということでモチーフが対応関係になっている。
 サムがアメリにプレゼントするキープにも結び目。サムが持っているドリームキャッチャーと対応するアイテムとして使われている。

 『デスストランディング』の舞台がアメリカ……というのも意味のない設定ではない。そもそもアメリカは発見されてからせいぜい500年程度の歴史か持たず、“ネイティブ・アメリカン”という本来そこに住んでいた人々はいたのだけど、そういう人たちももはや少数だし、その後にやってきた人との混血が進み、本当に純粋なネイティブ・アメリカンという人はもういない可能性がある。アメリカはヨーロッパから移住してきた人々や奴隷として送られてきた黒人達の手によって作られ、ヨーロッパ支配から戦争で独立を勝ち取った上で建国した国だ。要するに、もともと持っている文化観や宗教観といったものがバラバラなところからスタートし、せいぜい数百年程度の歴史の中で「アメリカ人」というアイデンティティを急ごしらえで作り上げました……というのがアメリカだ。
 ヨーロッパの多くの国々のような長い歴史を持たない国だし、日本のように明文化される以前の歴史も持たない。建国神話すら持っていない。ふとするとバラバラになりやすい。分断されやすい文化観がもともとあるし、昨今のアメリカの情勢を見ると分断があまりにも克明な形で出てきている(その分断は、『デスストランディング』の作中にもちゃんと言及されている)。そういうアメリカが舞台になっているからこそ、各地のコミュニティを「結ぶ」ストーリーに納得感が生まれてくる。
 とこのように作中に登場してくるありとあらゆる言葉、アイテムに無駄なく連想ゲームで全てがリンクするように作られ、その全てがプレイヤーが体験するゲームと物語に分離不能で結ばれている。ここで示したのもほんの一端に過ぎず、この連想ゲームは恐ろしく膨大でかつ壮大で、こうした個々の小さな用語だけに収まらず、心理学用語から人類学、古生物学、さらには宇宙論にまで結びついていく。

 もはや迂遠としかいいようのない圧倒的な情報量をもって小島秀夫監督が『デスストランディング』というゲーム、あるいは物語の中で何を表現したかったのか……というと「死」についてだ。人間は死んだらどうなるのか? 死後の世界というのはあるのか? そもそも死とは現象としてどういうものであるのか……? 小島秀夫監督の「死生観」について語られた作品が『デスストランディング』であった。
 死の問題についてはなかなか難しいところで、現代の我々は「死」とは何かといえば「脳死」だと答える。定義上、脳死=死ということが知識として与えられている。
 では脳死の状態がどういう状態なのかというと、脳がドロドロに溶けて、指を突っ込むとズブズブと入っていっちゃう状態のことである。要するに、脳が電気信号を全く流さない状態になって、ようやく医学的に「死」と言える状態になる。
 でもそうすると疑問は感じないだろうか?
 脳がドロドロに溶けた状態……いや、それはもっと前に死んでないか?
 ではどこの段階で死んだことにするのか? そこには倫理の問題があるから、現代の医学でもそれ以上に踏み込んで定義付けできないようになっているし、だから完全に脳が停止するまで、人道的観点から瀕死状態の人を生命維持装置に繋がなければならないということになっている。
 じゃあ単純に心肺停止が死である。……というのもまた早計で、昔から首を吊って処刑された後に何かしらのショックを加えられた後、蘇生しちゃう例が結構あるし、自然死したと思われていた老人が葬式の時に突如息を吹き返す……という例も一杯ある。じゃあ何をもって死んでいる、という状態を示すのか、がわからなくなる。死という状態を客観的に観察しようとも、現代人であってもなかなかわからない、というのが実体だ。
 では主観的な観念で死とはどういう状態であるのか。これは未だ誰も観測して記録に残したという人はいない。もしも脳死が死という状態であるなら、その人はその過程をどのように認識しているのか? 脳死が死という状態だとしても、その当人はどの段階で死だと認識するのか?

 そうした問題に向けたアンサーが小島秀夫監督によるこの『デスストランディング』だ。作中に出てくる「ビーチ」は、もう見るからに「あの世」の世界である。ビーチという端境の世界がまさに現実のものとして観測された……ということが『デスストランディング』という物語のスタート地点になっている。間違いなく「死」という現象がそこにあることを設定として物語を始めている。主観的には観測不能だし記録として記述不能であるはずの「死」そのものを映像で表現してしまっている。これだけで私は参ってしまった。
 少しオカルトな話になるが、何度もBTに襲われつつも生還したサムの体にはいくつもの手形が付けられている。これは何なのかというと、世界中のありとあらゆるオカルト話の中で、幽霊に掴まれるとあのような手形が付く……という話が伝わっている。ありがちな話だが、トンネルに巣喰う幽霊に遭遇したお話では、だいたい車の窓やボンネットに大量に手形が付けられ、「幽霊は幻ではなく確かにいた」というオチが付けられる。
 この手形の起源は何なのか……『デスストランディング』はそれを生命の始まりまでお話を遡らせ、いかにして魚類が手を獲得したのか? という話が出てくる。一瞬にして水が干上がってしまい、魚たちは“仕方なく”水の中へ戻るためにヒレの一つを変形させ、手の形を作った……という説を採用している。母なる水の世界に還りたい……生命の原始的な欲求の中にそれが温存され、その欲求が亡霊になっても手形を残して這っていく……という理屈を作っている。
 それでゲームの前半部分では、BTは魚の形をしている。進化の過程をBTという姿で追いかけているのだ。

(そのBTに発見されないように息を止める……という表現が使われている。息を止めると亡霊から発見されなくなる……というと私たちは中国の妖怪キョンシーを連想するが、元ネタはこっちではないだろう。「息」とは古代ギリシア語で「プシュケー」といい、これには「生命」という意味もあった。口から魂が漏れていく……と考えていたのである。こうした考え方はギリシア固有のものではなく、色んな部族の習慣を見ても、司祭は儀式の時に口から漏れるという魂を掴もうという“フリ”をしていた。口から魂が漏れる……という考え方は近代に入ってエセ科学のエクトプラズムという言葉に変換されたし、現代になっても漫画表現や映画表現で口から魂が漏れる、という描き方はいろんな作品の中に見ることができる。「息=魂」という考え方は古代から中世、現代まで普遍的に根付いている概念である。BTたち亡霊は、その生きた人間の息に混じった魂を求めて、殺到してきているのだろう……と推測できる)

 手に対するモチーフはありとあらゆる場面で徹底されていて、BTと遭遇した後、掴まれた地点に行くと大量の「手形」がそこに残されている。BTを撃破した後に出現するカイラル結晶が手形の形をしている。
 だからBTは見るからに幽霊のような姿をしているし、BT戦は表現がホラーゲームっぽくなっている。私はゲーム中、何度もBT戦を体験していて、何匹ものBTを狩ってきたわけだが、最後までBT戦のあの空気感だけは耐えられなかった。本能的にざわざわする。それはやはり、心理の奥深いところにある“死の恐怖”を刺激してくるからだろう。
 思い起こせば“幽霊の表現”というのはまず手から始まる。幽霊……いや怪物を表現する場合もそうだが、私たちはまず手を恐ろしく見せようとする。手に節や皺を作り、何かにものすごい力でしがみついているような……そういう表現を描こうとする。なぜそう表現するのか、という回答がここに示されたような気がする。
 ハートマンの研究所入り口には大量の手形を描いた絵画のようなものが飾られ、私はこういうゲームをしているから「BTの写真か?」と最初思ったのだが、よくよく見るとスペインのラスコー遺跡の壁画だった。ラスコー遺跡の壁画についてはよく知られているように、原始の人々が野生動物を殺す場面が延々描かれている。その次にあの大量の手形だ。塗料を口に含み、吹き付けることであの手が浮かび上がってくる。あのラスコー遺跡の手形が、魚が進化の過程で得た手、それからBTの手と結びつきを作っている画である。

 ある場面で――少年時代のサムは何度もアメリとビーチで会っているのだが、アメリはそこでサムに向かって「還りましょう」という言葉を使っている。「帰る」ではなく「還る」だ。その後、アメリはサムを伴って波間を二人で進んでいく場面が描かれている(小島秀夫監督ほど言葉に長けた人が「還る」と「帰る」を書き違えるわけがない)。上に挙げたように、魚が母なる海へ戻りたい、という欲求を描いた場面だ。
 このシーン、なんなのかゲームプレイ中はわからなかったが、少年時代のサムはどうやら何度か死んでいるようだ。何かしらで死ぬような目に遭い、ビーチでアメリと遭い、その後「還る」ように促されている。後になってこのことに気付き、ハッとさせられた。サムは何度も死んでビーチを巡るという……つまりは“臨死体験”をしていたのだ。
 と、こんなふうに『デスストランディング』で描かれる死生観は、古代の種の始まりからお話を始め、現代にまで伝わる宗教を経て、さらには巷で都市伝説レベルで交わされるオカルト話まで全部その中に包括し、その全ての連なりある“意味”を作っている。要するに「連想ゲーム」的な連なりを作っているわけだが、その繋げ方があまりにも鮮やかだし膨大だし、クレバーだしで、物語を追いながら、ずっと圧倒されっぱなしだった。

(海が死のモチーフ……というところで、都市や配送センターが船の形をしていることの関連性が出てくる。これも連想ゲームとしてちゃんと連なっているのだ)

『デスストランディング』は小島秀夫監督の「死生観」を語るための作品である。こういう「死について」を語る物語は、実は創作の世界では普遍的にある。というか、作家を目指す者は一度は個人が思う死について、死後の世界とは……という空想をしてみるものである。かくいう、私も未発表作品だが私なりに「死」をテーマにした作品を描いたことがある(いつかきちんと発表したいものだ)。
 『デスストランディング』もそうした創作の世界にありがちな「死について」が語られた作品の一つであることは間違いないのだが、ただ作品がフォローしている世界観があまりにも凄い。ビーチという個人の体験する死のお話からスタートして、コミュニティの死、そして種族の死へとお話の風呂敷をどんどん広げていく(その中には『スーパーマリオ』のマリオとピーチ姫も取り上げられている。マリオもゲーム中、何度も死と再生を繰り返して、目的遂行に邁進し続けるキャラクターだからだ)。
 作中、「ビッグ5」というかつて地球上で展開された「絶滅」も挙げられ、物語は単純に個人が死ぬかも……というお話から「人類という種の滅亡」というお話まで広がっていく。
 客観的に考えると、「オイオイ、一介の配達屋がどうして人類滅亡を阻止する話になるんだよ」というところだ。そういうのは魔王と戦う勇者の仕事だ。下手なライターが書くと、ただのコメディにしかならない。
 そこがこの物語の巧みなところで、一介の配達屋に過ぎないサムがその物語の中に飛び込んでいく過程を自然なものとして受け入れられる。配達の仕事をしていたはずが、テロリストと戦うようになり、政府の陰謀と向き合い、その最後にクリフという謎めいた亡霊と対峙するようになり……。文章で書くと奇妙なお話に思えるが、一つ一つを追いかけていくと全て必然のものとしか考えられなくなる。もちろん“雰囲気”で作っているわけではない。きちんとした組み立てがある。それこそ人類以前の、恐竜時代の絶滅のお話が傍流に語られ……とんでもない設計が背景にずーっと丁寧に丹念に作られた上で、その末端で「配達屋サム」のお話が作られている。

(ビッグ5という情報を聞いた後に、『デスストランディング』発表初期から流れているイメージの一つ、空中に浮かぶ5つの人影の正体がわかってくる。あれはかつて絶滅した種を象徴しているのだ、と。そう気付かせてくれるのが面白い)

 しかしそういう物語をただただ描くだけでは「ゲーム」にはならない。物語がゲームと分離した鑑賞物になってしまう。いわゆる「ムービーゲー」だ。『デスストランディング』はゲームから離れて鑑賞するだけのパートが確かに多いのだが、その後のゲーム観が少しずつ変わってくることに気付かされる。
 プレイヤーがしていることといえば相変わらず配達業務なのだが、物語を経過するとその意味合いが変わってくる。物を運ぶことで様々な事件や過去が解明されて行き、「ただの配達」ではなく、その配達が世界を救うための重要なもの……へと変貌していく。そのようにプレイヤーの意識を変えさせている。
 それでプレイヤーがゲーム中でできること……これ自体は最後まで変わらない。ゲームが提示するルール付けを最後まで変化させず、物語で変化を付けている。いきなりゲームの操作方法が変わるわけではない。物語で変化を付けているから、何かを配達する……というそれだけなのにある瞬間「ドラマ」になっている。
 東部地方の峠を越えてポート・ノットシティを見下ろした瞬間こそがドラマになっているし、別のあの場面でサムが、物語の最初の方ではアメリカ再建なんて知ったこっちゃない……と語っていたが方々を旅して荷物を配達している過程で人々に触れて、人々のためになりたいと思うように心理が変わっていった……と語る場面がある。しかし物語の中でサムのそんな心理的な変化が描かれたわけではない。でもプレイヤーが体験しているゲーム中の過程で、それが納得できるように作られている。配達を終えて人々のホログラムと向き合う瞬間、サムはプレイヤーに対して後ろ姿しか見せないわけだが、「ありがとう」と言われて微笑んでいるのかな……と勝手に想像していたことが何度もあった。プレイヤーが勝手にそう思うように、個々のシーンを作っているのだ。

 確かにゲームの内容が劇的に変わる瞬間というのはある。クリフと戦う悪夢の場面はいきなりの戦場だが、それ以外のシーンと乖離しているとは思えない(様々な戦場が描かれるが、舞台選びは多分「アメリカが歴史的に経験した戦争」から描かれているのだと思う)。それは物語によってその前後のシーンとしっかりした結びつきを作っているからだ。物語のレールをきちんと作っているから、飛躍があっても乖離しない。やはり必然を感じてその世界を乗り越えようと頑張ろうという気持ちになる。
 ある場面でいきなり格闘ゲームが始まってしまうが……さすがにあれはギャグだと思った。多分『紅の豚』のオマージュじゃないかな。面白いからあれはあれでアリかな……という気はしたが。わりとシリアスな場面でいきなり挿入される格闘ゲームにはさすがに変な笑いが出てしまったが。意外なところに出てくるギャグも、小島秀夫流だ。

終わりに

 SFとは結局の所「世界はどうなっているのか?」を解明することが最終的なテーマになるし、自分が何者か、を語るためのエクスキューズになる。「探求」と「解明」がSFの普遍的テーマだ。『デスストランディング』はその両方を完璧にフォローしている。
 間もなく迫る「絶滅」とはなんなのか、いかにして回避するのか? そこに至るまでの「設定」が遠大に語られ、その先にある現在が語られ、その上でプレイヤーにどうするかを委ね、それを乗り越えた先に極上のドラマが待っている。主人公は配達屋で、各地を巡って「結び目」を作ることを目的としている。最後までその目的が意味を持って連なり、終局的なドラマへと繋がるように作られている。ラストシーンはただただ打ちのめされて涙を流すだけだった。

 ゲームについて最初に戻るが、『デスストランディング』は「お使いゲー」である。ゲーム批評の世界では批判の対象、品質の低いゲームに対する揶揄のために使われがちな言葉だが、『デスストランディング』はその認識を完璧に一蹴した。「お使いゲー」から逃げるのではなく、むしろ向き合って、そこに面白さ、人間のドラマがあることを見いだした。
 それに、私が実は個人的にこっそり思っていたことだが――お使いゲーって実は面白いよね。……ということをここまできちんと作り上げた世界観を持ってして証明してくれた。そのこと自体が面白い。
 ゲームなんて基本的にはお使いなんだ。最近のゲームには様々なサブミッションが用意されているが、大半はお使いだ。でも大抵の人々は特に疑問を感じず、嬉々としてお使いを引き受けている。お使いゲーがつまらないというのはどこから出てくる意見だったのだろうか。「お使いゲー」にロジカルな意味と、極上のドラマと、そこをただただ歩いているだけで楽しいという率直な感覚を与えてくれた。もしかしたらお使いゲーがクソゲーだと思われたのは、そこに「物語」の提示がなかったからかも知れない。「お使いゲー=クソゲー」という観念を、この1本で変えさせるだけのインパクトはあったはずだ。

 見るべきは『デスストランディング』という作品はそのお使いゲーにどんな意味づけを与えてきたか。ゲームの本質はゲームそのものだが、そのゲームを「単にデータを右から左に移しているだけ」というポジションから、いかにすればそれぞれの行為にドラマ的な感慨が現れるようになるのか。ただAボタンを押す……という行為にどんな感情を与えるのか。ただAボタンを押しているのではなく、熱を持って、想いを託してAボタンを押したいのだ。そういう気持ちにさせる役割が物語であり、ゲームで重要なのはプレイヤーにいかなる物語体験をさせるのか……ということだ。当然ながら、この「物語」は「ゲーム」と分離したものであってはならない。分離した瞬間、いわゆる「ムービーゲー」になる。『デスストランディング』は物語とゲームの関係性が完璧も完璧で、しかも背負っているスケールが果てしなく壮大で、物語の終幕に向けて、私はただひたすらに打ちのめされていくようになっていった。背中に背負っているものがなんて重いのだろう……たかだか10キロに過ぎない荷物でも、背負っている物語を思うようになっていった。そういう気持ちを作るだけの物語が『デスストランディング』にはあった。
 風呂敷を変に広げすぎて回収できていない……みたいになっていないし、小さくも終わっていない。大きなドラマがプレイヤーの手を介して、より大きな感動へと導かれていく。圧倒されるような凄さがずっとあった。前から小島秀夫監督は天才だと思っていたが、こんな凄いゲームを付けられたら「こりゃ一生かかっても足下にもたどり着けない」と愕然とするしかなくなってしまう。ただただ凄い。参った。頭良すぎだろ、この人。なんでこんなスケールのものを作れてしまうんだ。
 この作品に対して頭を下げるしかなくなってしまう。『デスストランディング』は文句なしの名作。ゲーム史のなかにおいて語り継ぐべき傑作である。

3月4日 デスストランディング感想文こぼれ話

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