見出し画像

読書感想文 マンガ世界戦略/夏目房之助

 欧米の日本のイメージは、かつて「フジヤマ、ゲイシャ、ウタマロ」だった。19世紀以来の東洋趣味的な誤解が、戦後「トヨタ、ホンダ、ソニー」へと移り変わっていく。しかし欧米の人々の頭にはいまだに「フジヤマ、ゲイシャ」があり、その上にいきなりハイテク機器のイメージが出てきてしまう。すると混乱が生じる。日本のような伝統や仕来りを大切にする文化の上に、どうしていきなり現代のようなハイテク機器が生まれたのか、イメージができない。

 80年代バブルの頃、日本は世界中を旅行し、西洋文化のものを片っ端から買い上げていった。
 どうして日本人はそうまでして西洋のものを買ったのかというと、まず第一に敗戦コンプレックスがずっと精神の深いところに根付いていたから、ということと、自国の「文化」のイメージがなかったからだ。当時の日本人は「文化」といえば西洋発の絵画であり、音楽であって、それがもっとも格調高いオフィシャルなものであると思い込んでいて、それを買って自分のものにさえすればいいと思い込んでいた。
 だから欧米の人々に猛烈に嫌われ、馬鹿にされていた。日本人は自国の文化イメージを持っておらず、また欧米の人々から見ても「文化の顔」が見えない。「文化の顔が」見えない成金連中が、たまたま儲けたお金で欧米の文化のものを買って自分のものにしようとしている。誰の目から見ても、文化イメージを持っていない人々が、コンプレックスで他国のものを買って奪っている光景にしか見えなかった。

 いきなり本書の話題から外れて、2021年代、この感想文を執筆している現在開催されているオリンピックの話題をしよう。
 2021年オリンピックの開会式で、多くのゲームミュージックが演奏されたことが話題になった。これはなぜだろうか? ゲームミュージックという、日本でいうところの「サブカルチャー」と呼ばれるものが、どうしてオリンピックという国際的なハレの場で演奏されたのだろうか。日本でより大衆的な文化と見なされているJポップ(AKB48のようなアイドル楽曲)が採用されなかった理由は何だろうか?
 Jポップをより地位の高い文化だと思い込んでいる人々にはややショックな話をしよう。Jポップなんてものは世界的に見て完全に無名である。Jポップを格上だと思っているのは極東の島国民族くらいなものである。
 世界的に見ればアニメやゲームの方がよほど知られている。こちらのほうが、世界から見て日本の「文化の顔」が克明に見えるのだ。日本ではいまだにアニメやゲームをサブカルチャー=傍流文化と呼ぶ人々は多いが、実は「本流文化」だったのだ。欧米の影響と模倣を日本化することで生まれたJポップと、アニメとゲーム、どちらが日本らしい「文化の顔」が見えるか、という話をすると、間違いなくアニメとゲームの方だ。
 ただ、そのことに自覚している日本人はいまだ少数であるし、思想や言論の中心地から外されている。特に知的階級、つまり上級国民達の頭の中には、アニメとゲームがいかなる国際的地位を持っているか理解していない。なのにオリンピックというハレの場で採用された、ということは非常に大きな意味を持っている。

 マンガに話を戻そう。
 日本人は海外というといきなり「欧米」をイメージし、「欧米」だけが海外と思って話をする。だが今回のテーマはアジア。アジアでいかにしてマンガが受け入れられ、発展して行っているのか。本書が書かれた2000年代ごろの様子を見ていこう。

香港マンガ事情

 日本人が「外国」というとき、いきなり欧米のことをさし、東アジアは意識されない。日本人の目は常に欧米を向いており、欧米に対してコンプレックスを抱いて見ている。しかし距離的にも文化的にも近いのは東アジアのほうであり、そこにあるものに目を向けることが大切だ。
 1997年、香港は中国に返還された。日本のマスコミが「返還」と書くのは、香港が英国から中国に返されたからだが、中国からしてみれば「帰還」か「回帰」だろう。こんなところでも、日本の視線が欧米基準になっていることがわかる。
 香港回帰によって、香港マンガはどのような影響を被るだろうか。彼らの一人は語る。「返還後を心配したり騒いだりする時期は香港ではもう終わってます」と。  香港漫画家・李志達(りしだ)は香港回帰で政治的な規制が強まるのではないか、という質問を受け、このように答える。
「僕がこうして無事に生きているんだから、それほどではないですよ」
 李志達は「天安門事件」を題材にしたマンガ『天安門』を描いたが、まだ逮捕されたり弾圧を受けたりすることもなかった。

 香港マンガの基本フォーマットは30ページほどの総カラー雑誌だ。一つの作品が1冊という、欧米コミックスと同じ方式だ。一方で日本と同じ雑誌形式もあるから、欧米スタイルの本と半々で市場を分け合っている。
 制作はアメリカに似た徹底した分業制を採っている。黄玉郎(こうぎょくろう)の現場を例に取ってみると、作者である自分をチーフに、脚本、チーフ作家(主筆)、背景、擬音などの文字、動線、彩色、仕上げ……と細かく分担されている。さらにプロデュースと営業、翻訳部門がある。ついでにアクションマンガだから筋肉を書くだけの専門家がいる。
 そういった人達がだだっ広い部屋に机を並べて、一人は延々漫符だけを描いているし、一人はえんえん動線だけを書いているし、私たちが知るような漫画家の制作現場とはだいぶ様子が違う。スタッフは全員「社員」として登用され、月々の給料を受け取りながらマンガを描いている。
 そうした分業によってマンガが作られているから、香港マンガは異様なほど細密だ。絵の上手い人が、自分の得意とするところだけを受け持って作っているから、絵のレベルは異様に高い。ただ、線が細かすぎる。分業している人々の尋常ではない気合いが一コマ一コマに団子となって迫ってくるので、かえって読みづらく感じてしまう。

 香港マンガのほとんどが、「武侠もの」とよばれるカンフー活劇だ。必殺技を叫びながら技を繰り出し、相手も必殺技で返してきて……つまりバトルマンガだ。これで売り上げ部数が多いもので10万部。
 香港におけるマンガは、日本マンガの翻訳本を加えると、年間マンガ出版部数は3000万部。売り上げは5億香港ドルに近い。1996年のデータだから、当時のレートだと80億円ほどの市場規模ということになる。香港では一般書籍が1冊3000部ほどの売れ行きだから、マンガの方が売れ行き部数でいうと多い。
 香港のテレビで『東京ラブストーリー』が放映されたとき、原作マンガが15万部売れた。少なく見えるかも知れないが、香港の人口は約600万人だ。単純な人口比で換算すると日本なら240万部売れたという計算になる。
 ただ『東京ラブストーリー』のような恋愛ものが香港でヒットしたことは非常に珍しい。香港では基本的に女性はマンガを読まないからだ。やはり武侠ものが主流なのだ。
 黄玉郎のマンガの例で示したように、香港マンガは圧倒的な線の密度でマンガを描いている。すると物語や心理ドラマよりも、一コマ一コマの絵の迫力のほうへとウエイトが傾きがちになっていく。恋愛もののような内面を繊細に語る描写は育ちにくかったのかも知れない。
 また漫画家が会社員として雇用される仕組みも、独立性や多様性を妨げる要因になっているのかも知れない。
 それに、明らかにいって市場が小さい。労働力の流動性が高く、会社帰属度の低い香港のような社会だと、マイナー文化とメジャー文化の交流がなくなり、多様性が育ちにくく、市場も育たない……という悪循環を生んでいるのかも知れない。

台湾マンガ事情

 台湾には「哈日族(ハーリーズ)」と呼ばれる日本文化を愛好する人々がいる。彼らは日本のトレンディドラマやタレントが好きで、サンリオのキャラクターグッズを身につけ、哈日杏子という少女マンガ家兼エッセイストというアイドル的存在を生むほどになった。
  そんな台湾でのマンガ事情はどうなのだろうか。
 台湾では出版社と作家が期間(2~5年)を決めて契約を結び、作品の著作隣接権は出版社が持つが、著作人格権は作家に与えられる。この辺りは日本とほぼ似たような制度だ。
 雑誌連載は原稿料で、単行本は印税だが、部数が少ないと印税率が落ちる。8000部以上なら10%。3000~5000部になると5%だ。
 2000年初頭時、台湾マンガも不況で本の売り上げは1冊2000~3000部といったところだ。新書判1冊75台湾元(1元4円として300円)の場合で印税5%とすると1万1250元(4万5000円)。1万部ヒットとなっても、印税10%で7万5000元(30万円)。月刊だとマンガ単行本が出るのは年に1~2冊だから、相当厳しい。2000年初頭の頃は雑誌が次々に廃刊になっているという背景があり、マンガ家はイラストやゲームのキャラクターデザインなどに転身しているという。

韓国マンガ事情

 続いて韓国のマンガ業界について見ていこう。
 韓国は国家運営のために「反日」を国是としてしまった国だ。国家全体が「反日」という仮想敵を作って感情がコントロールされる一方で、日本文化に対する憧れとコンプレックスは強烈に膨れ上がっていく。日本で活動する韓国女性ライター安里の『東京コリアン純情日記』では次のように書かれている。
「反日感情のイメージが未だに強調される中で、歴史的な認識は日常生活の中ではリアリティをしだいに失っていく。日本文化を批判しながら、韓国人にとって日本のサブカルチャーはあこがれの対象となっている」
 反日感情と憧れの間で、韓国国民の感情は分裂していく……。日本人が大嫌いだけど大好き。韓国人は、日本のことがいつも気になる。韓国人はそういうアンビバレンツを抱える宿命を持った国民性である。

 韓国の大手マンガ出版社ソウル文化社での取材によれば、人気マンガ雑誌『IQジャンプ』は1993年には毎週30万部を売り上げていたが、2000年初頭には3万5000部前後まで落ちている。雑誌売り上げは半減し、単行本売り上げは10分の1になった。
 理由は1997の経済危機以降の不況以外に、貸本屋が定着し、読者が本を買わなくなったこと。そのうえにゲームやネットに若者の消費が向いてしまったことにある。
 出版不況にある日本・台湾・韓国、どこの当事者に尋ねても、マンガが売れない理由を同じように語る。ゲーム・パソコン・携帯電話に若者の消費が向かった。マンガ喫茶や貸本屋(日本では新古書店)で安く読んでしまう。
 でもこれは、出版社自身の自己分析を欠いた視点で、理由を外敵に求め、それを攻撃して溜飲を下げたいだけ……のようにも見て取れる。分析として表層的なものと言わざるを得ない。
 では実際の韓国貸本屋の内部を見てみよう。
 貸本屋に置いてあるマンガの7割が韓国マンガで、3割が日本のマンガだ。若い人は日本のマンガを読むが、ある一定以上年齢が上の人は日本のマンガを一切読まない。
 「ある一定以上年齢が上」……というのは60年代以前生まれの若者のことを指す。この世代は「三八六世代」と呼ばれ、60年代生まれで80年代頃が学生時代で、2000年初頭頃に30代になる世代達だ。この世代はマンガ世代であると同時に、猛烈な反日愛国教育を受けた世代で、マンガを読むにしてもやはり愛国的に韓国マンガしか読まないのだという。その下の世代になると日本マンガを読むことに抵抗がなく、このあたりで社会的にも世代間断絶が存在している。

 韓国では日本のように出版物の数量データが揃ってないので、出版関係者が独自に試算した推定しかないのだが、韓国マンガの年間売り上げはおよそ5000億ウォン(2000年初頭時のレートで500億円)、マンガとアニメを合わせると3兆ウォン(同3000億円)の市場であると推定している。日本のマンガ販売額は1999年で5343億円だから、およそ10分の1ほどということになる。
 1998年の出版総発行部数約1億9000万冊のうち、マンガが約3300万冊で、全体の17.3%を占めている。これだけ市場占有率が高ければ、立派なマンガ王国である。

 韓国・台湾・香港とマンガを比較して見ると、少女マンガの割合に違いが見て取れる。香港は少女マンガの市場はほぼ存在しないが、韓国と台湾では少女マンガが受け入れられている。正確ではないが、業界人の肌感覚でいうと、台湾における少年マンガと少女マンガの比率は3分の1くらい。作家達も30%くらいが少女マンガではないか……と語る。少年誌の読者も4割くらいが女性、マンガ全体の読者でいうと6割が女性ではないかといわれている。
 これはどういうことだろう?
 有力な説が、徴兵制の問題である。韓国と台湾には徴兵制があり、男性は20代の早い時期に1年半~2年の兵役に課せられる。この時期はマンガ読みとしても重要な時期なのだが、兵役中の期間でボコッと抜けてしまうことになる。しかも、兵役を終えて戻ってくると、大抵の男性はそのままマンガを読まなくなる。
 これに対する裏付けなのかどうかわからないが、韓国と台湾を取材したとき、どちらのマンガ出版社でも女性社員がやたら多かった。半分は女性だったんじゃないか、というくらいだ。男性は徴兵によってマンガ読みの習慣を失ってしまうが、徴兵とは無縁の女性達はその後もマンガを読み続けて、やがて作り手も女性が多くなっていく……ということなのかも知れない。

本の感想文

 本の紹介はここまで。
 これは1999年の話。夏目房之助さんはニューヨークのジャパン・ソサエティという文化交流団体が主催したアニメ・シンポジウムのパネラーとして招待されていた。同じく招待されていたのは押井守監督。
 同じイベントに参加したので、休憩中の何でもない会話でこんな質問をしてみたという。  1995年、『GHOST IN THE SHELL』が全米ビルボードランキング1位を獲得するほどの大ヒット。よほど権利料が入ってきたんでしょうねぇ? と尋ねたのだ。
 すると、
「ぜんぜん入ってこないんです」
 という答えだった。
 どうやら米国エージェントは1円たりとも払ってくれなかったそうだ。日本側は裁判を起こすほどのお金もないので、諦めるという話だった。
 米国で『GHOST IN THE SHELL』が大ヒットしたというのは事実だ。しかし、その作り手たる押井守監督のところには1円たりとも入ってきていない。これが海外でビジネスをするときの難しさだ。

 2010年頃、日系エンタテイメントという雑誌にこんなデータが載った。
 日本のコンテンツが海外でどれくらい売れているか、それに対してどの程度日本が収入を得ているか、というデータだが……。

日本のコンテンツが海外でどれだけ売れているか 2010年頃のデータ

 キャラクター市場の概算だが、どうやらトータルで出しているらしく、日本アニメキャラクターのみで抜き出すと2100億円だそうだ。どちらにしても、日本が得ている収入はやたらと少ない。ざっくり1800億円がどこかに消えていることになるが、どこに消えているかというと、現地の販売業者が吸い上げてそのお金は日本に支払われていないのだ。
 一方のゲーム事業の方は、海外市場で得たお金と日本への収入との間にギャップが少ない。これはゲーム会社が何年も前から海外法人を立ち上げ、きっちりとしたローカライズを行い、それで得た収入を日本に入れていたからだ。ゲーム業界は世界に向けたローカライズ、宣伝、収入までをきちんと考ている。これがマンガ・アニメ業界との大きな差である。
 アニメにまつわる問題はこれもまだ良くなったほうで、70年代や80年代まで遡ると、欧米は日本から買ったライセンスを勝手に他に国に転売したり、さらに作品に手を加えて自分のオリジナル作品として主張し、独自のグッズ販売をして儲けていた。これらのお金は1円も、日本に入ってきていなかった。日本がお金を得ていたのは、ライセンスを売るときだけだった。
 これは昔の話だからもはや仕方ない……というしかない。複雑な話で、欧米で勝手にライセンスが転売され、勝手に放送されていたという経緯があって欧米に日本アニメオタク第一世代が作られた。何にでも「副産物」というものはあるのだ。その当時の問題を取り上げて、良かったか悪かったのか……なんて今の時代に言っても意味がない。
 問題なのは、それが大昔の話だけ……ではなく現代もそう変わっていないことだ。「アニメが世界で人気」これは事実だが、しかし日本人は得るべき利益を得ていない。

 欧米との付き合い方というのは難しく、あるとき、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーが海外のプロモーターに対し、高圧的に権利を主張する場面がドキュメンタリー番組で流れた。その光景をよく覚えている。
 どうしてあそこまで強気に発言しなければならないのかというと、日本人相手にするように「いや、それはいいですよ~」なんて言ってしまうと、欧米のビジネスマンは本当に1円たりとも払ってくれないからだ。はっきりした口調で、「ロイヤリティはきっちり10%よこせ」と言わないとダメ。相手の良心に甘えてはいけない。欧米でビジネスをやるときは、きちっと発言することが大事だ。それが、日本人にはやや高圧的な態度にも見えてしまう。

 本書には、夏目房之助さんがフランクフルトの国際ブック・フェアを訪れたときの様子が描写されている。2000年は第1回のコミック展が開催されていて、若者を中心に大きな反響を生んでいた。
 この出版見本市は10棟近いビルの集合体で行われ、14ほどのフロアを歩く遊歩道やシャトルバスで移動しなければならないほど巨大なものだった。日本のマンガ出版社ブースはどこにあったかというと、ブースの中心からビル一つ隔てた、ずっとずっと奥のビルの中にあった。
 会場では関係者が賑やかに動き回って交流し、あちこちで商談が交わされていた。その時日本ブースはどうしていたかというと、会場の隅っこの方でボーっと立っているだけだった。
 日本ブースの様子を覗き込んでみると、置かれているパンフレットが全部日本語。しかもそこに来ていたスタッフは誰一人、英語すら喋れなかったという。

 このエピソードには関係者による色んな勘違いの結果起きた話だが、何にしてもこのやる気のなさが問題だ。香港では少なくともマーケティング専用のスタッフがいる。しかもマンガを世界に売り込みをしたいという目標を持って英語を勉強し、権利問題の勉強もしっかりやっている。
 アメコミはどうだろうか。DCコミックの場合、制作スタッフ3人に対してマーケティングスタッフは5人だ。漫画の制作スタッフより、マーケティングスタッフの方が多い。作品を作ったらとにかくも売ること、売ると同時に権利を守ることも大事だから、権利関係に強い弁護士は必ず付けるという徹底ぶりだ。それくらいの気合いを入れて、コミックを売ろうという熱気があちらにはある。
 一方の日本はどうだろうか? 確かに日本のアニメやマンガは、世界中で評判だというのは事実だ。しかし日本人はその「世界で人気だ」という言葉に甘えてしまっている。権利も主張しないし、お金を与えてくれるのを待っているだけ。自分から行動を起こさないのに、「どうして海外のユーザーはお金を落とさないんだ」とか言っている。
 上のフランクフルトでの国際ブック・フェアのエピソードにしても、日本人関係者が現地語のパンフレットを用意しなかったのは、「日本のマンガは世界で人気なんだから、当然あちらの人も日本語が読めて当然だろう」という、トンデモなく傲慢な考えによるものだったという。そんな甘え姿勢が世界で通用すると思っていることが、日本のマンガ業界に弱いところだ。鈴木敏夫プロデューサーのように、はっきりした口調で「ロイヤリティはきっちり寄こせ」と言うくらいのことはするべきである。

 日本のマンガ・アニメが世界で人気……という話を聞くとき、大抵の人は勘違いをする。日本はかなり特殊なお国柄で、最近日本では『鬼滅の刃』大ヒットで、店に行くとありとあらゆる『鬼滅の刃』コラボグッズを見かけるくらいの社会現象が起きた。日本人は、「世界で人気」と聞いたら、世界でも同じような現象になっているのだと思い込む。だがはっきりと「それほどではない」と断言していこう。
 毎日新聞の記事に、こんなものが掲載されていた。
「一口に日本マンガやアニメが海外で人気、とかいっても、子ども向けのテレビアニメとして人気のあるものと、ハイティーン以上のマニアだけが熱心に愛好するものとに二極分離していて(略)少品種大量販売型の商品と多品種少量販売型のものに極端に分かれていて、日本で言うと『週刊少年チャンピオン』で人気があるもののような、中間層がないのだ。それだけ市場が一般的な広がりを持っていないということで、そこをちゃんと見極めておかないと、有力なコンテンツとかいって浮かれていると足元をすくわれるだろう」
 珍しく毎日新聞にしては真っ当なことが書いてある。
 上の記事で書かれている分析は事実で、ほとんどが子ども向けかマニア向けかのどちらかで、その中間を埋めるものがない。本書で夏目房之助さんは、日本では子供向けマンガから中高生向けマンガ、青年向けマンガと一段ずつ段階が用意されているが、海外ではこの体制ができていない。確かに子供向けマンガのヒット作(『ポケモン』など)はあるのだが、その次の層にぽっかり穴が開いていて、さらに上の方でいきなり玄人しかいないマニアの世界があるという状態だ。
 そのどちらにおいても、さほど大きな潮流を持っているというわけでもない。人気といえば人気だが、その実態には相当な「勘違い」がある。
 だから日本側が戦略を持って海外展開するならば、子ども向けの上に少年向け、その次に青年向け、その上に大人向けやマニアックな作品を持っていくべきだ……と提唱されていた。「抜けている穴」を一つ一つ埋めていこう……という提唱である。

 海外作家を日本の作家に会わせると、日本作家は「日本のマンガのほうが売れているし優れている」という態度をあからさまに出して話をし始める。通訳もそれで困る……という話が本書には載せられている。日本の作家による「日本のマンガが一番売れて一番偉い!」という勘違いで、それで世界の作家を下に見ようとする癖がある。日本の漫画家なんてものは普段は根暗で卑屈でウジウジしているくせに、こういうときはこれみよがしにナショナリズム全開の「嫌な日本人」に変わる。これも、勘違いが生み出した恥ずかしい傲慢だ。
(率直に言って、恥ずかしいからやめてくれ)
 大事なポイントだが、別にマンガは日本のみの文化ではない。香港や台湾や韓国にも漫画作家は当たり前のようにいて、当然その国にもヒットメーカーもいるし、天才だと称賛される人もいる。日本だけが漫画産出国ではない(ついでにアメリカ発、フランス発の漫画家もいる)。日本人だけが、漫画は日本だけだと思い込んでいる。日本の漫画作家はそういうことを知らず、「お前らより俺の方が上」みたいな立場を取りがちなのだ。海外作家に対する敬意を、日本人は平気で忘れる。
 ある日本在住のフランス人は、皮肉っぽくこう語る。
「日本のマンガが世界ですごい、すごいってうれしがってればいいよ。それで外国の悪い連中にひどい目に遭えばいいんだ」

 日本人は相変わらず世界に対して無知だし勘違いをしている。日本のマンガには大いなるポテンシャルがある。それは間違いない。でもその事実に甘えて、海外でのマーケティングを怠ってきたし、海外のプロモーターに言われるままにコンテンツを引き渡してしまい、利益を得られないできた。完全にカモにされている状態だ。日本のマンガやアニメは、カモにされて広まった……というのが正しい。そして今もその後もカモにされ続けている。
 日本のマンガについては誤解も多いが、その誤解を解く努力をしてこなかったのは日本人自身だ。「そのうちわかってくれる」という甘え姿勢でなにもしなかった。それが誤解を生む要因となっている。
 こういう状態にならないためにも、世界のどの漫画家や出版社もマーケティングスタッフや弁護士を手厚く揃えて、懸命に売り込むし色んな事態に対処できるようにしている。もちろん、外国語にも対応している。
 アメリカで最初の『機動戦士ガンダム』がビデオ販売されたとき、字幕担当者がやらかしていた。まずアムロが戦っているのがジオンではなく、「ロボトンインベーター」というエイリアンの設定にされてしまっていた。関係者がそのことに気付いて報告したのだが、バンダイの担当者は英語がわからず問題を放置、売り込みのチャンスを完全に逃してしまった。これが原因でアメリカでの『ファーストガンダム』の認知はかなり遅れた。日本は英語すら喋れない人を、海外のマーケティングスタッフに置いている。やる気があるのかどうかも怪しい。
 それでも「人気がある」というニュースに甘えて、何もせずに来た。どのように、どんな層に人気があるのかも確かめもせずに。数字ベースの情報を確かめず、「人気だ」という言葉イメージだけで喜んでしまっていた。

 今回は本書の中でも、東アジア、特に香港、台湾、韓国という3つの国を取り上げた。なぜかというと、日本人はいまだに欧米コンプレックスが強烈だから、「海外で人気」という話を聞くと、すぐに欧米のことだと思う。でも香港や台湾や韓国でも、しっかり日本のマンガは人気だ。それに、東アジアのほうが日本と文化的相似性が強い。
 欧米の人々が日本のアニメを見るとき、まず文化的な障壁が立ち塞がる。日本のアニメではよくあることだが、子供みたいな顔をしたヒーローが、世界を救うような戦いを繰り広げたりする。欧米の人がこれを見たとき、まずギャグだと思い込む。でも見ているとギャグじゃないぞ、なんだこれは……? となる。マニアは頭の中のチューニングをさっと切り替えて、「子供みたいな顔のヒーローが戦う物語」に適応するが、多数派の人達は最後まで「???」で終わる。「子供のヒーロー」による活劇は手塚治虫が手を付ける以前から既に日本にあった文化だが、西洋にはこんなものはないのだ。
 東アジアのほうが日本文化との相似性が強く、受容も容易だ。例えば欧米では難解な少女漫画も東アジアではスルッと受け入れてくれる。おまけに、香港や台湾や韓国の作家達が描き出す漫画は、作品によっては日本人作家とほぼ区別がつかない。
 一つの例として「萌キャラクター」があるが、台湾人の描いた萌キャラクターは私の目から見ても完璧なクオリティだ。しかし萌キャラクターは欧米からは生まれない。どんなに日本の文化を愛していようと、生み出すことはできない。創作というのは自由ではなく、どうしても自分が持っている背景の文化が強く浮き上がってくるものだ。だから欧米の作家からは『けいおん!』や『ゆるキャン』は生まれない。韓国や台湾でなら生まれる可能性がある。
 日本はコンテンツを世界に売る……という話をするとすぐに欧米の話をしたがる。でももっとも身近な東アジアから狙うべきだ。東アジアから攻めて、次に欧米に展開していく。こちらのほうが正しい戦略だ。いきなり欧米を狙うのは、一段飛ばしで階段を登るような話である。

 話は最初に戻そう。
 どうして漫画が世界で人気であることが重要なのか? 市場規模の話をすると、家電や車の方がよほどお金を稼いでいる。すると「儲かる」ということだけを考えるなら、これからもそっちを推していった方が効率良いではないか。
 しかし家電では「文化の顔」が見えないのだ。欧米の人々はやはり日本人に対して勘違いしているから、「フジヤマ、ゲイシャ、ウタマロ」の国がどうしていきなりハイテク文化を作り上げていったのかわからない。家電や車では「文化の顔」が見えないから、西洋では「日本の製品は質が良く丈夫だ」という評判はあるが、その商品から日本人の文化観は想像しない。
 一方、マンガだと「文化の顔」がダイレクトに見える。マンガにはその時代ごとの日本の世相がきっちり描かれているし、描かれているもので文化観が見えてくる。戦後数十年かけてようやく獲得した私たちの「文化の顔」がマンガなのだ。
 しかし私たちは自身の「文化の顔」がどんな姿をしているか自覚がなく、過大に自己評価したり、勘違いもしたりしている。2020年代でもまだそんな感じだ。
 欧米の知的階層ほどマンガに対して偏見を強く持っている。欧米の知的階層が「日本的」として愛着を持っているのは未だに能やお茶や武道だ。マンガではない。知的階層ほど、マンガといえばマスコミの歪曲報道でしか接していないから、日本のマンガには「セックスと暴力」しかないと思い込んでいる。確かにマンガには「文化の顔」が映っているが、その「文化の顔」を欧米の知的階層はいまだに真面目に分析して見せたことはない。
 ただ、そういう話を「クールジャパン」などと宣っているお歴々が理解しているかどうか……。日本の知的階層も、「文化の顔」としてマンガを見ていない。むしろわかっているのは、ごく普通の人々の方だ。
 マンガについて色々語ってきたが、マンガは「サブカルチャー」ではないが、しかし「ハイカルチャー」ではない。マンガの単行本はせいぜい500円だ。一番安く手に入る大衆娯楽がマンガだ。「芸術」ですらない。あくまでも「大衆文化」「大衆娯楽」だ。変に勘違いせず、あくまでも「大衆娯楽」でしかない、という振る舞いはやはり大事だ。そこに「文化の顔」が乗っていたとしても、だ。
(大衆文化でしかないから、欧米の知的階層はマンガを低めに見ている。欧米での「文化の顔」といえば常にファインアートだからだ。「文化の顔」が浮かび上がっている場所が違う、ということも認識したほうが良いだろう)

関連記事


この記事が参加している募集

読書感想文

とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。