見出し画像

2種類の判断

ポール・グレアム(Paul Graham)が執筆したエッセー「Two Kinds of Judgement」の日本語訳になります。

2007年4月

人びとがあなたを判断する2つの異なる方法がある。時にはあなたを正しく判断することが最終目標である。でも、最終目標がそうではない2つ目のはるかに一般的なタイプがある。私たちは自分たちのすべての判断を最初のタイプと見なしがちである。どれがそうで、どれがそうでないのかを理解していたら、私たちはおそらくより幸せであるだろう。

最初のタイプの判断は、あなたを判断することが最終目標であるタイプで、裁判・クラスの成績・ほとんどの競争を含む。このような判断は当然間違っている可能性があるが、目標はあなたを正しく判断することであるため、通常は何らかのアピール・プロセスがある。自分が誤って判断されたと感じたら、あなたは自分が不当に扱われたことに抗議することができる。

子どもに関するほぼすべての判断はこのタイプであるため、私たちは人生の早い段階ですべての判断がこのタイプであると考える癖がつく。

だが、実際には2番目のはるかに大きい種類の判断があり、あなたを判断することは何か他のものの唯一の手段である。これらは大学入学・雇用と投資の決定・もちろんデートで下される判断を含む。このような判断は実際にはあなたについてではない。

国の代表チームの選手を選ぶ誰かの立場に自分の身を置いてみてください。分かりやすくするために、これはポジションがないゲームで、あなたは20人のプレーヤーを選ぶ必要があると仮定する。明らかにチームの一員になるべき数人のスターと、明らかにチームの一員になるべきではない多くのプレーヤーがいるだろう。あなたの判断が違いを生む唯一の場所はボーダーラインの場合においてである。あなたがしくじって20番目のベストプレーヤーを過小評価し、彼をチームの一員にならないようにさせ、それに彼の場所が21番目のベストプレーヤーに取られたと仮定する。あなたは依然として良いチームを選んだ。プレーヤーに通常の能力分布がある場合、21番目のベストプレーヤーは20番目のベストプレーヤーよりも少しだけ悪いだろう。おそらく彼らの差は測定誤差よりも小さいであろう。

20番目のベストプレーヤーは誤った判断をされたと感じるかもしれない。しかし、あなたのここでの目標は、人びとの能力を推定するサービスを提供することではなかった。目標はチームを選ぶことであり、20番目と21番目のベストプレーヤーの差が測定誤差よりも小さい場合、あなたは依然としてチームを選ぶことを最適に行った。

このような誤った判断を述べるために、不公平という言葉を使うことでさえ誤った例えである。この例えは、特定の個人の正しい推定値を作り出すことを目的としているのではなく、合理的に最適なグループを選ぶことを目的としている。

私たちをここで道に迷わせる1つのことは、選択者が権力の座にいるように見えることである。これは選択者を裁判官のように思わせる。あなたが自分を判断する誰かを裁判官ではなく顧客と考えると、公平性への期待は消えていく。良い小説の著者は、読者がいやらしい表紙の金目当ての粗悪な作品を好んでいることに関して不公平であると不満を言わないだろう。おそらくバカげたことではあるが、不公平ではない。

私たちの初期の訓練と自己中心性は、自分たちのすべての判断が自分たちに関するものだと自分たちに信じさせるために組み合わさる。実際には、ほとんどはそうではない。これは、自己中心性が低いことが人びとにより自信をつけさせるであろうめったにないケースである。あなたを判断するほとんどの人たちがあなたを正確に判断することにどれほど関心がないのかにあなたが気づいたら(ほとんどの応募者プールの正規分布により、まさしく判断が最も影響する場合において、正確に判断することは最も重要ではないことにあなたが気がついたら)、あなたは拒否をあまり個人的には受け取らないだろう。

不思議なことに、拒否をあまり個人的に受け取らないことは、拒否される頻度を低くするのに役立つかもしれない。あなたを判断する誰かがあなたのことを正しく判断するために一生懸命に取り組むだろうとあなたが思うのなら、あなたは受動的になる余裕がある。しかし、ほとんどの判断がランダムで無関係な要因に大きく影響されることにあなたが気づくほど(あなたを判断するほとんどの人たちは、賢く洞察力の鋭い裁判官というよりもむしろ気まぐれな小説の買い手のような感じである。)、あなたは自分が結果に影響を与える物事を行うことができることに気づきやすくなる。

この原則を適用する1つの良い場所は、大学の願書の中である。大学に出願するほとんどの高校生は、普通の子どもの劣等性(入学審査委員会は全てを見通しているに違いない、とほとんどの高校生が思い込んでいる点での劣等性。)と自己中心性(願書を深く探って出願者が良いかどうかを見極めるため、入学審査委員会は自分たちに十分な関心がある、とほとんどの高校生が思い込んでいる点での自己中心性。)の組み合わせと一緒に大学の出願を行う。

出願者を出願するのに受動的にするために、また出願者が拒否されたときに傷つけるために、劣等性と自己中心性は組み合わさる。大学の出願者がほとんどの選考プロセスがいかに速く人間味のないものであるかに気づいたとき、彼らは自分自身を売ることにより多くの努力をし、その結果をあまり個人的には受け取らないだろう。


読んでくれて、ありがとう🙋🏻‍♂️ もしこのnoteが気に入ったら、「❤️」ボタンを押したりTwitterでシェアしたりしていただくと喜びます👍🏻 🆕 Jackを応援するパトロンになりませんか?👀 https://note.com/tokyojack/circle