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#671 逍遥の言説をまんま引用するところがずっと続きますpart2

それでは今日も森鷗外の「早稲田文学の没理想」を読んでいきたいと思います。

造化すでに没理想なり。造化に似たる没理想の詩を作るものは大詩人なるべし。こゝに於いてや人にはシエクスピイヤを取り、体[テイ]には「ドラマ」を取る。

ここの「ドラマ」は演劇のことですね。

#667で紹介した「シェイクスピア脚本評註緒言」で、逍遥は、こういう言い方をしています。

恐らくはシェークスピヤと雖も、若し散文にて悲劇を綴らば、悉しくいへば、小説の体にて綴りしならば、幾段か値段を下しゝなるべし。

それでは引き続き、鷗外の「早稲田文学の没理想」を読んでいきましょう。

シエクスピイヤがバイロン、スヰフトより大なるは彼は理想なく、此はおのが理想をあらはせばなり。「ドラマ」の小説より全きは、彼は理想なく、此は作者の理想を含みたればなり。作者能く理想無きに至るときは、人に神の如くにもおもはれ、聖人の如くにもおもはれ、至人の如くにもおもはるべし。近松も没理想なり。彼も境遇次第にては、たとひシエクスピイヤには及ばずとするも、我国の浄瑠璃作者にて終らむよりは逈[ハルカ]に優りたる位地に上りぬらむ。

#665で紹介した「シェイクスピア脚本評註緒言」で、逍遥は、こういう言い方をしています。

近松をもてはやすもの増加するに至りなば、たとひシェークスピヤに及ばずとするも、是等多人数の功力にても我が国の浄瑠璃作者にて終らんよりは、はるかにまさりたる位置に上りつらんかし。其の故は、近松の世話物も、シェークスピヤの作に似て、頗る自然に肖たればなり。斯くいへばとて、シェークスピヤを貶して、浄瑠璃作者の亜流なりといふにはあらず。

それでは引き続き「早稲田文学の没理想」を読んでいきましょう。

「キング、リヤア」の悲劇は馬琴の作に似て勧懲の旨意いと著く見えたれども、作者みづからが評論の詞、絶えて篇中になきゆゑ、見るものゝ理想次第にて強ち勧懲の作とも見做すを要せず、別に解釈を加ふること自在なり。然るに曲亭の作を見れば、例へば蟇六夫婦の性格の如き、頗る自然に似て活動したれども、作者叙事の間にて明[アキラカ]に勧懲の旨なりといへれば、人も亦没理想と評することは能はずと。

#667で紹介した「シェイクスピア脚本評註緒言」で、逍遥は、こういう言い方をしています。

『キング・リーヤ』の悲劇は、馬琴の作に似て、勧懲の旨意いといちじるしく見えれども、作者みづからが評論の詞絶えて篇中に無きが故に、見るものゝ理想次第にて、強ち勧懲の作と見做すを要せず。別に解釈を加ふること自在なり。しかるに、曲亭の作を見れば、例へば、蟇六[ガマロク]夫婦の性格の如き、頗る自然に肖て活動したれども、吾人はこを没理想とは評せずして、勧懲の旨に成れりといふ。作者が叙事の間に明かに然いへればなり。

ちなみに、蟇六夫婦は、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の登場人物です。

ここまでは、ず~っと、逍遥の評論を丁寧に追っていますね。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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