tokkodo/とっこうどう
#667 没理想の詩の無限の興味は実に其の度量の大洋の如き
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#667 没理想の詩の無限の興味は実に其の度量の大洋の如き

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それでは今日も坪内逍遥の「シェークスピア脚本評註緒言」を読んでいきたいと思います。

恐らくはシェークスピヤと雖も、若し散文にて悲劇を綴らば、悉しくいへば、小説の体にて綴りしならば、幾段か値段を下しゝなるべし。其の叙事の中に、おのが理想のあらはるゝことを避けがたかるべきが故なり。例へば、『キング・リーヤ』の悲劇は、馬琴の作に似て、勧懲の旨意いといちじるしく見えれども、作者みづからが評論の詞絶えて篇中に無きが故に、見るものゝ理想次第にて、強ち勧懲の作と見做すを要せず。別に解釈を加ふること自在なり。しかるに、曲亭の作を見れば、例へば、蟇六夫婦の性格の如き、頗る自然に肖て活動したれども、吾人はこを没理想とは評せずして、勧懲の旨に成れりといふ。作者が叙事の間に明かに然いへればなり。芭蕉が『古池』の句に、様々の解あるも同理なるべく、『源語』の本意をいろ/\に臆断するも、同理なるべし。此の例証尚ほ甚だ不足なれども、没理想の必ずしも大理想にあらざることゝ、小理想の時としては没理想とも見ゆる由は、之れにてほゞ知らるべし。兎に角に、予は没理想の作を理想をもて評釈するとのいといと要なかるべきを信ずるが故に、此のたびの評釈にては、主として打見たる儘の趣きを描写することを力め、我が一料簡の解釈をば加へざるべし。但し右とも左とも見らるゝ場合には、止むを得で古人の評釈をも引用し、予が卑見をも抒ぶることあらん。若し夫れ全体の解釈は、読者みづから之れをなせ。理想、日本大ならん人は、日本国を『マクベス』の脚本中に見出だすべく、理想、宇宙大ならんは、宇宙を『マクベス』の中に見出だすべく、理想万古に亙らんは、eternityを『マクベス』の中に見出だすべし。没理想の詩の無限の興味は実に其の度量の大洋の如き所にあるなり。

というところで、「シェークスピア脚本評註緒言」が終わります。

没理想論争の流れでいうと、このあと舞台は、1891(明治24)年11月『早稲田文学』第三号へと移ります。そのタイトルが「我れにあらずして汝にあり」です。この評論は、「シェークスピア脚本評註緒言」同様、1896(明治29)年9月に春陽堂から出版された『文学その折々』というエッセイ集に収録されるのですが、「シェークスピア脚本評註緒言」は「『マクベス評釈』の緒言」というタイトルに改題され、「我れにあらずして汝にあり」は、(明治二十五年一月、こは暗に某批評家の嘲難に答へし文なり。)というサブタイトルが付きます。このカッコの年月が発表年月と食い違っているため、紛らわしいのですが、ここでいう「某批評家」というのは、森鷗外ではないようです。鷗外が「山房論文其七 早稲田文学の没理想」という批判文を、自身が創刊した『しがらみ草子』27号に掲載するのは、1891(明治24)年12月のことです。つまり、「我れにあらずして汝にあり」を「掲載したあと」に鷗外の批判が始まるのですが、のちに逍遥が勘違いをして、「掲載する前」、つまり「シェークスピア脚本評註緒言」を読んで批判してきた鷗外に答えるかたちで、この「我れにあらずして汝にあり」を書いたと思った可能性があるのです。

ということで、このあとは「我れにあらずして汝にあり」を読んでいきたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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古本屋を営んでいます。本を読むのが好きです。