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#977 みっつの「誤解」、みっつの「個人」、みっつの「資格」

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

假に一歩をゆづりおきて、逍遙子の三資格に明なる區別あるとき、評者はこれを守るべきものとせむか。

鷗外は逍遥に対して三重の誤解をしていると、逍遥は指摘します。それは逍遥の資格を分けることなく論じているというもので、ひとつが、雑誌記者としての逍遥と、当世に対する逍遥の混同、ふたつめが、無限の欲を持って絶対に心を寄せる逍遥と、有限の欲を持って当世に処せんとする逍遥の混同、みっつめが、絶対に対する逍遥と、吾人と名乗る逍遥の混同である、と。(#931参照)
これに対して鷗外は、逍遥の「個人」をみっつに分類します。絶対に対する没理想を奉ずる逍遥、シェークスピアの戯曲に対する没理想を奉ずる逍遥、腹稿主義を奉ずる個人逍遙、です。で、このみっつの「個人」を、みっつの「誤解」と絡めて、みっつの「資格」として組み立て直します。それが、ひとつめが、絶対とシェークスピアの両種の没理想を奉ずる個人逍遙、ふたつめが、腹稿主義を奉ずる個人逍遙、みっつめが、腹稿主義を奉ずる早稲田文学記者たる逍遙、です(#976参照)。

所謂第一誤解の條に見えたる區別はいと覺束なきものなるべし。故いかにといふに個人たる逍遙も時文評論記者もその腹稿主義を奉ずるところ相同じければなり。次に第二誤解の條に見えたる區別もまたいと覺束なきものなるべし。故いかにといふに絶對に對する逍遙こそ記者をばなさずといへ、對相對逍遙は記者をもなし、個人をもなせば、對絶對個人と對相對個人とは、その並に個人なるところ相同じければなり。さて第三誤解の條に見えたる區別も亦いと覺束なきものなるべし。故いかにといふに對絶對逍遙は記者をなさずといふといへども、個人逍遙は對相對なること記者におなじき時あればなり。
逍遙子の三資格の區別は、その明ならざること是の如し。されどたとひ此區別明なることありと雖も、そのいろ/\の資格にありて唱ふる論を、かれこれと併せ考へて、わが批評眼のそのすべての資格に通ずる論なることを認むるときは、批評の上にて復た論者の諸資格の區別を顧みざることあるべし。されば逍遙子まことにわれを以て人を誣しふるものとし、常識なきものとし、資格を重ぜざる時弊に染みたるものとなさむとするときは、宜しくわが逍遙子の諸資格の區別を顧みざりしを證するを以て足れりとせずして、おのれが諸資格の區別の明なりや、あらずやを考へ、次におのれが論旨のおのれが諸資格に通ずるや、あらずやを考ふべし。
われはこれより逍遙子が對絶對及對相對の兩生涯に及ばむ。
逍遙子が對絶對生涯はその後沒理想期においては、絶對に對して哲學上乃至形而上論上に見る所なきことを指示するに過ぎず。その欲無限の我といふものは無限なる造化を無限ならしむといふに過ぎず。この地位の事に關しては、下方にて雅俗折衷之助が軍配に對する我が反撃の條にしるすところを參看せよ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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