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#931 鷗外は逍遥に対して三重の誤解をしている

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

将軍はわが地位を聖教量と看倣して、我れが一切世間の法に説き及ざるを惜むと嘲られたれど、我れが将軍が、ひたすら終の絶対(覚後の空)のみを絶対として、始の絶対(覚前の空)に眼を着けられざりしを見て、かの鰈[カレイ]の一面のみを標準として、黒しといふものゝ非を詰るに似ざるや否やを疑ふ。未だ没理想を、本領の信仰とはせずして、現に尚發途點にあらんものが、いづくんぞ法を説くべき緒[イトクチ]を得んとすらん。将軍が注文も少[スコシ]く理[ワリ]なしと云ひつべし。要するに、将軍は三重に逍遥を誤解したり『早稲田文学』なる「時文評論」に於て吾人と名宣りて、記実と、報道と、批評とをものする逍遥といふ雑誌記者と、一個の文人として、當世に対する坪内逍遥とを混同したる、之れを第一の誤解とす。(此の別明かならざりしか、否か、乞ふ早稲田文学、第一號以下に就きて見られよ)。さはれ、此くの如き誤は、資格を分かつことを重んぜざる當世の習ひなり、思ふに、此の段は将軍の誤解といはんよりも、むしろ資格を分かてる由を断らざるわが抜目なりといひつべし。我れ敢て此の點について、将軍を責むるものにあらず。
さて其の次ぎには、無限の欲を持して絶対の研窮に心を寄せんとする逍遥と、有限の欲を持して當世に處せんとする逍遥とを、全くわいだめなく見倣されたり、之れを第二の誤解とす。さりながら此くの如きも、尚強ちに無理なりとは申すまじ、ひとり彼の絶対に対する逍遥と、吾人と名宣れる逍遥とを、つゆわいだめなく混同して(第三の誤解)わが齟齬せざるを齟齬なりと誣倣[シイナ]し、わが矛盾ならざるを矛盾なりと詰責し、逆[サカサマ]に論を搆へられたるは、論理にいと精[クワシ]き将軍が軍配としては(たとへ敵智の妙算としては服すといふとも)、少しく理[ワリ]なしと感ぜざるを得ず。

そっか……没理想論争は、「近代的自我」がもたらす「自己同一性」との戦いでもあったんですね……

苟も常識あるらん人は、「時文評論」にて吾人と名宣れる逍遥と「マクベス評註」の緒言に片影をあらはして、後に烏有先生が非難に答へんために没理想の語義を辨じたる逍遥との間には、(没理想は絶対に対する方便なりと断りつれば)、差別あることを見出だし得るならん。向[サキ]に烏有先生に答ふるに當たりて、件の差別あるを説かざりしは、我れはじめより戦を好まざればなりき、我がひたすらに我が非を挙げて、我が粗漏を自認したるにも拘らず、敵者たる烏有先生が誤解したる廉を、一つだに敵智をもて咎めざりしは能く知る人ぞ知りつらん。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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