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#990 知らむやうなし、もとより勝手たるべし

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を途中ですが振り返っていきたいと思います。

ここから先は、ほぼ一問一答形式で話が進んでいきます。

逍遙が知らざるところはシエクスピイヤの主觀(實は實感)なり。鴎外はシエクスピイヤが曲を、無意識中より作者の意識界を經て生れ出でたるものなりといひき。さらば鴎外はシエクスピイヤといふ作者の主觀(實感)をも知りたる筈なれば教へよとなり。(#979参照)

鷗外は次のように答えます。

シエクスピイヤが實感(早稻田黨の所謂主觀)若くはその哲學上所見(彼の所謂理想)をばわれとても、逍遙子がシエクスピイヤの諸傳記を讀みて知り得べきだけより多くは、知らむやうなし。わが無意識より出づる詩の事をいひしは、大詩人の詩は斯くあるべしと推論したるにて、わが地位にありては始より徒勞なるべうおもはるゝ、シエクスピイヤが實感若くは其哲學上所見とシエクスピイヤが戲曲とを比べ考へたる論にはあらず。われ豈逍遙子が如きシエクスピイヤに邃[オクブカ]き人に向ひてことあたらしく教ふべきことあらむや。(#979参照)

知るわけねぇだろ!って感じですねw

で、次です。

鴎外はシエクスピイヤが詩人たる技倆、シエクスピイヤが詩の質を逍遙が評のうちに求めたり。されどかの技倆といひ、質といふものはシエクスピイヤが主觀(實は實感)にして、シエクスピイヤが主觀は逍遙の見えずといへるものなるを、鴎外強ひて問はむとせば、そは論理に違ひたるべしといふ。(#979参照)

鷗外は次のように答えます。

詩人の哲學上所見と其實感とは必ずしも其詩の價値を上下するものにあらず。二つのものは詩境の外にありて、僅に影響を詩に及ぼすものなり。されば詩の質をば、われその作者を知らずといへども、猶これを評することを得べし。詩の質にして妙ならば、われその作者の技倆のすぐれたるを推知することを得べし。(#979参照)

詩人の主観を知らなくても、詩の質を評することはできる、と。

で、次です。

沒理想(實は形而上論上無所見)の語を造化に對して方便として用ゐるは可なりやといふ。(#980参照)

鷗外は次のように答えます。

われはこれに對して諾ともいふべく否ともいふべし。いかなればか我は諾といふことを得る。答へていはく。逍遙子が理想は哲學上所見の義なり、形而上論上所見の義なり。逍遙子が一時の方便にてこゝに見るところなしといはむは固より勝手たるべし。さて此義を語るに沒理想の三字を用ゐるは、あまたの不利あるが如くなりといへども、必ずしも他人の遮り留むべきことにはあらず。かるが故にわれはしばらくこれを諾して、そのこれを用ゐることの不利を告げおかむとす。(#980参照)

といって、「没理想」という三字を用いることの不利を述べるのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!


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