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#869 日陰の桜に色香を求めるのは無理であろう

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

鷗外は、逍遥の「小説三派」の三分類、すなわち固有派・折衷派・人間派を、ハルトマンの哲学に当てはめ、固有派を「類想」、折衷派を「個想」、人間派を「小天地想」と言い換えます。

逍遙子とても、固有、折衷、人間の三目を立てゝ流派とせしは、あながち尊卑を其間に置かざりしにはあらざるべし。折衷派だに稀なる今の我小説界にて、人間派を求めむは、文學に忠誠なる判者の事にあらずとやうに、時の務[ツトメ]をおもひて、迂濶[ウカツ]なる批評家をおどろかさむとしたる蹟[アト]、歴々として見ゆるならずや。
されば逍遙子が類想、個想、小天地想といふ美の三級を藉[カ]りもて來て、今の文界の衆生[シュジョウ]のために、盛[サカン]に小乘を説きしは、おそらくは是れ作者あはれとおもひてならむ、批評家憎しとおもひてならむのみ。逍遙子は類想の固有派、個想の折衷派、小天地想の人間派の別を立て、さて獅子吼[シシク]をなしていはく。此別を非なりとする人あらむ乎[カ]。

類想「の」固有派、個想「の」折衷派、小天地想「の」人間派、と言われてしまっては、もう批評というよりは、身勝手な解釈ですよね……

其人は事物の平等を見て、差別を見ざる人なり。世に絶對あるを知りて、相對あるを知らざる人なり。一あるを知りて、萬億あるを知らざる人なり。國家あるを知りて、われあるを知らざる人なり。我あるを知らざるは死せるなり、死灰なり。現[ゲ]に類想、個想、小天地想の別だに知らで、批評の業に從ふ輩[トモガラ]は、かく叱咤[シッタ]せられむも可なるべし。然れども彼三派に優劣なしと見よといはばいかに。

逍遥は「小説三派」でこんな風に言っています。

此別を非なりとする人あらん乎[カ]、其人は事物の平等を見て差別を見ざる人なり、世に絶対あるを知りて相対あるを知らざる人なり、一あるを知りて萬億あるを知らざる人なり、宇宙あるを知りて國家あるを知らざる人なり、國家あるを知りて我あるを知らざる人なり、我あるを知らざるは死せるなり死灰なり。(#789参照)

鷗外の「逍遙子の諸評語」に戻りましょう。

逍遙子は類想派は常識の如く、個想派は理學の如く、小天地想派は哲學の如くなりといへど、若[モシ]譬[タトエ]を進めて、哲學は科學の親なるゆゑに、小天地想派は常に個想派に優れり、常識は科學の材たるに過ぎねば、類想派は最下なりといはゞ、大[オオイ]なる僻事[ヒガゴト]ならむといへり。

逍遥は「小説三派」でこんなことを言っています。

併[シカ]しながら此等の比喩は其質を評せるのみ、必しも三派の優劣をいへるにあらず。然るを若[モ]し比喩を進めて、哲学は科学の親なるゆゑに人間派は毎[ツネ]に人情派に優れり、常識は科学の材たるに過ぎねば物語派は最も下なりといはゞ、是恐らく非事[ヒガゴト]ならん。(#786参照)

ふたたび鷗外の「逍遙子の諸評語」に戻りましょう。

われおもふに恐らくは然らず。哲學は科學の親なる如く、個想に小天地の義あり。ダルヰン、ハツクスレエが説、謬妄[ビュウモウ]哲理に優りたるはダルヰン、ハツクスレエが説の中に世界の眞理あればなり。謬妄哲理の彼等が歸納説に及ばざるは、その謬妄なるためにて、苟[イヤシ]くも近世の哲學統といはれむ程のものは、ダルヰン、ハツクスレエが説をも容れざるべからず。(ハルトマンが「ダルヰニスムス」の論を見よ)類想の卑[ヒク]きは模型に盡くる期ありといひしハルトマンが言を見ても知るべからむ。逍遙子は想に縁[ヨ]りて派を立て、これを梅櫻の色殊[コト]なるに比べ、類想派の作家に向ひて、個想派の作を求めむは、ふりたる梅園に向ひて其花の櫻ならざるを笑ふ如しといひ、今の批評家を烏許[オコ]の風流雄なりといへり。夫れ逍遙子が一味の雨は、もろ/\の草木を沾[ウルオ]すに足りなむ。然れども類想と個想との別はおそらくは梅と櫻との別に殊[コト]なるべし。花に譬へていはゞ、類想家の作も個想家の作も、おなじ櫻なるべけれど、かなたは日蔭[ヒカゲ]に咲きて、色香少く、こなたは「インスピラチオン」の朝日をうけて、匂[ニオ]ひ常ならぬ花の如しとやいふべからむ。日蔭に生[オ]ふる櫻に向ひて、色香深き花を求めむは無理ならむ。その花の色香少きを評せむは、必ずしも無理ならじ。逍遙子は嵐に似たる批評家の花に慈[ジ]ならざるを怪めども、われは逍遙子が花に慈なるに過ぎて、風を憎むことの太甚[ハナハダシ]きを怪めり。若批評の上に絶て褒貶なかりせば、我文界はいとゞ荒野とやなりなむ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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