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#880 「巫女と理想詩人」そして「理想と自然」

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日は、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。

没理想論争第一ラウンドにおける「記実・談理」優先問題で、逍遥が「記実」を優先することに対して、鷗外は「談理」優先を主張します。

高等静論[スタチック]の算法によりて古人が不用意にして静性[スタビリテエト]の極処に至れるを看破してこそ、その美なる所以を知るべきなれ。……若し美の義[ココロ]を砕いて理に入る[ダス ローギッシェ]ことあらずは、審美学は起らざるべし。……逍遙子が記実の文を読むには、大帰納力を具へざるべからず。烏有先生が談理の言を聞くには、当りまへの理解力を備ふるのみにて足れり。(#673参照)

これに対して、逍遥は次のように言います。

審美的批評家の本分は、まことに先生のいはれたるが如し。わが嘗て「梓神子」といふ戯文の中にて、批評の事をいひたる時、世の掻撫での劇評をそしりて深切ならずと難ぜしも、全く同じ心なりき。先生の言は科学的にして、わが言は俗の言葉なれど、本意には差なからんか。(#696参照)

この「批評家の本分」に言及した『梓神子』は、主人公が恐ろしい夢にうなされるところから始まります。家人が、卜者に占わせて病状をあてさせてみては?と勧め、占わせてみると、卜者は眉をひそめて、数多の怨霊に取りつかれているといいます。祈禱に着手する前に神子をたずね、怨霊の口寄せをしたほうがいいと言います。家に帰り、人を四方に走らせ、神子を探します。

そして、逍遥は「巫女」という存在について、こんなふうに表現します。

思ふに彼[カ]の巫[フ]といふもの、尠[スクナ]くとも人の胸懐[ムネノウチ]を読破せんと試むる者ならん。さすれば是れ機[キ]に臨み人に應[オウ]じて自家[ジカ]が想像憶測する所を語るものか、所謂生口[イキグチ]と死口[シニグチ]とは、恐らくは彼が理想中の死霊、生霊の言[コト]ならん。よりて思ふに、巫[フ]の霊[リョウ]に於けるは猶ほ理想詩人の人間に於けるが如くならん。(#816参照)

理想詩人の人間を描くや自然の人間を寫[ウツ]さずして自家が坩堝中[ルツボノウチ]の人間を寫[ウツ]す。故に君子を描きて偽君子[ギクンシ]に類し豪傑を寫して無謀の壮漢[マスラオ]となることあり。然れども理想家決して非[ナミ]すべからず。其理想博[ヒロ]うして能[ヨ]く君子を容れ、豪傑を容れ、菩薩を容れ、佛[ブツ]を容れ、儒、釋、耶、老、荘を容れなば、理想即ち自然とならん。(#817参照)

巫女は理想詩人のようである。理想を広くすれば自然となる。この言説は、「造化の作用」の解釈として、没理想論争第一ラウンドの「シェークスピア脚本評註緒言」で、改めてこんなふうに述べられます。

此の故に、造化の作用を解釈するに、彼の宿命教の旨をもてするも解し得べく、又耶蘇教の旨をもてするも解し得べし。其の他、老、荘、楊、墨、儒、仏、若しくは古今東西の哲学が思ひ/\の見解も、之れを造化にあてはめて強ち当たらざるにあらず。否、造化といふものは、是等無数の解釈を悉く容れても余りあるなり。まことに茫として際なきは造化の法相なりと評すべし。(#662参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!


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